にわとりのにわ a hen's little garden

歌うたい時々クラリネット吹きの日高由貴のblog。
ちいさなこころのにわの風景をすこしずつ書きとめていきたいです。

「アジア人」はいかにしてクラッシック音楽家になったのか?―人種・ジェンダー・文化資本

2014年03月09日 | 日々のこと

コインランドリーで洗濯物が乾くのを待つあいだに、読書。

先日ある方にご紹介していただいた

吉原真里さんの

『「アジア人」はいかにしてクラッシック音楽家になったのか?―人種・ジェンダー・文化資本』
を読み始めました。

まだ最初のほうだけですが、とても面白く、刺激的な本です。
吉原さんの個人的な音楽の体験と、学問的な分析が、どちらかに偏ることなく、見事に噛み合っていると思う。

――文化批評を専門としてきて、学者と研究対象の関係についてもいろいろと論じてきたものの、自分の研究と音楽に向き合うと、学者としての分析的思考と、音楽をやる人間としての個人的な体験に、どのように折り合いをつけていいものか、途方に暮れてしまった。
そういったわけで、私にとってこの研究は、さまざまな格闘に満ちたものだった。(―「はじめに」より)

同じようなことに疑問を持って、考えて、格闘したひとがここにもいたんだな、とすこし前を歩いていくひとの背中を、またひとつ見つけた思い。

15年以上考えてきたことを形にするための、道しるべになりそうです。

古本で買ったのですが、前に読んだ人がちいさな字でいろいろと書き込みをしているのも、なんだか同朋という感じで、嬉しい。

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2 コメント

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つづき (山口和宏)
2014-05-09 05:44:50
とって生徒の自治と自立を創る!)に触れたことは私の教育観を大きく変える契機となった。「病」は決して単なるマイナスだけではない。
 1992年3月。友人からもらった「プロポリス」(蜂の巣からとった健康食品)が効いたのか,突然体調がよくなる。毎朝5時にすっきり目が醒め,午前中は机に向って仕事(土田杏村の思想研究)ができるようになった。

【読書時代(「前向き」期):1993年~】
 1993年4 月,友人の斡旋により相愛女子短期大学に非常勤講師として週に一度「教育原理」と「教育行政」を教えに行くことになる。94年4 月からは立命館大学で非常勤講師として「公民科教育法」も担当。これまでは学生・院生として「教育を受ける立場」から教育問題を考え,教育を歴史的・社会的に相対化する作業を続けてきたのに,今度は一転して「教育する立場」から教育問題を考えることになった。
 「教える立場」としては,教育の歴史的・社会的な問題点を考察するだけではなく,もっとポジティブに教育することの積極的な意味を考えざるを得ない。非常勤講師として仕事をするに当たって「現在の学校において学ぶものにとって少しでも意味のある教育とは何か?」を考え,講義の内容と方法を工夫するうちに面白いことに気づいた。私は,教育における「不自由」に長い間苦しみ,「自由教育」にあこがれて教育史研究・教育思想研究を続けてきたのに,教師として学生を教育する立場になったときは学生にきわめて多くの課題を強制する「強権的教師」になっていたのである(立命館では「この大学で一番きつい授業」と言われた)。にもかかわらず,その私の「強制」に耐えて課題を達成した学生たちの時折みせる素晴らしい成長!私は教育における「強制」にも意味があること,「自由」は「不自由」を通して実現しうることを深く実感した。
 言うまでもないが「授業」はうまくいかないことのほうが多く,打ちのめされて教室を後にすることもしばしばだ。しかし,その時に痛感する私と学生との差違(自分と相手の間にある他者性)は,教育の問題を「実践」から離れない形で考察するもっとも大きな手掛かりになっている。教育について考え,実践することは(しんどいことも多いが)実に面白い。これからも,教育における「他者性」や「個性」の問題,教育における「自由」と「強制」の問題を問い続けていきたい。それが私の「現在」である。(以上) [1997年3月31日]
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体験と分析2 (山口和宏)
2014-05-09 06:29:51
個人的な体験と学問的な分析をうまく噛み合わせるのは難しいね。僕は教育史を教えていたころ,自分の経験と歴史を結び付けて考えてもらうために,「私の教育史」「父母の教育史」「祖父母の教育史」を学生に書かせたことがあるよ。そのためにまず僕自身が「私の教育史」を書いて学生に書き方の見本を示した。少し長くなるけれど読んでみてくれないか。

