両者の共通点が「イニシエーション」(通過儀礼)にあると言っても、これだと意味が広すぎる。
より正確には、「軍事化イニシエーション」のうちの「加入礼」と呼ぶのが適切ではないかと思う。
まず、「軍事化」だが、これは、「ロメオとジュリエット」を例にとるのがが分かりやすい。
「頂点も従属分子もなく一体化し、領域の単位を占拠し、領域外の外敵、そして隣接の単位と軍事的緊張を保ち、しばしば衝突するのである。もっとも、『ロメオとジュリエット』を引くまでもなく、デモクラシー前の単純政治システムにしばしば現れる現象である。組織内では、「皆は一人のために、一人は皆のために」の原理が貫かれ、すべて、とりわけ穀物が完全に相互融通される。」(p35)
「軍事化」の理想形ともいうべき古代ローマにおける「軍事化」についての記述である。
ポイントは、
・頂点も従属分子もなく一体化している(無分節状態)
・外部には「敵」が存在する
というところで、内部原理を分かりやすい言葉で表現したのが、
「皆は一人のために、一人は皆のために」
というスローガンである。
この点、「昭和陸軍」にも”現代の官僚”にも「頂点と従属分子」(例えば内部派閥=ボスと子分)が存在し、「皆は一人のために」の原理は徹底されない(切り捨てられる個人がいる)ので、理想形としての「軍事化」には遠いのだが、ともあれ「軍事化」を模倣した/模倣しようとしているのは確かだろう。
次に、「加入礼」がどういうものかが問題となるが、この原始的形態の代表例は、「割礼」である。
「種々の慣習のうちでも、割礼ほどでたらめに論じられたものは少ない。・・・この儀礼は似たような慣習、つまり身体のいずれかの部分を切断、切除したり傷つけたりすることによって、みなにみえるような形でその人間の身体に何らかの変化をもたらすような形でその人間の身体に何らかの変化をもたらすような慣習のカテゴリーに入れるべきである。・・・身体に何らかの毀損をうけた人は何らかの分離儀礼(切断、穿孔などはこのため)によって一般の世間から隔てられ、同時にある特定の集団に自動的に統合されるが、痕跡を消し去ることができないようなやり方で傷つけるため、この統合は終身的なものとなる。」(p98~99)
原始社会では、個人を一般社会から分離して特定の集団に統合するための儀礼=「加入礼」として、「身体毀損」という手法を多く用いていた。
ただ、これはさすがに限界があるし、そもそも「加入礼」の狙いは「身体毀損」それ自体ではない。
本来の狙いは、「それまでの自分を『一時的な死』に至らしめ、新たな自分として『再生』させる」ことである。
要するに、「加入礼」の主な要素は、「一時的な死」と「再生」である。
「エスキモー、チャム、ギリシア、インドネシア、メラネシアおよび北米インディアンの加入礼についての記述を引証したユベールとモースは正当にも、「この一時的な死という考えは宗教上の加入礼にも、呪術上の加入礼にも共通したテーマである」と述べている。」(p143)
「昭和陸軍」も”今の霞が関”も、「一時的な死」と「再生」による「加入礼」を行っていた/行ってきたはずだが、もちろん、原始社会のような露骨な方法を用いたわけではないだろう。
では、どうするのだろうか?
ここでも、シェイクスピアが参考になる。