にわとりのにわ a hen's little garden

歌うたい時々クラリネット吹きの日高由貴のblog。
ちいさなこころのにわの風景をすこしずつ書きとめていきたいです。

「態度」

2017年10月04日 | 読書ノート
 研究所の近くで、きれいな色の自転車を見つけました。
 青と緑の間みたいな、ペパーミントグリーン。

 先日の勉強会で、わたしの文章について指導教官がくださったコメントのなかでおっしゃっていた、「鶴見俊輔さんのいう、『態度』」という言葉が、今読んでいる、辻信一さんの『スロー・イズ・ビューティフル』に所収されている解説のなかにでてきて、繋がりました。

「態度」は、哲学者の鶴見俊輔さんが、辻さんのことを指して言った言葉でした。

 「彼(辻さんー日高注)の学問の中心は、自分がどう生きたいかということを軸にして編まれている。そこに思想よりも重要な『態度』がある。その先で人類学をやれば、当然、『ひねり』がある(そして空手の世界チャンピョンになったくらいの『気合い』もある)。いくつもの『今ここ』から、日本、カナダ、アメリカ社会とのかかわりが全部でてくるように編まれたスロー・スタディは同時に、国家につくられていない思想のかたちでもある」(250頁)

 指導教官がおっしゃっていたのは、このことか、と納得し、10年以上前、初めてお会いしたときにに貸していただいた、辻信一さんの『ブラック・ミュージックさえあれば』という本や、鶴見俊輔さんの著作を読み直そうと思っています。
キリシタンや、明治期の詩の問題と、その根底に流れる、「学問」ってなんなのか、とか、何のためにあるのか、という問題を、さしあたりは別々に深めていけばいつか自然に繋がると思います。

・・・ところで。

 間接的におききしただけなのですが、鶴見さん、前に住んでいた家のわりとご近所にお住まいでした。
 直接面識はないのですが、もしかしたらどこかですれ違っていたかも(Aコープとか、ちいさな大垣書店とか。大垣書店が開店したときは、お祝いに来られたとうかがっています。)。
 生きておられる間にお会いしてお話をうかがってみたかったなと思いますが、本を通してなくなっているかたと対話するのも素敵なことですね。

無知な教師の書評

2017年06月01日 | 読書ノート
さいきん、ちょくちょく哲学関係の本などを読んでいて、
偶然、上尾真道さんの書評にであいました。

http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode4&menu=book_review&id=70


ジャック・ランシエールの『無知な教師』という本の書評なのですが、
ところどころまじえられたユーモアにふきだしそうになりながら読みました。

ひらがなの使い方や、ゆったりとしたテンポの語り口調が、
どことなく川上弘美さんの文体に似ていて、
ゆっくり読み進めることができました。

『無知な教師』、また読み返そうと思っています。


贈与と交換の教育学

2017年04月19日 | 読書ノート
宮沢賢治について、もうすこし考えようと思い、
矢野智司『贈与と交換の教育学-漱石、賢治と純粋贈与のレッスン-』(東京大学出版会、2008年)を図書館で借りました。

学部時代に、矢野先生の教育学の授業を受けていました。

穏やかで、訥々と話されるご様子は、
このかたはほんとうに研究がお好きなんだなあと
すーっと胸に入ってくるものでした。

哲学の知識をふまえた講義の内容は、難しくてわからないこともありましたが、
いまご著書を読んでみると、昔よりも理解できる箇所が増えているように感じます。

二年ほど前に、ばったり思わぬ場所で再会し、
ごあいさつしたら覚えてくださっていて、うれしかったです。

ゆっくり読ませていただくのを楽しみにしています。





キリシタンのこと

2017年02月28日 | 読書ノート
先日、月桂冠大倉記念館を見学させていただいた際、
HPで予習をしていて、びっくりしたことがありました。

それは、月桂冠の敷地内で、キリシタン大名、高山右近関係の史跡がみつかったという記事でした。
http://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/bunko/takayamaukon/komichi.html

