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この<対幻想>が解体(かいたい)した後の<兄弟>は、「<母>または遠縁の<母>たちとは関係のない」母と同世代の女性の子供と婚姻し、の中や外に四散(しさん)するというのだ。
一方(いっぽう)、四散した<兄弟>や<姉妹>たちにとって、<父は>は問題にならない。なぜなら、<母系>制社会では、エンゲルスがいうような、<父>が誰(だれ)であるか確定(かくてい)できないからではなく、<父>はいつも「<対なる幻想>を消失(しょうしつ)させる契機をはらんだ存在」でしかなく、「自然な<性>としては一番疎遠(そえん)な存在」だからというのである。
こうして四散した<姉妹>や<兄弟>たちは、同一の<母>を崇拝(すうはい)の対象としながら、それぞれ独立(どくりつ)した集団を形成していく。そして<兄弟>たちは、<姉妹>の系列とともに世代を経(へ)ながら、また<母系>制の傍系(ぼうけい)として、自由な立場となりうる。しかしながら、「対なる心の意識」としても「集団の制度」としても<母系>制を支えうる存在となる。これが<氏族>制社会へ転化(てんか)の契機だというのである。
私は、これまで吉本の『共同幻想論』の中の「対幻想論」及び「母制論」を参照(さんしょう)しながら、私なりの家族および母系制の誕生(たんじょう)と変遷(へんせん)のイメージを綴(つづ)ってきた。
ただ吉本自身(じしん)は、私のように時間軸にそって<母系>制を論じているわけではない。フロイトやヘーゲルを始め、多くの文献(ぶんけん)を引用し、「対幻想論」や「母制論」等をそれぞれに分けて論述している。だから、その煩雑(はんざつ)をさけるため、また誤解や曲解(きょくかい)を怖れず私がイメージした通りに眺(なが)めてきたのである。
私は、『共同幻想論』を読み解きながら、多くの古代史研究者がこれを一顧(いっこ)だにもせず、未だにエンゲルスの家族論に固執(こしつ)している現状(げんじょう)を不思議に思っている。くどいほど私も言いたいが、土台の論理の危うさを抱(かか)えた理論が、果(は)たして普遍(ふへん)的な家族論なり家族史になりうるのだろうか。
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