にわとりのにわ a hen's little garden

歌うたい時々クラリネット吹きの日高由貴のblog。
ちいさなこころのにわの風景をすこしずつ書きとめていきたいです。

論文日記 2

2008年11月19日 | 日々のこと
柄谷行人の『探究 Ⅰ』を8年か9年ぶりに読み返している。

以前読んだ時は、「おもしろいなあ」という感じしか持たなかったけれど、当時よりも、哲学者の名前や言葉で聞き覚えがあるものが増えたせいか、読みやすいと感じる。文章の明確さ、うねるような運び方に感心しながら読んでいる。

「わたしが独我論とよぶのは、けっしてわたし独りしかいないという考えではない。わたしにいえることは万人にいえるという考え方こそが、独我論なのである。独我論を批判するためには、他者を、あるいは、異質な言語ゲームに属する他者とのコミュニケーションを導入するほかない。」という意見には深く納得。

しかし、だからこそ、序盤のほうで柄谷氏が、いきなり「われわれ」という言葉を持ち出すことには違和感を感じる。そんなにかんたんに読者とつながってしまっていいのか。言葉が「命がけの跳躍」であり、つながりや規則は事後的に見出されるものであり、あらかじめつながりを予想する事ができないことをこそ、論じようとしているのではなかったのか。

『探究 Ⅱ』とあわせて、もうすこし深く読み込んでみたい。


***読書ノート***

・柄谷行人『探究 Ⅰ』講談社学術文庫、1992年。(1986年単行版初版)。

・ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン「序」『ウィトゲンシュタイン全集8』大修館書店、1976年。
Ludwig Wittgenstein,Philosiphische Undersuchungen,Basil Blackwell,1953.