修士論文で、大阪の千提寺というところで大正時代に発見されたキリシタンの遺物について調べたので、
おもわぬところで旧い友達とばったりであったような、不思議な驚きに包まれた再会でした。

関連記事はこちらです↓
http://fushimi.keizai.biz/headline/218/


見学の日は時間がなく、史跡にはうかがえなかったのですが、
近いうちにあらためて訪れたいと思っています。


それで、ふと思い出し、ひさしぶりに取り出した本。




『キリシタン文化と日欧交流』勉誠出版、2009年。


執筆者のひとりである、米井力也先生に、
生前お世話になりました。

おあいしたのは数回でしたが、
自分がなんのために研究をしているのかわからなくなって、
研究や調査をすることで、知らないあいだにいろいろなひとを傷つけているのではないか、
と恐ろしくて足がすくんでいたときに、

「研究なんて因果なことを続けられるのは、
どこかでいっしょに歩いて行けるという希望があるからでしょう」

というメールをくださったのを覚えています。


この論文集におさめられている米井先生の論文は

「キリシタンの翻訳―異文化としての<キス>」

というタイトルなのですが、
ジャズがお好きだった先生が、
一度大阪外国語大学の授業でこの論文のお話をされたときに、

「じつはこのタイトル、デューク・エリントンの曲名からもらって
『プレリュード・トゥ・ア・キス』にしようと思ったんだけどね。。。
けっきょくしなかったんだよ。」

とおっしゃっていたのを思い出します。




惜しくも数年前、若くして亡くなられましたが、
ひょうひょうとした優しいかたでした。

ひさしぶりにキリシタン関係の論文を読むと、
あたらしい発見があって楽しいです。

9月・10月の読書ノート

2015年10月23日 | 読書ノート
9月は、お世話になった大阪大学の川村邦光先生の退官記念論文集に寄稿するために、
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』についてのエッセイを書きました。

その関係で、宮沢賢治に関する文章をちらほら読みました。

・川村邦光 「ジョバン二と弔いのイニシエーション」『文化/批評[Cultures/Critiques] 』国際日本学研究会、2015年3月。
・吉本隆明『宮沢賢治』ちくま学芸文庫、1996年。
・大澤信亮「宮沢賢治の暴力」『神的批評』新潮社、2010年。
・王敏『謝謝!宮沢賢治』河出書房新社、1996年。
・西成彦『新編 森のゲリラ 宮沢賢治』平凡社ライブラリー、2004年。

川村先生は、お酒が大好きでとても優しい、福の神みたいな方で、
ほんとうの意味での「教養」というものをありありと感じさせてくださるかたです。
「文章のなかで、正しくわがままでいられる人」(これは江國香織さんがある作家に対して使っていた言葉)というフレーズをいつも思い出します。



10月は、ようやく書き始めた博論関係の参考文献を読んでいます。

・ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること 倫理的暴力の批判』佐藤嘉幸・清水和子訳、月曜社、2008年。
・ジュディス・バトラー『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』本橋哲也訳、以文社、2004年。
・松嶋健『プシコ・ナウティカ―イタリア精神医療の人類学』世界思想社、2014年。
・キャロル・グラック監修、冨山一郎編集、『記憶が語りはじめる (歴史の描き方)』東京大学出版会、2006年。


どこかに書き留めておかないと、すぐに散らかる。。


最近の読書記録(5月)

2015年05月29日 | 読書ノート
最近参加させていただいている「環世界」研究会の関係で
読んでいる本の記録。

(1)ユクスキュル,クリサート著/日高敏隆,羽田節子訳『生物から見た世界』、岩波文庫、2005年。

原著は1934年刊行。原題は『動物と人間の環世界への散歩』、副題は『見えない世界の絵本』(ウムラウトなどの表記変換が面倒くさいのでドイツ語表記は書きません。。。)

