海鳴記

歴史一般

沈黙の百二十年

2021-10-17 08:22:01 | 歴史

 奈良原三次男爵は、昭和十九(一九四四)年七月十四日、千葉県市川市の借家で亡くなる。六十八歳だった。新聞では宿ア(宿疾)のためとしているが、最後は随分(ずいぶん)苦しんだようである。その様子は、娘の緑子が伝えている。三次と音次郎との深い交わりも、音次郎日記の延長であることがわかる。また、三次の従弟で、舞台美術家の田中良も顔を出している。当然、緑子や三次とヨネさんとの関係性もほのめいて来る。むろん、一緒に暮らしている青木秋という女性も。

 以下、少し長い手紙だが、所有者の諒解を得て、全文掲げた。三次が亡くなる三日前、目黒の福島ヨネさんに宛てた速達便である。尚、崩し文字ではなく、読みやすい楷書体である。

 

 日ましにお暑さがきびしくなってまいります。此度はいろいろ父の病氣に御心配いただきまして誠に有難う存じます。おかげんわるくいらっしゃいます由、お暑さの折とて其後の御様子お案じ申し上げて居ります。どうぞお大切に遊ばして下さいませ。一昨日は又とつぜん(の)お電話、私代理にておかけ致し、誠に失礼致しました。実の所、父の容態、此二三日が一番苦しみつよく医(旧字)師より至急親戚へ電報打つやう申されまして、だんだん、こんすゐ状態に入る故、お別れに合っていただく方がいらっしゃるなら、今の内にとの注意が有りましたので、ご病氣中、御むりな自分勝手なお願ひとは存じながらも、お電話かけてもらいました。

 秋さんも目黒奥方に来ていただいて、お別れにお合ひしていただいた方がよいと言ひましたので、秋さんの弟が私の代理に電話をかけてくれました。私がお迎へに向ひ度くも、いつ父が急にわるくなるか分りませんので、かけてもらいましたが、二度とも留守にて女中さんにお願いしておいたとの由でございました。もしおひ出願へますなら、市川驛にお迎へに出ます故、お時間お知らせいただくやうお願ひしておいたと申して居りました。

今日も医(旧字)師、後二三日内にかわりが有るかも知れぬと申されてかへられました。もうどうしようも仕方がございません。人の寿命で、私もあきらめて居りますが、もういつの日に父に合っていただけますやら考えると、つい勝手なお願ひと思いながら、たまらなく、おなつかしい氣が致します。いろいろお父さんが御苦労かけました事どうぞゆるしてくださいませ。

 なに事も今父の用事、伊藤音次郎様にお願して、親戚への通知もやっていただいております。

 昨日は澁谷の田中良さんが来られました。元氣でいられますが、ずゐ分おぢいさんになられ、びっくりいたしました。六十一になられたさうです。

 お父さん、毎日ブドートウ注射しております。今はもう牛乳やスープもやっと二口三口です。只苦しい苦しいと言ひ通しで、皆で胸や背中(を)さすり通しで、毎晩、まるで皆ねむらず、看護(かんご)して居ます。

 一日中、お見舞いのお客様とお医者とすごして居ります。

 近々に不吉をお知らせ致さねばならぬと存じます。

 後々の事は、伊藤さんや田中さんに、もしものとき、そう式などのこともお願ひして有ります。父の後は、私の考えも有りますが、今の所まだどうにもならず、後の様子を見て居ます。私がこんなですから、どうなりますか。父は、後のことも伊藤さんに頼んで有ると申して居ますが、秋さんや弟、私たちの中がどうなりますやら、一問題あると思ひますが、今は只々看護にて後のこと考へるひまもございません。

 此手紙もいただくのと入れちがひになるかも知れませんが、しばらくお便り出来ないかと存じます。後は数日を待って居るやうなものです。

 くわしい様子は、前お伝へしたのとかわりませんが、日ましに苦しみがつよく、心ざうがよわつて来て居ます。餘り衰弱が強いので、苦しみを止める注射は、出来ないそうです。食物もさじで口に入れて食べさせて居ます。

 くれぐれもお大切に遊ばしてくださいませ。

 取り急ぎ失礼いたします。

 なに事もご存じ下さることとて、心づよく思つて居りますが、つひ心の内で泣く時がございます。(注・・・句読点は筆者)

 手紙にもあるように、三次の死後、音次郎が緑子の面倒をみたようである。音次郎のご子孫氏から、緑子は、昭和二十一年八月六日に亡くなっている、と返事をもらった。偶然に過ぎないが、両親の結婚した日でもあった。三十五歳だった。

 ところで、緑子が会いたがっていたヨネさんは、その後、三次の最期に間に合ったのだろうか。これは、全くわからない。ただ、ヨネさんの戦後の動向は、かなりよくわかっている。

 


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