家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

水遊び

2015-08-13 07:23:32 | Weblog
午前中の作業を終えてランチタイムになった。

安普請の家の中にいると暑いので外に出ることにした。

家の前の道を車で5分走る、というより登る。

車から出てすぐに感じた。

気温にして2度は低いし湿度もかなり低い。

でも小さな滝があるから水分は漂っているはずだ。

これがマイナスイオンってやつかな。

とりあえず山から落ちてくる水に手を入れてみる。

「ウォー冷たい」

手を入れておけるように流れの中の石をどけて穴を作る。

既に子供のように水遊びが始まっている。

最近TVでサバイバルものを見る機会が多い。

ウォーター シェルター ファイヤー フード といって生きるのに必要なものを知る。

この湧き出して間もない透明な水を見て喜ぶのには私のご先祖様というより、もっと前の人間以前の時代からの喜びのような気がした。

飲める水を確保できたときの歓喜。

私の内側から出てきてしまう動物的な喜び。

「これで生きていける」という安堵。

座る場所がないので車の中で持参したおにぎりを食べた。

たわいもない食べ物が最高のゼイタクのように感じられる。

食後今度は少し大きな水の流れの中に足を入れてみた。

思わず肩が上がり「ヒャー」という声が出た。

冷たいのなんの。

この冷たさを利用して持ってきた麦茶のボトルを置いておいた。

ここでも石を並べ替えて水の流れを変え枯れ枝を取り除いてきれいにする。

人の声が聞こえないほど大きな流水の音が私の耳を通して体全体を包み込む。

なんと心地良いのか。

少しの砂利にでも痛がる私のひ弱な足。

だがどんなに弱った肉体でも本能的な喜びには変わりない。

靴下を履き靴を履いて生活するから失ったものはたくさんあるはずだ。

クーラーを効かせて生活しないと熱中症になるこの頃。

足で感じた冷たさが失っていく何かを教えてくれたような気がした。

麦茶のボトルを取り出してみると、まるで冷蔵庫から取り出したばかりのように少し曇っていた。