発見記録

フランスの歴史と文学

ゴンクール賞と「反」の構造

2006-01-28 22:14:34 | インポート

ちょうど100年前のフランス雑誌瞥見(1月14日)で写原さんがフェミナ賞についてお書きなのに便乗。

18世紀風サロンの再現はゴンクール兄弟の夢だった。1870年弟ジュール没。エドモンはオートゥイユの家の「屋根裏部屋」le Grenierに文人たちを招く。
アカデミー・フランセーズがバルザックのような真の才能に必ずしも門戸を開いてこなかったことにゴンクールは批判的で、1874年にはフローベール、バルベー・ドールヴィイ、アルフォンス・ドーデ、ゾラらを含む私的なアカデミーの会員をリストにする。名簿は何度も更新された。80年には亡くなったフローベールにモーパッサンが代わる。
http://www.freres-goncourt.fr/

http://www.academie-goncourt.fr/cr_testament.htm

96年エドモン没、遺言によりアルフォンス・ドーデとレオン・エニックはアカデミーと「散文の創作作品」に与えられる文学賞の創設を任せられる。

遺産をめぐるゴンクールの一部家族との法廷闘争(レーモン・ポワンカレが文学者側の弁護士)を経、アカデミー・ゴンクールが生まれた。
1901年4月パッシーのレオン・エニックの家にユイスマンス、オクターヴ・ミルボー、ロニー兄弟、エニック、ポール・マルグリット、ギュスターヴ・ジュフロワが集まる。更にレオン・ドーデ、エレミール・ブールジュ、リュシアン・デカーヴの三人を選出。会員は「十人衆」les Dixと呼ばれることに。

http://www.academie-goncourt.fr/creation.htm

1903年に第1回ゴンクール賞を受けたのは無名の作家ジョン=アントワーヌ・ノーJohn-Antoine Nauの『敵なる力』 Force ennemie  宇宙から来た生命が、詩人である「私」の中に入り込む。錯乱した主人公は精神病院に。
異様におとなしい紳士たち、自分は「アンテクリスト」だと思い込む元司祭、独房の重症者、様々な患者の群れ。副院長格の医師は患者以上にグロテスクな怪物。
詩人はやはり入院中の「ラファエロ前派の夢見た」ような黒髪の女性を情熱的に愛する。肉体を離れ「アストラル体」となって病院を抜け出す。幻想、SF、ロマン主義、自然主義などの分類を無意味に思わせる作品。2000年に復刊(Max Millo Editions)、刊行者マックス・ミロの序文ではゴーゴリ『狂人日記』や映画『カッコーの巣の上で』、 セリーヌやドストエフスキーに比される。

ミロが想像するように『敵なる力』はユイスマンスやロニー兄弟、特にミルボーを魅したはずだ。著者のノーには賞金五千フランが与えられたが、大きく報道されることもなく終わる。(第2回、レオン・フラピエ La Maternelleの受賞で初めて注目を集める) 

アカデミー・ゴンクールの会員は当初男ばかりだった。クレール・ガロワはフェミナ賞百周年の記念講演で、当時ユイスマンスが「ここにはスカート無用」? pas de jupe chez nous ?.と言ったという。「スカート」とは、当時人気の女流作家ミリアム・アリ。1904年、審査員はすべて女性の文学賞が創設された時、賞がミリアム・アリに贈られたのは、アカデミー・ゴンクールの性差別への抗議の意味があった。(*1)審査を行なうのは雑誌「幸福生活」に寄稿する女性たち、「数は20人、アカデミー・ゴンクールは10人で、女の脳は男の脳の半分相当だと言うのだから」(*2)「幸福生活」賞はその後1922年にフェミナ賞と改名、審査員も現在の12名になる。
http://www.culture.gouv.fr/culture/actualites/communiq/donnedieu/histoirefemina.htm

ゴンクール賞が決まるその日、記者や文芸批評家はレストラン「ドルーアン」での長い審議が終わるまで待機する。決まれば大慌てで受賞者に取材、原稿書き。1925年、待つのにうんざりした彼らは、半ば冗談に自分たちで賞を新設してしまった。これがルノード賞の始まり。http://www.renaudot.com/
「11月賞」 le prix Novembre(1989年から。その後「12月賞」le prix Décembreとなる)は1998年ウエルベック『素粒子』に与えられたことで知られ、明確に「反ゴンクール賞」をめざす。
http://membres.lycos.fr/sublimeacide/pages/Les%20prix%20litt%E9raires.htm
こうして本来「反」の立場から生まれたアカデミー・ゴンクールとその文学賞は、いくつもの「反」を生んで行った。

とこれが今日の落ち。「反」は正確でなく「もう一つの」かもしれません。

(*1)「スカート」発言は事実か、いつのものか?アリはTrois ombres(1932)で、ユイスマンスとの友情を振り返っているという。

(*2)検索すると大抵「22人の」 20人プラスリーダー格のアンナ・ド・ノアイユと誰かもう一人を含めてか。同じ席でのAllocution de Renaud Donnedieu de Vabresでも"...elles sont vingt, rassemblées sous l’égide d’Anna de Noailles."


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2 コメント

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面白い充実したお話を楽しませていただきました。 (写原祐二)
2006-01-31 12:07:02
面白い充実したお話を楽しませていただきました。
雑誌記事のフェミナ賞(文学賞以外も含む)は現在まで続いているフェミナ賞との違いは謎のままです。雑誌のほうの審査員にアルフォンス・ドーデとエドモン・ロスタンが参加しているという記事が「変だ」と思いつつも、記述通りに訳しました。でもますます、この2名も「夫人」のことではないか、という感じを強く持ち始めました。
ジュリア・ドーデもカール・ステーン Karl Steen という筆名で文学評論を連載していましたし、ロスタン夫人もロズモンド・ジェラールという名前で詩を発表して知られていましたので、おそらく記事の表記ミスでしょう。そうすると、フェミナ賞の「女性による」選定の意義がわかってきます。
19世紀後半から文学活動においても女性の進出は目覚しいものがあったでしょう。フェミナ賞の誕生は当然だったと思います。
女性への普通選挙権がまさに問題にされていた頃のようです。
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ゴンクール賞の歴史には以前から興味がありました... (松本)
2006-02-01 10:08:40
ゴンクール賞の歴史には以前から興味がありました。1930年代にシムノンやセリーヌが候補になる、その頃にもまだ初代の審査員が「長老」みたいな感じで残っているのが面白い。フェミナ賞はいつ始まったのかも知りませんでした。写原さんがお書きになり、初めていろんなつながりが見えて来たところです。

>ジュリア・ドーデもカール・ステーン Karl Steen という筆名で

そうか、アンドレ・コルティスはごく一例なわけですね。これも文学史の面白さだと思います。
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