私の教育史

ペンネーム:中田 聡
(高校時代の友人:「中」井さん・塚「田」君・高垣「聡」君から一字ずつもらったペンネーム)

【未読書時代:1957年~1965年】
 私は1957(昭和32) 年7 月,大阪府泉佐野市に生まれた。父・母・祖母・一つ年下の妹の5人家族。生まれた家は海の近くで,当時我が家は農業を営んでいた(1967年からは撚糸工場経営)。父母は朝から晩まで働きづめだったので,私はもっぱら祖母に育てられた。
 私の子供の頃にはすでに「ガキ大将集団」はなく,もっぱら近所の同年齢の男友達と「べったん」(めんこ)や「ビー玉」などをして遊んだが,妹やその友達(女の子)と遊ぶ時間も多かった。遊び場所はもっぱら我が家の狭い庭や近所の路上。テレビは近所の家に見せてもらいにいった。
 5歳で幼稚園に入園。我が家には絵本など「本」というものがまったくなかったので「絵を書きなさい」と言われて困りはて,黒のクレヨンで書きなぐった「オバケ」を描くしかなかった。幼稚園時代は「泣いて帰った記憶」のような暗い思い出しかない。
 1964(昭和39) 年, 東京オリンピック開催の年に地元公立小学校入学。全校児童が小学校の横を通る国道に出て旗を振って聖火ランナーを迎えたことを覚えている。小学校入学後も引っ込み思案の暗い子供だったが,2年生の時の友達が明るい性格だったので,その影響で私もだんだん明るく活発な少年になっていった。友達の影響力は実に大きい。

