生のみが 我らにあらず 死もまた 我らなり
(解説)
夏の終わり頃になると、いつも数年前に訪れたインドの思い出が甦(よみがえ)ってきます。ヒンドゥ-教の聖地ベナレスでは、ガンジス河での沐浴を見学するために、私たちは朝5時に起き、川べりのガ-ト(沐浴場)に出かけました。そこでは上半身裸の男たちやさまざまな色あいのサリ-を身にまとった女たちが、ガンジス河に身をひたし、河の対岸に昇る朝陽に向かって祈りをささげていました。そして、ガ-トを少し離れた川べりには人間の死体を焼く場所があり、そこからいく筋かの煙が立ち昇っていました。
ヒンドゥ-教徒たちは聖なる河ガンジスで沐浴することによって、現世の罪を洗い浄め、来世の幸せを祈ります。彼らにとって「死」は来世の幸せへの門であり、希望であり救いであるのだといいます。ひるがえって考えてみると、私たちの国ではどうでしょうか。死が救いでありうるのでしょうか。
私たちの社会では従来、死を語ることはタブ-視されてきました。死を忌み嫌い、死から目をそむけ、死を忘れて、もっぱら生の側面だけを強調してきました。私たちにとって、死とは“すべての終わり”であり、どんな楽しげな人生も、死の前には無意味であり空しいこととされます。
本学の初代学長であった清沢満之(1863~1903)は、明治27年の春、32歳のときに、かつては不治の難病とされた結核の診断をくだされました。死の現実に直面し、常時迫りくる死の不安を克服するために「生死を超える」という「人生最大の事件」に必死で取りくむことになります。そして、清沢は「生死問題は、生と死を別離して解決し得らるゝものにあらざるなり」と示し、「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」と述べています。
私たちは自分の死を凝視することを通して、はじめて人生の根本問題に遇うことができるのであり、死によって無意味とならないような豊かな人生のあり方を問うことができるのです。清沢は、生死がひとえに「不可思議なる他力の妙用(みょうゆう)」に依ると確信することによって、生死の問題を解決しました。清沢の絶筆である『我が信念』の結びには、「私はこの如来の威神力(いじんりき)に寄託して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事をこの如来に寄託して、少しも不安や不平を感ずることがない」と語っています。
(解説)
夏の終わり頃になると、いつも数年前に訪れたインドの思い出が甦(よみがえ)ってきます。ヒンドゥ-教の聖地ベナレスでは、ガンジス河での沐浴を見学するために、私たちは朝5時に起き、川べりのガ-ト(沐浴場)に出かけました。そこでは上半身裸の男たちやさまざまな色あいのサリ-を身にまとった女たちが、ガンジス河に身をひたし、河の対岸に昇る朝陽に向かって祈りをささげていました。そして、ガ-トを少し離れた川べりには人間の死体を焼く場所があり、そこからいく筋かの煙が立ち昇っていました。
ヒンドゥ-教徒たちは聖なる河ガンジスで沐浴することによって、現世の罪を洗い浄め、来世の幸せを祈ります。彼らにとって「死」は来世の幸せへの門であり、希望であり救いであるのだといいます。ひるがえって考えてみると、私たちの国ではどうでしょうか。死が救いでありうるのでしょうか。
私たちの社会では従来、死を語ることはタブ-視されてきました。死を忌み嫌い、死から目をそむけ、死を忘れて、もっぱら生の側面だけを強調してきました。私たちにとって、死とは“すべての終わり”であり、どんな楽しげな人生も、死の前には無意味であり空しいこととされます。
本学の初代学長であった清沢満之(1863~1903)は、明治27年の春、32歳のときに、かつては不治の難病とされた結核の診断をくだされました。死の現実に直面し、常時迫りくる死の不安を克服するために「生死を超える」という「人生最大の事件」に必死で取りくむことになります。そして、清沢は「生死問題は、生と死を別離して解決し得らるゝものにあらざるなり」と示し、「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」と述べています。
私たちは自分の死を凝視することを通して、はじめて人生の根本問題に遇うことができるのであり、死によって無意味とならないような豊かな人生のあり方を問うことができるのです。清沢は、生死がひとえに「不可思議なる他力の妙用(みょうゆう)」に依ると確信することによって、生死の問題を解決しました。清沢の絶筆である『我が信念』の結びには、「私はこの如来の威神力(いじんりき)に寄託して、大安楽と大平穏とを得ることである。私は、私の死生の大事をこの如来に寄託して、少しも不安や不平を感ずることがない」と語っています。
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