「ことにデジレがリラによってオーロラに引き合わされる幻想の場面。従来はここでデジレとオーロラがともに踊ることも多いのですが、斎藤版では、オーロラとデジレはけっして触れ合うことはありません。なぜなら彼らは異なる次元、世界にいるから──というのが斎藤の解釈です。「100年の眠りにつくということは、一旦‟死ぬ”ことと同じ。オーロラはいわば黄泉の世界にいるのです」(斎藤)。そのオーロラは、ここではリラに導かれ、彼女の動きをなぞるように踊りますが、この振付のアイデアは、同じフレーズがリフレインしていくこの部分の音楽の自分の解釈でもあると斎藤は語ります。その幻想ののち、リラに導かれてオーロラの城へ向かうデジレは、彼女と出会うために現世と異界を隔てる“川”を渡っていきます。「‟パノラマ“の場面ではこの考え方を強調して演出を施しました」(斎藤)。」
この物語に「眠り」と「死」のパラレリズムが盛り込まれていることは明白なのだが、そのことを強調した演出・振付はあまり見かけない。
その点で、上に引用した斎藤芸術監督の解釈は素晴らしい。
だが、あえて難を言えば、「川」(=「この世とあの世をつなぐもの)が十分強調されたいたと言えるか、やや疑問が残るように思う。
「数々の神話でも描かれるように、異次元の世界へ行くためには、川は絶対に必要な要素だと思っていました。装置・衣装についてもニコライ・フョードロフの協力を得ましたが、彼が真っ先に手がけたのが、パノラマと呼ばれるこの場面です。デジレたちが川を進んでいく様子をリアルに表現するために、プティパによる初演時の技法を採用し、長さ44メートルにも及ぶ動く背景画を設えました。これはこの世からあの世へと私たちを導く、極めて重要な”装置”なのです。」(公演パンフレットより)
「いまはスモークを炊いて、船をラジコンで動かすやり方が主流ですが、ボリショイ劇場でも昔は後ろの背景を三、四分かけてずっと動かしていたんです。」(p22)
観客の目は、どうしても動いているダンサーに向かってしまう(中には、オペラグラスでメインのダンサーばかり追いかけているお客さんもあるくらいである。)。
となると、ダンサーが何らかの動作をしている間、観客の目が”背景”に向かうことは余り期待できない。
なので、「川」を強調しようとすれば、例えば、この間はダンスをストップするか、あるいは、(斎藤芸術監督は否定的に評価しているけれども)ラジコンの「船」を登場させて動かす(例えば、No.17 パノラマ「眠りの森の美女」第2幕、オデッサ劇場バレエ団)などするのが効果的なのではないかと思うわけである。
ちなみに、夢幻能においては、音(=笛と太鼓)だけで、「この世からあの世へのトランジッション」を図っているわけだが、これをヒントにして、「背景=動く川だけ(無人)の舞台」に神秘的な音楽を流すという方向性もあるように思う。