家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

父の見舞い

2014-12-22 08:13:23 | Weblog
家族団らんの所に長男が何かを落とした。

それが父に当たり、父は椅子から崩れ落ちた。

すると母と姉が笑った。

私は、その笑いに耐えられなくて「やめろ」と大声を出した。

夢だった。

朝食の時、妻に「ありそうな夢だろ?」と話して聞かせた。

懐かしさを覚えたような妻の答えが戻ってきた。

実は私は、ある感染症に罹り38.4℃の熱が出て病院に行く以外は家のベッドにいた。

インフルエンザではなく細菌感染だ。

発熱のため食欲はなく、おまけに水も飲みたくない。

衰弱という言葉が私の現状を表す。

それは突然厄介な病状として眠っていた私を襲ってきたのだ。

「寒い」と感じて飛び起きた。

ガタガタと震え電気毛布の電源を入れて温まるのを待つ。

だが毛布は温まっても体は、まったく温まらず、その後一睡もできなかった。

一日療養したが熱は収まらず痛みを覚える箇所もあったので翌日病院を訪れた。

抗生物質を飲んで回復を図る。

ユルユルとではあるが確実に回復してきた。

熱が下がると食欲も出て3Kg急落した体重も徐々に戻している。

痛みも減り睡眠の時間も深さも増した。

気分がよくなり少し外出をした。

帰宅して上着をタンスにしまうとき下に見たことのある柄の布を見つけた。

出してみると、やはり見覚えのあるものだった。

父が着ていたコートだ。

袖を通してみた。

少し太いがサイズとしては、合っている。

鏡の前で見てみた。

生前の父の姿を思い出した。

ポケットに手を入れてみた。

「ん?」

右のポケットに何かを感じた。

出してみたら使い捨てライターとタバコ1本だった。

ついさっき吸うのをやめてポケットに収めたかのようなタバコ。

「はっ」となった。

やはり父が来てくれたのかなぁ。

「お父さんが心配して見に来てくれたんじゃない」

先日の妻の答えた言葉に説得力を持たせるものだった。

タバコとライターは、その証拠に置いていったのだと思っている。

枯葉集め

2014-12-04 07:44:44 | Weblog
この時期春野は枯葉が、あたり一面を埋め尽くす。

ホウキやブロワーで集めて袋に収める。

昼食をとっている間に強い風が吹くと元の木阿弥。

毎年やっていることだが今年は袋を大きくしてみた。

今までは大きめのゴミ袋だったが今回は150リットルの物だ。

さすがに150リットルというのは、とてつもない量だ。

この枯葉を近所のNさんにあげる。

Nさんは畑に蒔くという。

例年はNさんが乗用車で通りかかる時に積んでいくのだが今年は、そうはいかない。

乗用車に乗らないほど大きい袋なのだ。

だから農業用二輪車に乗せて家まで運び届けた。

2袋ともなると結構な重さだ。

上り坂は手で荷物を押さえることができるから、まだましだ。

下り坂になると、ドンドン下って行きたい二輪車を右手片方だけで制御し荷物の落下を左手で押さえる。

腰が引けて靴の摩擦力だけが体と心の支えだ。

空になった二輪車は軽くて抑えが効き快適だ。

私の足の前輪駆動でスイスイと帰ることができる。

Y爺さんにもあげるのだが彼は軽トラックなので問題なく持っていく。

彼はコンニャク畑に蒔いて地面の凍るのを防止するらしい。

今まで散ったのはケヤキ、ヤマボウシとハナミズキそれから柿その他の草花だ。

まだモミジは残っているし、それが終わると、いよいよ一番量の多いコナラになる。

空からハラハラハラハラ色づいた葉が落ちる様は、あわれを感じるが、その後の処理には疲れ果てる。

溝に溜まった枯葉をすくい出して捨てるだけで筋肉痛になる。

紅葉のきれいな部分を見て楽しむだけでなく地に落ちて木々のための次の役割を担う枯葉を処理するのも、これまた楽しいものだ......と言っておこう。

私は今人生の紅葉を終えるところか。

あるいは既に散って木々のために役立っているのか。

これから紅葉ということはない。

散っても役に立っていないということも十分に考えられる。








型枠

2014-12-03 08:13:39 | Weblog
庭の屋根下に、ある物を設置することにしている。

その物は重さが100キロあるので床にコンクリートを打つ必要がある。

そんな話をY爺さんとして私は伊豆に遊びに出た。

帰宅した翌日セメント1袋と25ミリの砂利を1袋購入して春野に行った。

何と!予定していた場所に既に型枠が出来ていた。

Y爺さんに違いない。

彼が私の話を聞いて設置してくれたのだ。

電話してみた。

「90×60だっていうから100×70にしておいた。いっかい見てもらおうかと思って」という。

造りは完璧で文句のつけようがない。

さすがに元土建の仕事をしていたY爺さんの造り物だ。

ミリ単位で細かく細工し隅々まで手が行き届いている。

ここに来る途中で考えていた自分のお粗末な計画が恥ずかしく思えた。

「ありがとうございました」と心から礼を伝えた。