研究会の間、訳者の日高敏隆さんの話題で「日高さんが・・・」と参加者の先生が発言されるたびに
自分のことかと思ってどきどきしました(笑)

参加者の先生方は、ドイツ語やフランス語に堪能なかたが多く、
訳語ひとつとっても、深いお話がとびかっていて、面白かったです。
言葉の世界は奥深いなあ。。


(2)木村敏『あいだ』、弘文堂、1988年。

世界的な精神科医であり、ピアノの演奏もされる木村敏さんの著作。
音楽のお話がたくさん出てきて、面白い。
といっても、ハイデッガーやレヴィナス、デリダなど、西洋哲学の歴史を踏まえての著述なので、
難しいです。。
来週月曜日の研究会まで、何度か読んで、自分なりに理解する努力をするつもりでいます。。



(3)町沢静夫+吉本隆明『遊びと精神医学ーこころの全体性を求めて』、創元社、1986年。

(2)の本を大学図書館の書庫に探しに行ったときに、たまたま隣にあったのでついでに借りてきた本。
まだ読み始めたばかりだけれど、自分自身、忙しかったり、ストレスがたまったりして、精神的においつめられてくると、絵を描いたり、ピアノを弾いたりして「遊ぶ」と、息ができるようになるので、遊びについての考察には納得いく部分が多いです。


研究者養成の最短コースから降りて、
ゆっくり勉強できるようになってから、
研究書を読むのも、研究会に参加するのも、遊びのひとつのように感じられるようになりました。

音楽と研究の、パッチワークみたいな生活(笑)は、経済的にはぎりぎりだし大変だけど、
自分には合っている気がします。

もうひとつ参加させていただいている「現代/世界とはなにか?」という研究会では、
前回は音楽学者の岡田暁生先生のご発表で、
ジャズや現代音楽についての内容で、とても面白かったです。

ちなみに、7月12日に、稲森財団合同京都賞のシンポジウムで、
「音楽の20世紀、そして21世紀」というセッションがあります。

ご興味のあるかたはぜひ。

わたしも楽しみにしています。







しっぱいの宝箱

2015年03月27日 | 読書ノート
ー江光世/バジル・クリッツァー/岩井俊恵『あなたの想いが届く愛のピアノレッスン』ー
http://hon.gakken.jp/book/2380038200


ピアノ教育者の江光世さん、アレクサンダー・テクニーク教師のバジル・クリッツァーさん、
心理学者の岩井俊恵さんの共著。

ピアノや音楽に限らず、
先生や親も楽しみながら生徒やこどもと
一緒になにかを学ぶためのヒントがたくさんちりばめられた本だと思う。

ピアノを続けること自体が目的なのではなくて、
ほかにやりたいことや向いていることが見つかったらやめてもいい。

でも、その先何をするとしても、ピアノを通して学んだ「規律」(この本の中では、「数ある選択肢のなかで、自分にとってほんとうに大切なものを一番に選択すること」という意味で使われている)は、人生のなかできっと大きな力になる、というメッセージ。

いわゆる「西洋音楽」は数ある音楽のなかのひとつにすぎないし
(「西洋音楽」と一言で言ってもものすごい幅と奥行きがあると思う)、
ひとによって合う楽器や好きな音楽の種類は違う。

だから、なにがなんでもピアノを学ばなければならないとは思わないけれど、
わたしはピアノの音がとても好き。
弾き語りのために、最近20年ぶりぐらいにピアノの練習を再開したのだけれど、
ピアノを弾いていると
パレットに音で色をつくって好きな絵を描いているような気持ちになる。
(とはいえ、技術が追いつかなくて、思ってたのとだいぶ違う、
「変な色」ができてしまうことも多々ありますが・・・笑)