【読書時代(「優等生」期):1966年~1974年】
 1966年(小学校3年生の時),学校の図書室でたまたまみつけた『鉄仮面』(デュマ著)という本を読む。文字通り「寝食を忘れて」読みふけった。それまで書物の世界とは無縁であったのが,生まれて初めて本の面白さを発見した。それからは「図書室の本はぜんぶ読もう!」と思って手当たり次第に読破。読書力がつくのと同時に学校の成績もぐんぐん上昇し,4年生からは毎年「学級委員長」や「児童会会長」をつとめた。いわゆる「優等生」になったのである。
 「本の世界」は,私に学力と自信をつけ何事にも積極的な「リーダー的児童」となる契機となると同時に,一人で空想に耽る「内面的な世界」をも私に開いてくれた。また,小学校5年生からラジオの深夜放送を聴き始めたことも「誰にも知られない私の内面的な世界」を造る上で大きな影響力があったと思う。「ABCヤングリクエスト」や「MBSヤングタウン」「OBCバチョンといこう!」などの深夜放送は,私に「大人の世界」「青春の生き方」をかいまみせてくれた(現在も私は毎夜ラジオの深夜放送を聞きながら眠る)。
 塾は週に2日,近所の「そろばん塾」へ通っていた(準2級まで習得)。小学校1年生の頃,ようやくわが家にはいった白黒テレビでは,とりわけ「エイトマン」が好きだった。高学年になるころには,『週刊少年マガジン』などのマンガ雑誌も読みふける。友達の家でトランプしたり,近所の海や池で魚釣りをする……といった,その頃の少年にはごく一般的な遊びをしていたように思う。
 1970(昭和45) 年,万国博覧会の年に地元公立中学校入学。新任の英語の教師が生徒にいじめられて休職したため授業がとどこおり英語がまったくわからなくなったので,1年生の終わりごろから週に二回近所の学習塾(補習塾)へ通う。
 中学校2年生から3年生になる春休みに研修を受けて「泉佐野市ジュニアリーダー」となる。これは各中学校から生徒を集めて,子供会の世話をする「子供のリーダー」を養成しようとするもの。3年生の夏休みには約20日間,子供会に出向いて子供たちといっしょにプールで遊んだりキャンプをしたりした(今風に言えばボランティア活動か)。リーダーとして能力も,この頃にある程度養われた気がする。中学校でも「学級委員長」や「生徒会会長」をつとめ,教師からは「文句のつけようのない生徒」だと評価された。
 中学3年生の冬に,それまで見慣れていた夕焼けの景色が突然,圧倒的に美しく見えはじめた。毎日自転車を飛ばして海岸へ行き,防波堤で風をよけながら海に落ちる夕日を見るようになる。私にも本格的な「思春期」が到来したのである。
 1973(昭和48) 年4 月,大阪府立岸和田高等学校に入学。「青春もの」のテレビドラマや小説,加藤諦三の青春論などに影響されたのか,「よく学びよく遊ぶ青春を送らなければ!」と思い込んでいた私は,高校1年生の夏休みから毎年夏休みになると集中的に勉強するため中学校時代の友人といっしょに長野県にあった「学生村」へ行く。「学生村」とは,学生が一般家庭の一室に低料金で長期宿泊しながら自習する民宿制度。浪人生・大学生が多かった。毎日8時間くらい勉強。食堂で顔を合わせる大学生から「大学生活」の話を聞き,あこがれるようになる。高校のクラブは「映画研究会」と「文芸部」に入り,映画をつくったり小説まがいのものを書いたり,女生徒と交際したり(これはすぐに失恋),まさに「青春」していた。
 高校1年生の3学期,実力テストの数学で15点という低い点数をとってショックを受ける。学年の平均点が8 点くらいだったので, それでも上位の方だったが,同じテストで80点ほどとった生徒のいることを知って愕然とする。易しい入試問題を集めたものであったのに解き方がまったくわからず,「中間・期末テスト」とは違う(特別な準備を必要とする)「大学受験用の勉強」という世界があることを知る。それから休憩時間も惜しんで必死に受験勉強するようになり,高校3年生の最初の旺文社模擬テストで全校1位となる。

