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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「考え抜く頭脳:藤田省三」No.2304

2018-06-30 23:48:05 | 

「精神を研ぎ澄ます」とはこういうことか、という文章に出会うと

胸のモヤモヤが晴れる思いがすると同時に、

何とかしてこういうふうに考え抜く方法を身に付けたいものだと

雑念ばかりの脳みそを抱えつつ羨むのです。

 

『藤田省三セレクション』(市村弘正編:平凡社)

一部分、書き出します。

藤田省三さんは1927年に生まれ、2003年に亡くなっています。

 

―――『今日の経験ー阻む力の中にあって』(1982年発表)冒頭

精神的成熟が難しい社会状況になっている。

すっぽりと全身的に所属する保育機関が

階段状に積み上げられたような形の社会機構が出来上がっていて、

成熟の母体である自由な経験が行われにくくなっているからである。

一つの保育器から別の保育器に移行する時には

激しすぎる競争試験が課せられているのだけれども、

その「試験」は、官僚機構の特徴としての文書主義の原理に則って、

あらかじめ書式の決まった紙切れテストになっているため、

特定のある一面についての能力だけが試されるものとなっている。

「就職」後の上昇テストにしても、特定の一面的な仕事の力や

「社内」という特定の場での行動様式が検査されるに過ぎない。

定年退職後の保育器選択に至っては、

「紙幣」という紙切れの一定の提出量だけが「通過儀礼」の試験となっている。

また、それらの保育器の中では、

一人ひとりが皆働き過ぎるほど働き、

運動し過ぎるほど運動しているのではあるけれども、

そのカプセルに入っていることによってだけ

小さな安定と小さな豊かさが保証されるようになっているために、

勤労や苦労の有無にかかわらず、

精神の世界では社会機関のほとんどが保育器と化している。

現代の圧倒的な「中流意識」は、

この保育器の内に居るということの恐らく別の表現なのである。

一度そこに入れば放り出されることはまずないから、

平均的保障の内にあると考えられるであろうし、

そしてその代わり、保育器自体が危うくなった時には、

猛烈な保育器への「忠誠」と「献身的応援」が始まるであろう。

保育器の成り行きが一人ひとりの存在をすべて決定すると考えられるからである。

ーーーーーーーーーーーー

30年前に藤田省三さんが予知した通り、今の社会状況は

「保育器自体が危うくなった時」で、理屈も何もなく、ただただ、

「猛烈な保育器への『忠誠』と『献身的応援』が始ま」っています。

いったい、こうなったらどうしたらいいのか私など途方に暮れるのですが、

藤田さんは、別の文章でこのようにも述べています。

ーーー『精神の非常時』(1981年)より

新石器時代以来の人類史的大変化に曝されるに至ったところに

今日の根本的な危機性があるということは、もっともっと色々な局面について

自覚され、見詰められ、考慮されなければならないであろう、

と思い続けるようになってからもう十数年もたった。

「世界に応答するべきもの」としての精神は、

こうした時代に対して、どのように「応答」し、どのように立ち向かうべきなのか。

(中略)

「真と偽」の質的差異は「解答」のあり方などよりは「問題」の立て方の中にこそ遥かに明瞭に現れる。

むしろ、そこにこそ真偽の別は典型的な形で現れると言ってよい。(中略)

私たちは、真なるものと偽りなるものとの質的な違いを発見しようとする限り、

「解答」の世界への警戒と、「問題」の分野の重視へと導き入れられることとなる。

それがどんなに拙い形を採り、どんなに混乱した筋道の中にあり、

どんなに醜い外貌を持って矮小な姿で現れようとも、そのゲテモノの中に、

今日の私たちを取り巻き、且つ貫いている問題群が影を落としているならば、

その影から発する微かな光を見逃してはならないのである。

落魄せるものの中には、しばしば

重大な変化の本質的真実が歪められた形を持って存在している。

そして、その形とその核心との交錯した関係こそが、

「問題」中の「問題」なのである。

廃れゆくもの、零落し粉砕されて断片と化したもの、

「灰の中に輝きもせず横死するダイヤモンド」にありったけの眼光を注ぎ込んで、

その質を見極めようとしないところには、

真偽の別は遂に分からず、

現代の根本的な危機性もまた見過ごされてしまうことであろう。

ーーーーーーーーーーーー

私たちが生活する中で、保育器として「処方された幸福」を

「自ら開発した幸福」と勘違いしてしまえば、

無警戒な精神の「解答」主義に堕し、

何ら反省的検討を経ることなき「体系性」を偏重するという、

精神の枯渇を生むと藤田省三は指摘します。

真実かどうかは別にして

一つひとつの事実を、決められた秩序形式に従い

巧みに円環的体系へと繋ぎ合わせて

「閉じられた王国」を完結的に作り上げるテクノロジーの世界が

そこに在る、と。

今の日本社会で生活する多くの人々の姿そのものであると

私には思えます。

 

 

 












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