ピアノ教室をひらいておられる松井美香さんの手記も
ご自身の体験から得たことが綴られていて、胸に響く箇所がたくさんある。

本のなかで紹介されていた江光世さんの生徒さん(小学校4年生)の文章があまりにも素敵だったので
備忘のために記録。

わたしもしっぱいの宝箱に宝物をたくさんつくろう(もうずいぶん大きいんですけどね 笑)。


***
しっぱいの宝箱

 わたしの宝物は、いっぱいあります。その中でも大事な物は、しっぱいの宝箱です。しっぱいの宝箱は、次のステップにいけるようにここがだめだったから今度はなおそうねと、ふりかえられるための物だと思います。
 わたしはピアノのコンクールが大好きです。どうしてかというと、自分のいけないところやよいところがわかるし、がんばったことを発表するからです。
 わたしの今年のしっぱいの宝をちょっとしょうかいします。コンクールでソナチネのさい後の音階のところでとまってしまったことです。指番号をまちがえたのがげんいんです。先生に注意されたところです。とてもとてもくやしかったです。たくさんなきました。そしてたくさんはんせいをしました。音読みの時、正しく正かくに楽ふを読むことの大切さを、知りました。
 先生がわたしのしっぱいを聞いて、
 「小さいうちにいっぱいしっぱいをしておくと、大きくなったらそのしっぱいが力になるから」と教えてくれました。わたしはしっぱいの宝箱を心の中に作りました。そしてその中にしっぱいした宝も入れました。先生が、
 「自分がしっぱいをしてかなしい思いをした時、人の気持ちも分かるようになるよ」
と教えてくれました。たくさんはげましてくれました。
 しっぱいの宝箱に入っている宝はそれぞれ形がちがいます。大きなしっぱいだったら大きな形、小さなしっぱいだったら小さな形、べつの音をひいてしまったらへんな形の宝です。わたしはどれも大事です。でも、わたしは、コンクールの時しっぱいの宝箱を、家において行きます。なぜかというと、この前まちがえたから、あそこはぜったいまちがえないようにしようと思い、そこに気をとられてしまうからです。そう思うより、わたしの音楽を聞いてくださる人に、心をこめてひいた方がいいからです。先生が、
「あなたの音楽を聞いてくださる人に、自分の気持ちがつたわることが一番大事ですよ」
と教えてくれました。
 これからも心の中のしっぱいの宝箱を大事にして、かなしい気持ちや、うれしい気持ちや、くしかった気持ちを自分の音楽にしてあらわして、たくさんの曲にちょうせんしてみたいです。(原文ママ)



(江崎光世/バジル・クリッツァー/岩井俊恵『あなたの想いが届く愛のピアノレッスン』学研パブリッシング、2015年、pp.103-104.)

ハンナ・アーレント「戦争の世紀」を生きた政治哲学者

2015年03月03日 | 読書ノート

矢野久美子『ハンナ・アーレント―「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書、2014年)

知りあいの先生がくださって、昨日から読み始めた。
もうすこしで読了する。
文庫本は、軽くて持ち歩きやすいので、ちょっとした空き時間に読み進められてありがたい。

ハンナ・アーレントは、1906年に生まれた政治哲学者で、
ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、大学では哲学をハイデガーとヤスパースに学び、
1933年、ナチス支配下のドイツからパリに亡命。
第二次世界大戦勃発後、アメリカ合衆国に亡命し、哲学、政治的な問題について書き続けた。

大学時代、大学院時代を通して、
彼女の著作のいくつかはゼミの課題になったこともあって、
読んではいたけれど、
いまあらためてこの本を読むと
親しい友人だったベンヤミンが、ナチス支配下で自殺したことや、
亡命後のアメリカで、英語を一から学ばなければならなかったこと、
ユダヤ人を大量虐殺するためだけに作られた収容所の存在、
原爆の投下という出来事を見つめ、考え、言葉にし続けたことの痛みが伝わってくる。


