『満韓ところどころ』を読んで、
(ああ、ここが問題個所だな)と思うところがあった。
皆さん(というほどこのブログ読者の方々がいらっしゃるわけではないんだけど)は
どのように感じるだろう、と思いここに引用してみることにした。
しかし、引用部分はあくまでも作品全体のうちの一部分の切り取りに過ぎない。
『満韓ところどころ』全文を読まずに断罪するのが正しい批評ではないことは自明だ。
文章全体は青空文庫図書カード:満韓ところどころ (aozora.gr.jp)で読むことができる。
(もちろん無料)
そもそもこの満韓旅行は漱石の大学予備門からの親友の一人、中村是公が
当時満鉄総裁で、その彼の招待に応じて出かけて行ったものだ。
その旅行過程で漱石は、内地よりも大陸に活路を見出したかつての悪ガキ同窓生達と邂逅し、
一気にそういう雰囲気になったのが
『吾輩は猫である』的な文章のタッチからも感じられる。
〈↓ところで中村是公とはこんな人↓〉
中村是公(1867-1926):本名なかむら・よしこと。通称「ぜこう/これきよ」。大学予備門以来の漱石の親友の一人。豪放磊落。「べらんめえ総裁」「フロックコートを着た猪」などとも呼ばれた。漱石とは終生「ぜこう」「金ちゃん」と呼び合う仲だった。大学卒業後、政府の役職(大蔵省)に着いたが後に、後藤新平(第一代満鉄総裁)に命じられて二代目総裁に就任し、満鉄総裁任期最長5年の記録を立てた。
ここから引用————
(漱石の乗った船が河岸に着いた時)
船が飯田(いいだ)河岸(がし)のような石垣へ横にぴたりと着くんだから海とは思えない。河岸の上には人がたくさん並んでいる。けれどもその大部分は支那のクーリーで、一人見ても汚らしいが、二人寄るとなお見苦しい。こうたくさん塊(かたま)るとさらに不体裁である。余は甲板の上に立って、遠くからこの群集を見下しながら、腹の中で、へえー、こいつは妙な所へ着いたねと思った。
(中略)
船は鷹揚にかの汚ならしいクーリー団の前に横づけになって止まった。止まるや否や、クーリー団は、怒った蜂の巣のように、急に鳴動し始めた。その鳴動の突然なのには、ちょっと胆力を奪われたが、(以下略)。
河岸の上を見ると、なるほど馬車が並んでいた。力車もたくさんある、ところが力車はみんな鳴動連が引くので、内地のに比べるとはなはだ景気が好くない。馬車の大部分もまた鳴動連によって、御せられている様子である。したがっていずれも鳴動流に汚ないものばかりであった。ことに馬車に至っては、その昔日露戦争の当時、露助が大連を引上げる際に、このまま日本人に引渡すのは残念だと云うので、御叮嚀に穴を掘って、土の中に埋めて行ったのを、チャンが土の臭いを嗅いで歩いて、とうとう嗅ぎあてて、一つ掘っては鳴動させ、二つ掘っては鳴動させ、とうとう大連を縦横(たてよこ)十文字に鳴動させるまでに掘り尽くしたと云う評判のある、――評判だから、本当の事は分らないが、この評判があらゆる評判のうちでもっとも巧妙なものと、誰しも認めざるを得ないほどの泥だらけの馬車である。註)「露助」、「チャン」下線はブルーはーとが付けたもの。
もう一度、この箇所だけで『満韓ところどころ』を評価せず、
青空文庫で全文読むことをお勧めして、今日はここまで。
(つづく)
↓冬は室内に保護されてた3年目のクワズイモ、今は裏庭で一日数時間の日照を満喫しています。何か、水芭蕉の花のようなものが出てきたんですけど。
いまになると恥ずかしいことですが・・・・・
クワズイモなんて植物があるんですね。このお花、こんにゃくの花みたい・・・というよりやはり、水芭蕉の花に似ていますね。
明治維新期、一応国民国家としてスタートした日本は瞬く間に帝国主義国家建設へと変質していきましたね。
森鴎外は明治の国家建設の中枢を担いましたが、漱石は権威主義を嫌い、東大教授を辞め、博士号授与も拒否したほどの人でした。それでも、自分の居る世界からしか物事を見ないのは誰しもで、漱石もそうだったんですね。
鴎外ほどお金持ちではなく、樋口一葉ほど日々の暮らしに困っていない中間的知識人の位置から隠遁者的に社会事象を見ていたのではないでしょうか。
一般庶民は国家が日本民族の優位性を鼓舞すればそうかと思い、満韓に日本民族の未来があると言われれば、「狭い日本にゃ住み飽きた」とか歌い、冒険者気分でぶっ飛んで行くという思考パターンは敗戦まで続きましたね。いや、今もほぼ同じですかね。
クワズイモ、息子が買ってきて置いていったのです(要らんのに)。私はその辺に生えている野草や種をひっそりこっそり家に持って帰って植えるのが好きで、裏庭の半分は野草です(笑)。
上の文に「一般庶民」と書きましたが、満蒙開拓団は国家の政策として無理にでも行かせたので、それには当たらないと付け足します。