平成30年7月 法語 「雑毒の善をもって かの浄土に回向する これ必ず不可なり」
(解説)
これは親鸞聖人の、『浄土文類聚鈔』にある言葉です。
「雑毒の善」というのは聞き慣れない表現ですが、「毒の雑った善」という意味です。ここでの「毒」は、煩悩を指しています。つまり「煩悩を持ったままでは、いくら善行に励んでも決して往生できない」という私たちの事実を、ずばり指摘しているのが、この言葉なのです。
ただ、「雑毒」であろうと善は善です。悪ではありません。悪事をはたらけば地獄に落ちて、善行を積んだら往生できる。こういう話なら、とても簡単です。けれど親鸞聖人は、善の質を問題にしました。これは、どうしてでしょうか?頑張って清らかな善を積めと、そう言っているのでしょうか?
しかし私たちの煩悩は、決して無くなるものではありません。自分に無いものを欲しがり、自分が嫌うものを遠ざけ、自分の意に沿わないものへ腹を立てるのが、私たちの現実です。そうであるなら、私たちが行う善も全て、「雑毒」なのではないでしょうか?
(解説)
これは親鸞聖人の、『浄土文類聚鈔』にある言葉です。
「雑毒の善」というのは聞き慣れない表現ですが、「毒の雑った善」という意味です。ここでの「毒」は、煩悩を指しています。つまり「煩悩を持ったままでは、いくら善行に励んでも決して往生できない」という私たちの事実を、ずばり指摘しているのが、この言葉なのです。
ただ、「雑毒」であろうと善は善です。悪ではありません。悪事をはたらけば地獄に落ちて、善行を積んだら往生できる。こういう話なら、とても簡単です。けれど親鸞聖人は、善の質を問題にしました。これは、どうしてでしょうか?頑張って清らかな善を積めと、そう言っているのでしょうか?
しかし私たちの煩悩は、決して無くなるものではありません。自分に無いものを欲しがり、自分が嫌うものを遠ざけ、自分の意に沿わないものへ腹を立てるのが、私たちの現実です。そうであるなら、私たちが行う善も全て、「雑毒」なのではないでしょうか?
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