「痛みが伝わってくる」という言い方は、
おこがましい気がして、
簡単に感情移入することはできるだけしないようにしようと思っているのだけれど、
文字通り、読んでいて痛みを覚えるような箇所が随所にあった。

大学時代から、亀のようなゆっくりペースで、
大の苦手だった歴史を学んできたなかで、
一番むずかしいと感じることは、
目を背けたくなるような過去の暗い出来事や、人間の醜い面を、
どのようにうけとめ、かかわり、考えていくのか、ということ。

ひとによって考え方は違うと思うが
(そしてそんなことは当たり前だという人も、そんなものは学問ではないという人もいるだろうが)、
歴史を記述するということは、
自分と向き合うことなしにはできない作業だと個人的には思っている。


カウンセラーがカウンセリングをする前に、自己分析を経た訓練をするように、
ある出来事や物語を記述する自分自身が、どのような考えの癖や偏見を持っているのかを
知ろうとする努力を並行して行うことが大切だと思う。


ただ「事実」を並べただけのように見える年表にも、
どの出来事を選ぶのか、
出来事をどのような名称で、どのような言葉で書くのか、
ある出来事がいつ始まり、いつ終わったと考えるのか、
といった細部に
書いた人の「まなざし」が書き込まれていると思うからだ。


大学院時代、植民地時代の日本の歴史についての論文を読むと、
気分が悪くなり、何も考えることができなくなることがよくあった。
それまでなにも知らずに生きてきた自分が、加害者であるように思い、
論文から責められているように感じていた。


いまでも、知ってしまってつらくなるような出来事や物語はたくさんあるけれど、
15年前に比べてすこし自分が変化したと感じるのは、
自分を加害者や被害者の立場に同一化して、苦しんだり、感情移入したりするのではなく、
距離をとりながら見ることが、すこしはできるようになってきたのではないかということだ。

いいかえれば、織りなされる関係性のなかで、自分のなかに、加害者にも被害者にもなりうる、
あるいは、どちらでもないいくつもの面を見ていくということでもある。


簡単に感情移入することも、誰かや何かを敵にしたてあげて、
「自分は違う」と思おうとすることも
思考の停止につながる。


だからといって、ほかのひとに「目を背けるな」と押しつけるのは違うと思っていて、
つながろうとしたうえで、いろいろな物語があることを受けとめて、
自分自身の頭で考えて、言葉を探していくことしかできないのではないかと思う。


ひきつけすぎたり、離れすぎたりを繰り返しながら
それでも、考えていくしかないのだろう。


「みんな同じ」
ではなくて、
「個」をほりさげたり、もてあましたりする迷走の過程で
違和感を紡ぐ、軋むような言葉たちをどこかで聴いてくれ、
言葉を返してくれる仲間がいるというのは、
ありがたいことだとも思う。


いいタイミングで出逢ってくれた本でした。









11月の読書ノート

2014年12月04日 | 読書ノート
備忘録。


いろいろなところに書誌情報をメモする癖があって、
あとでどこに書いたかわからなくなる。

困ったものです。

とりあえず、ブログに書いておけば安心(もっと読んだような気もするけど、
覚えていない。)


***


・岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春文庫、1993年。

・日経WOMAN『妹たちへ―夢をかなえるために、今できること』日本経済新聞社、2005年。

・マイク・モラスキー『ジャズ喫茶論―戦後の日本文化を歩く』筑摩書房、2010年。

・藤原辰史『食べること 考えること(散文の時間)』共和国、2014年。

・内田樹『街場の大学論 ウチダ式教育再生』角川文庫、2010年。

・田口真奈・出口康夫・京都大学高等教育研究開発推進センター編
『未来の大学教員を育てる―京大文学部 プレFDの挑戦―』勁草書房、2013年。

・茶園敏美『パンパンとは誰なのか―キャッチという占領期の性暴力とGIとの親密性』インパクト出版会、2014年。

***