matasaburo3の散歩日記

日本各地を旅しながら、日本の四季を撮ります。
又、世界各地の街を巡りながらの印象記やあれこれ。

岡山の旅その1-備中松山城

2018-05-26 11:45:38 | 日本100名城



  (石垣群)

 5月中旬、岡山を旅しました。

現存12天守巡りは、姫路城・松江城・
彦根城・松本城・松山城(伊予)・丸岡
城・弘前城・犬山城に続いて備中松山城
です。

 高梁

 備中高梁駅から、ふいご峠(8合目)
まで乗合タクシーに乗り、そこから約
20分歩きました。

備中松山城は、4つの峰からなる臥牛山
の小松山の山頂(標高430m)に築か
れた城で、天守の現存する山城として随
一の高さを誇ります。


  (三の平櫓東土塀)

高取城(奈良)、岩村城(岐阜)ととも
に日本三大山城の一つに数えられます。

1240年、承久の乱で戦功のあった秋
庭三郎重信が地頭として赴任。臥牛山大
松山に砦を築いたのが始まりとされてい
ます。

その後、小松山に移り、城の縄張りは時
代と共に変化し、幾度の盛衰を繰り返し
ました。


  (天守)

なかでも1574年(天正2年)に起こ
った「備中兵乱」は有名で、「砦二十一
丸」と呼ばれた出丸が築かれ、一大要塞
となっていました。

三村元親は宇喜多直家に父家親を暗殺さ
れ城主に。毛利氏から離反、織田信長に
寝返ると、毛利と宇喜多が同盟を結び、
8万の大軍により落城ついに自害します
。三村氏は滅亡。



元親の辞世は
「ひとたびは 都の月と思ひしに
 われ先づ 夏の雲にかくるる」

「人といふ 名をかる程や 末の露
 きえてぞかへる もとの雫に」

関ケ原合戦まで毛利氏の備中の拠点と
なりました。


  (天守内部)

江戸時代に入ると、池田・水谷・安藤・
石川・板倉と城主が変わり、明治維新を
迎えます。

現存する天守などは、1683年(天和
3年)水谷勝宗により修築されたものと
伝えられています。


  (二重櫓)

幕末、板倉勝静は徳川慶喜を補佐し老中
首座へ。山田方谷を登用し藩政改革に成
功。

戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は山田方
谷の決断で無血開城します。


 (山田方谷像)

高梁駅前に方谷像が建っていました。

方谷は財政再建、特産品の生産・販売、
旧弊の打破など斬新な改革に取り組みま
した。

方谷の残した言葉に、「総じて善く天下
の事を制する者は、事の外に立ちて、事
の内に屈せず」、
又、「至誠そくだつ」(真心といたみ悲
しむ心があれば、物事はうまく運ぶ)、
「義を明らかにして利をはからず」
などがあります。

(山陽新聞、5月16日「人生を語る」より
引用しました。)