毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「新聞記者の仕事 その2」 2013年2月25日(月)No.573

2013-02-25 17:59:44 | その他情報
No.570で書いた読売新聞大阪本社の石塚記者についての話の続き。
普通、新聞記者と聞いて私がイメージするのは、
取材し、記事を書いたらそれで終わりで、再び会うことはないだろうというものだ。

石塚さんは、どうもそういう記者ではないらしい。
識字教室にも何年(何十年?)もボランティアとして参加しつつ、
勉強が終わったら一緒に酒を飲み、
次の日は、プロテスタントの反体制グループの勉強会を再訪して、
日本の右傾化について議論し、
また翌日は、これも昔の取材がきっかけで参加している
労働問題の研究会に出て、記事の宣伝をしたりするといった日々なのだそうだ。
情報をもらって組み立てて記事を書き、それを持ってまた訪れる。
料亭の客に「一見さん」という一度だけの客があるが、
石塚記者は二度、三度・・・と足を運ぶ。
これは、書かれる者と書く者の関係としてちょっとスゴイ。

こんな記者ばかりだと、新聞も変わるのではなかろうか。
現実にはそんな人は例外的なのだろう。
しかし、石塚さんの背中を見て育つ若い記者もいるかも知れない。
そういえば黒田ジャーナルの黒田清大記者も、読売新聞社だったんだ。
渡辺恒雄側近の向こうを張って、社内に黒田グループを形成していたという。
黒田さん亡き後、彼の弟子?の矢野宏さんが
反戦平和新聞「うずみ火」を発行し続けている。
ひとの心を打つ魂は、脈々と引き継がれていくものだ。
石塚さんも、ひょっとして黒田さんを知っているのでは。

で、21日夕刊に大阪大司教さんのインタビュー記事が見事に載った。
(何しろ読売だからね。値打ちあるよ(^O^))
「心のページ」という、宗教や生死にまつわる話題の欄だそうだが、
後から「あの記事はおかしい。もう新聞購読を止める。」と抗議の電話が一件あったそうな。
しかし、担当デスクが気骨のある人でうまく対処してくれたと。
チームワークだねえ(^-^)

せっかくだから以下全文掲載
日本におけるカトリックの歴史が意外な事実も含めて分かりやすく紹介されていて、
(そんなことがあったのか!)と私は認識を新たにした。
―――――――――――――――――

 ローマ法王(教皇)ベネディクト16世の突然の退位表明で注目を集めるカトリックは、世界で11億人を超える信徒を擁する巨大宗教。
ただ、日本では禁教時代が長く続いたこともあり、
解禁から140年たった今も、信徒は約44万人にとどまる。
日本のカトリックは何を目指すのか。
日本司教協議会(司教団)のトップでもある池長潤・大阪大司教(75)に聞いた。
(石塚直人)

 日本のキリスト教は1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが伝えた
のが始まり。以来多くの宣教師が来日して教会や学校を建てた。
1614年には、大名55人を含む65万人の信徒がいたという。
 しかし、豊臣政権末期から徳川時代にかけて弾圧が進み、信徒は表向き姿を消した。
幕末に鎖国令が解除された後、長崎・大浦天主堂で祈っていたフランス人神父を
十数人が訪れ、信徒であることを告白した「潜伏キリシタン発見」(1865年)
は西欧世界を驚かせた。

「キリスト教がローマの国教となった後、日本ほど殉教者が多かった国はありません。
長崎で最初に殉教した26人は聖人とされました」

 その日本で、禁教が正式に解かれた後も信徒があまり増えなかったのはなぜか。

 「日本人は葬式はお寺で、結婚式は教会で、と特定の宗教にこだわりません。
汎神論の思想が広くあり、宗教にご利益を求めがち。
仏教徒を装いながら250年以上も信仰を守り抜いた潜伏キリシタンは、
多くの日本人にとって自分たちとかけ離れた、違和感をもたらす存在だった
と思います」
 

作家の遠藤周作が述べた、「神」を巡る感性の違いもある。
罪を罰する「父なる神」を強調するのが西洋なら、日本人が求めるのは、
罪人も限りなく許す「母なる神」だという。