「それでねぇ、来週にコンクリートを打とうと思うから、これとこれを用意してください」という。

「分かりました。よろしくお願いします」と言って電話を切った。

セメントと砂利と砂は既に用意してあるし中に敷設する鉄筋は以前買ってあるものを準備した。

翌日Y爺さんから電話が来た。

その日は午前中雨だったので行かなかったのだ。

「今日ね、午後から見に行ったら材料が全部整っていたもんでコンクリート打っときましたで」という。

来週から冷え込むと天気予報で言うしY爺さんの親戚で不幸がありそうだという理由で予定より早く決行してくれたのだ。

見れば完璧に仕上がっている。

砂の袋は、裏にまだ有ったのだけど、なくなってしまったので川に取りに行ったと教えてくれた。

何から何までありがたい。

かくして私は材料を準備し写真を撮っただけで何の手も出さずに立派な台を手に入れた。

申し訳ない話だが農閑期になると大なり小なりY爺さんのやりたいことを私の家でやっているという事実がある。

お互いの利益になることだから、このままこの関係が長く続くことを祈る。






レンタン火鉢

2014-12-02 07:02:05 | Weblog
友人の奥さんからレンタン火鉢をもらった。

彼女は、その火鉢を捨てているところに出くわしたらしい。

私も同じことを言うと思うが

「ください」

と言ってもらったという。

その火鉢が私のところに回ってきた。

見れば普通の火鉢ではなくレンタンを使う専用の火鉢だ。

さっそくレンタンと火鉢の中に入れるレンタンコンロを購入した。

レンタンコンロが1480円でマッチレンタンというマッチ1本で点火できる便利なレンタンが14個入りで2000円だ。

レンタン火鉢の中にレンタンコンロを入れてみた。

少しレンタンコンロの方がレンタン火鉢より上に出てしまう。

レンタン火鉢の底に付いている空気取り入れ口がレンタンコンロに当たってしまうからだ。

削り取ることにした。

別に削り取っても支障はない。

今度は大丈夫。

レンタンコンロとレンタン火鉢の上の高さが一致した。

試してみた。

マッチではなくチャッカマンで着火する。

一瞬で花火のように「バチバチ」と炎と煙が上がり着火成功。

火が落ち着いてから妻の染物用の鍋を乗せる。

思ったほど火力はないが長時間燃え続ける。

6~8時間燃えるという。

妻の染めは、ヤシャブシという植物の実を使用する。

鍋の中は真っ黒になっている。

入れた布は順調に染まり成功した。

ただ、あまりにも長く燃え続けるので、その処理に気を使った。

危なくない場所に置いて何も引火するものがないことを確認して帰宅した。

その後見ていないから灰の処理もしていない。

火事になったという報告もない。





いづみ園入浴

2014-12-01 07:44:28 | Weblog
お土産までいただいた小春荘をあとにして宇久須から山道に向かう。

どこもかしこも晴れ渡っているのに一部遠くの山に霧が掛かっている。

「あそこを通るのかなぁ」と思いつつ前の車に付いていく。

舗装路だが落ち葉が散乱している。

道幅が、とても狭いが対向車が、ほとんど来ないことが救いだった。

頂上付近では眼下の宇久須の町と駿河湾そして、はるか遠く対岸である静岡市まで、はっきり見えた。

今までより、これからが道幅が狭いのだと聞いてがっくりきた。

だが紅葉真っ只中を走る気分は最高だ。

色のついた葉を踏みしめて走るより、やはり紅葉は木にくっ付いているうちに見るのがいい。

ふもとで見た霧の中を、やはり走ることになった。

前の車のテールランプがありがたい。

霧は濃くなったり薄くなったり、また流れて消えたりする。

対向車が来て急ブレーキを2度ほど。

ブレーキ性能の良さを確かめると、まもなくいづみ園という風呂に着いた。

10時から会館らしいが、その前に我々を受け入れてくれた。

露天風呂は我々だけで貸し切ったようなものだ。

青空に映える紅葉。

木々は去った夏を思うより、この先の冬の準備をする。

岩に腰掛けて時折肩から湯をかける程度が気持ち良い。

寝湯に入ってみると、とても心地よい。

「棺桶のような木の枠にブルーシートを張って露天風呂作るかぁ?」と浮かんだ。

岩に頭の重さを沈め足先は石の上に置く。

腰が浮力で軽くなり、暖かさを伴って自然と体中が弛緩する。

耳元に落ちる湯の音が何も考えられなくする。

考えないことのリラックス感といったら抜群だ。

伊豆の民と話すと山のこともよく知っているし、さらに海のこともよく知っている。

私は最近になって山に行くようになり山の知識は増えたが海についてはサッパリだ。

生まれながらにして海もあり山もある伊豆の生活が、いかに豊かなものであるのか知った。

その上温泉も、至る所から湧き出しているから私が考えている以上に温泉に浸かっているのだろう。

勉強して覚えた知識じゃなく子供の頃から経験しながら身に付いたものほど説得力がある。

昨日の露天風呂とは違う今日の露天風呂。

海鮮満載の民宿。

かくして伊豆をもう少し深く知った私は、まだまだ知りたい気分になって帰宅した。

身近になった伊豆は宝の宝庫だ。