【読書時代(「模索」期):1975年~1992年】
 1975年4 月。全校1位になった瞬間,次の目標がないことに気づく。大学で具体的に何かを学びたいわけでもなく,将来の仕事の夢があるわけでもなく,ただ「優等生」であれば親が喜び,先生も評価してくれ,自分も安心できるから勉強してきたにすぎなかった。ちょうどこのころ,たまたま『優良児的青春を殺虫する毒薬に関する狂気の考察』(岸田淳平著)という本を読み,みごとに「殺虫」される。「いったい自分は何のために優等生を続けるのか?何のために勉強しているのか?」という疑問が頭から消えず,勉強が手に付かなくなる。「このままストレートに大学へ進学せずに,社会人として働いてから人生を考え直したほうがいいのではないか?」とも思ったが,それまで走り続けてきた「優等生コース」から外れるのはあまりに恐ろしく,どうすればよいかわからなかった。当然のことながら成績も下がる一方。結局,形だけ同志社大学と京都大学法学部の入試を受けて(前者は合格・後者は不合格),京都で浪人することにした。
 1976年4 月,京都の北白川に下宿して近畿予備校へ通う。初めて親元を離れての一人暮らし。時間はありあまるほどあった。毎日,昼近くに起きて数学の授業を1時間聞くためだけに予備校へ通い,あとの時間はすべて悶々としていた。考えたあげく,大学進学という「体裁」を整え(親と世間に言い訳がたち),しかも「優等生志向への疑問」という内面的問題を解決するために「京都大学教育学部に入学してこれまで自分が受けてきた教育そのものを問い直す」という方法を取ることにした(そう決めた瞬間,「自分にとって一番楽なズルイ道を選択した」という思いが痛烈に胸をよぎったことを思い出す)。
 1977(昭和52) 年4 月,京都大学教育学部に入学。大学時代,私に大きな影響を与えたのは授業ではなく,「教育科学研究会」「神陵ヨットクラブ」「マスコミ研究会」に入ったことである。「教育科学研究会」は教養部の建物の地下にサークルボックスがあった。大学の授業に出るのは出席を取る語学と体育だけ。毎日このサークルボックスに通って一日中先輩と教育問題について議論した。ビラを発行したり,先輩について「国際反戦デー」のデモにも参加したりしたが,やがて学生運動系サークルにありがちな「硬直した思考」に反発を覚えるようになり,一年後に脱会。ヨットクラブは毎週土・日に琵琶湖でヨットに乗る同好会。ヨットそのものは楽しかったが,待ち時間に喫茶店でおしゃべりする理科系の人間とあまりにも話が合わないことに驚き,半年で脱会。肌の合う「マスコミ研究会」だけが大学院入学後まで継続した。
 「マスコミ研究会」は,大学院生も参加する文科系サークルで,毎週1回の例会の後は必らず「飲み会」が付いた。大学の1回生にとって自分より数年先輩との「文化的な差」は圧倒的である。ここで学んだことは実に多い。本の読み方,レジュメの作り方,社会科学的なものの見方・考え方といった学問的なことから,お酒の飲み方・女性との付き合い方まで,ほとんどあらゆることを学んだといってもよい。
 学部の3回生から「教育史」のゼミに参加。ここにはすでに大学院を終えた若手研究者も参加していたので,その学問的な議論のレベルの高さに驚く。「マスコミ研究会」を通じて知った社会学も面白かったが,結局「教育史」を専攻することに決め,「大正自由教育」の中でもっとも「自由な学校」であったと言われる「児童の村小学校」の野村芳兵衛(のむら・よしべえ)という教師の思想と実践をテーマにして卒論を書く。
 1981(昭和56) 年4 月。京都大学大学院教育学研究科修士課程に入学。「教育史研究室」(大学院生用共同研究室)に入る。この部屋は,さまざまな分野の院生がお茶を飲みに来た。いつも誰かがやってきておしゃべりしているので,研究室にいても本を読んだりすることは出来なかったが,傍で院生同士の話を聞いているだけでもずいぶん勉強になった。修士論文は「成城小学校」を創設して「大正自由教育のチャンピオン」と言われた澤柳政太郎(さわやなぎ・まさたろう)という人の教育思想を取り上げた。
 1983年4 月,大学院博士後期課程に進学。84年3 月, 1年半交際していた女性と結婚。結婚式では「いよいよこれから本格的な研究生活に入るのだ!」と身の引き締まる思いがした。ところが,新婚旅行から帰って 三週間後(1984年4 月) 。ひどい扁桃炎によって39度前後の熱が三ヶ月続く。入院して扁桃腺の摘出手術を受けるも今度はその奥のリンパ節の炎症が続き,結局,八年間の闘病生活(寝たり起きたりの生活)を余儀なくされる。全身の倦怠感がひどく,歩いて15分のところにある京大の図書館にもよほど体調の良い時でないと行けない。研究者としてもっとも重要な時期を何も出来ずに蒲団の中で過ごしていることは,絶望的につらかった。
 ただ,この時,病床で読んだ池波正太郎・藤沢周平といった作家の時代小説とエッセイからは大きな慰めと「生きる知恵」のようなものを得ることが出来たように思う。また,病床で読んだ新聞記事によって土田杏村(つちだ・きょうそん)という人物(教育史の上では「自由大学運動」の指導者として知られる大正時代に活躍した在野の「文明批評家」)もまた長く病床にあったことを知ったことも大きな出会いであった(共感を覚えて「健康が回復したら杏村の思想研究を始めよう!」と決意し,実際に研究を始めてみるとその思想の奥深さに魅了されて現在の主要な研究テーマは「杏村研究」となっている)。さらにまたこの時期,たまたま知り合った市民運動「脱学校講座」の主催者辻創(つじ・そう)氏を通じて「プロ教師の会」(諏訪哲二・河上亮一ら)の教育思想と実践(権力的存在としての教師がその権力性を逆手に
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