 「私自身、日本人の感性に合った宣教が必要と考え、東京・聖イグナチオ教会の
改築の際、天に向かうゴシック建築でなく、低い円筒型にしました。
訪れる人を温かく迎える神を表現したのです」。

阪神大震災後に建てた神戸中央教会の建築にも、同じ思いが込められている。
 そうした新しい動きを後押ししたのが、1962年に始まり、教会に現代化をもたら
した第二バチカン公会議だ。
以来、ラテン語だったミサが日本語となり、聖職者の権威に従うだけだった信徒の地位も向上した。
1974年には「正義と平和協議会」が発足し、司教団も平和や原発について活発に発言している。
ただ、保守的な一部信徒からの反発も根強い。

 「キリストは、弱者の苦しみに無関心な人を厳しく戒められました。信仰には、祈り
とともに、社会の悲惨や不正に向き合う行動が求められます」

 全国に約800あるカトリックの学校がエリート育成中心とみられがちな現状についても、

「神が喜ばれる人間を育てるのが基本」
とし、教職員向けのテキストを作って研修に力を入れている。
 
大阪大司教区(大阪、兵庫、和歌山)は、社会問題とのかかわりが
とくに深い。外国人労働者や野宿者、障害者、在日韓国・朝鮮人などの人権を守るグループが
いくつも組織され、プロテスタントとの共同も広がった。
 日本のカトリックは戦前から戦中にかけ、「天皇は神」とする国家体制を受け入れて
生き延びた。
80年代から自己批判の動きが強まり、95年に司教団が謝罪のメッセージを発表した。
 それだけに、「従軍慰安婦」見直しなどの動きには、危機感を隠さない。

昨夏、1937年に中国で日本軍のため殉教したシュラーベン司教の記念式典に
招待する手紙が、司教の母国オランダから寄せられると、
軍の蛮行を謝罪し故人をたたえる返書を送った。
手紙によると、司教は、女子修道院に逃げ込んだ中国人女性の中から200人を
慰安婦として差し出すよう求められたのを拒み、焼き殺されたという。

 
「たとえ不名誉なことでも事実は率直に認める。南京虐殺も従軍慰安婦も多くの体験
者、目撃者がおり、あったこと自体は否定できません。それを認めるのは自虐などで
はなく、人間としての資格にかかわる問題です。
他者の人格を徹底して大切にすることが、キリストの教えの核心にあるからです」


◎大編・大司教略歴

 いけなが じゅん 1937年神戸市生まれ。父は南蛮美術の収集家の孟(はじめ)
氏。六甲中・高校在学中に洗礼を受け、上智大文学部ラテン
哲学科、神学部を卒業して司祭に。イエズス会日本管
区長などを経て、97年から大阪大司教。2011年から日本カトリック司教協議会会長。


◎大編・大司教年表

 日本のカトリックの歴史
1549 ザビエルらが鹿児島に到着、宣教を始める
1582 天正遣欧少年使節が長崎を出発
     (85年にローマ法王教皇に謁見、90年帰国)
1587 豊臣秀吉が禁教令。最初は徹底しなかった
1597 長崎で26人が十字架にかけられ、殉教
1637 島原・天草の乱。キリシタンが反乱の主力
1857 鎖国令が解除され、宣教師も入国する
1865 潜伏キリシタンが名乗り出る
1867 長崎の信徒数千人に拷問・流罪。外国から非難
1873 キリスト教禁制を公式に廃止
1927 早坂久之助神父が日本人初の司教(長崎教区長)
1960 土井辰雄・東京大司教が日本人初の枢機卿に
1973 国内16教区長の全員が日本人となる
1995 司教団がメッセージ「平和への決意」を発表

◎大編・大司教クリップ

 第二バチカン公会議 ローマ法王ヨハネ23世が世界の司教ら2400人余を集め、
3年余にわたって開かれた。教会を現代に合わせて刷新すること、貧しく苦しんでいる
人々に
寄り添うこと、他宗教の中にも真理を認めて尊重することなどを打ち出した。

石塚 直人
読売新聞大阪本社
編集局プロジェクト編集室
コメント
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