家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

かまど設置

2015-01-16 07:39:52 | Weblog
去年末、私の留守にY爺さんが、丸々作ってくれたコンクリート土台の上に、このほど、かまどを設置した。

かまどは骨董屋で見つけた昭和34年製の物で古い生活器具の割には程度が良い。

骨董屋の軽トラックに乗せて運び最後は4人でかついで土台に乗せた。

イソライト工業という会社の製品で「超効率かまど」と鋳物製のフタに書かれている。

前面と上面はタイルで化粧されていて、そのタイルが10枚程度剥がれている以外は、鋳物も全て生きているし全体がきれいだ。

タイルは、その下に亀裂が入っているから剥がれた、ということが外から見える。

それらを直し煙突を立て釜輪を1枚新調して完璧にする。

まず耐熱パテで亀裂を埋めタイルを貼る。

パテの粘度が少し硬いため作業し辛い。

チューブを押しても素直に出てこない。

歯磨きのチューブのようにはいかない。

チューブの中のパテを使い切ろうという時には、更に重くなった。

細かく見ていくと、結構亀裂が多く150グラム入りのチューブを3本使った。

炉も使いすぎで荒れていたため、そこは耐熱モルタルで形を整えた。

煙突は現在購入することのできる最も細いステンレスの物で代用する。

木造の屋根を貫くため接点が燃えないようにスレートに穴を開けて煙突を通し、それを屋根に貼って木とは触れないようにした。

釜輪は何と新品があり、それを購入した。

ロストルは欠損していて間に合わせの物が入っていた。

炉が狭いのでエキスパンドメタルという金属で代わりをさせることにした。

エキスパンドメタルは90×180でヴィッツの室内にギリギリ乗せることができた。

頭を少し下げながら運転して春野まで運んだ。

金切りバサミで炉の大きさに合わせて切り抜き、それを炉に置いて作業は終えた。

さて初めて火を入れる。

枯葉を入れて着火してみる。

火は簡単に点き煙も、ちゃんと煙突から吐き出された。

かまどの亀裂は全て埋めてあることの証拠に煙が妙な所から出てくることはなかった。

炉は大小二つあり、それぞれ使い道が違うようだ。

二つの炉を繋ぐ火の道が取り外しのできる鉄板で遮られているし煙突に流す煙の方法も違う。

炉が小さい割に熱効率が良いらしく羽釜に入れた水からは、すぐに湯気が上がり始めた。

今後使い込んでいくうちに炉の使い方を覚えていくことと思う。

羽釜で炊いたご飯を食べたいし、大鍋で芋煮なども楽しむつもりだ。

もちろん妻の草木染めにも協力しようと思っている。




通い慣れた道で

2015-01-14 09:09:15 | Weblog
天竜川の堤防を利用した道路に出ようとしていた。

道路は下流に向かって右に緩く、そして長くカーブしている。

そのカーブの途中に接続する一旦停止の三叉路。

そこを目指していた。

私の走る道は、やはり右にカーブして堤防道路に接続している。

交差点は坂を上がり、上がりきったところに位置している。

堤防なのだから登るのは当然だ。

一旦停止の停止線は道路に出る手前に引かれている。

坂を登っていくと、堤防の草がきれいに刈り取られているおかげで見通しが良い。

交差点に近付くとき左側の上にに見える私の走るべき道路を見る。

一旦停止する前にも、できるだけ交通事情を観察しておく。

車の前部が少し上がった状態で一旦停止。

私は一旦停止の際3秒止まる。

車輪が止まった瞬間、車が後ろに戻る感覚になる。

と同時に「ドン ニッ サン」と数える。

右から来た車は私の走ってきた道に左折して通り過ぎた。

次に左を見る。

よくある垂直に接する一旦停止と違って目と首の運動では確認できず左を見るというより、腰をひねって、ほぼ後ろを見て確認する。


誰も来ない。

車をスルスルと発車させた。

次の瞬間目の前を箱タイプの軽自動車が「ブーン」と通り過ぎた。

あまりにも瞬間だったのでブレーキをかける間もなかった。

軽自動車には老夫婦と犬が乗っていた。

私は危うく彼らを堤防の下に突き落とすところだった。

キチンと止まり左右を確認したのだが、その時点で彼らは私の車の後部のピラーの部分にいたらしい。

彼らからは私の車がはっきり分かる。

止まっている私が、よもや走り出すとは思ってもみなかったのであろう。

クラクションを鳴らす暇もなく車はニアーミスを起こした。

本当に悪いことをしてしまった。

彼らの後ろ姿を見て冷や汗をかきながら無事であった彼らをありがたいと思った。

高速道路などで本線と合流する時には、右方向に走っていく。

しかし左の合流というのは少し厄介だ。

これからは、もっと気をつけようと固く誓った。

62歳になって

2015-01-11 16:59:34 | Weblog
無事に迎えた62歳の誕生日。

「あの日は寒かった」という母の名文句が聞けなくて残念だ。

何かに付け母の思い出に浸る自分が少し情けない。

何歳になっても息子に変わりはないが87歳の母と61歳の息子だったら老人をいたわる保護者としての自分を、もっと前面に出すべきだと思うことが増えた。

まさにピンピンコロリを実現させた母の死を、もっと褒めるべきだとも思う。

へその緒が、取れてなかった気がする。

誕生祝いとして旅行気分を感じてみようということで三河湾沿いのホテルの日帰りプランを利用した。

30年前に家族で訪れたことのある場所だ。

しかし、どこもかしこも全く記憶にない。

風呂に入って料理を食べる値段が、ちょっと洒落たレストランで飲んで食べた値段と変わらないので、少しだけお得感があった。

だが古くなったホテルというものの荒んだ感じが物や人など随所に見られて来年も来ようとは思わない。

さてこの一年は野菜つくりに精を出そうと思っている。

春野では野生動物に食われてしまうので遠慮していたが少しだけ畑を囲ったので、そこで作ろうと思う。

囲いができればシカやイノシシなどは排除できる。

サルには入られるが、そこは作るものを吟味すれば問題ないと思う。

新たな目標のある新たな一年。

自分の周りの人達に感謝し来年には、さらに収穫にも感謝していることを願う。





昨年末から仕事始めまで

2015-01-07 07:47:47 | Weblog
昨年末は恥ずかしながら細菌に負けてしまった。

「免疫力が強ければ何にも負けない」と常々言っていた言葉をそのまま自分に言って聞かせることになった。

情けないことに細菌という小さなものが体に入り込むや、急激に私の体は衰弱していった。

だが味噌汁のTVコマーシャルを見て「美味しそうだな」と感じるようになった時には既に回復の道をかなり進んでいたことを実感した。

元気になった頃に友人から呑み会の話が来た。

山海の珍味を食べながら美味しい酒を飲むという、またとない良縁だ。

だがしかし私の体には抗生物質というアルコールを控えるべき物質が蔓延していたのだ。

微小のものに翻弄された自分が、美味しい申し出を自分で断るという罰を受けた。

年が本当に押し迫った頃に行われる餅つき会には参加した。

今回は何臼も搗いた。

初めから、そうしようと考えていた。

筋肉痛で「明日は起きられない」と感じて、そう言いながら杵を上下した。

だが翌日も、3日後も、その後もまるで筋肉痛はなかった。

「頑張ってよかったな」と感じている。

一緒に餅つきを楽しむ仲間に医師がいる。

繊細な手術を含む科なので杵を思い切り振ることはしないが、自分の持ち場を決め淡々と毎年こなしている。

それも人が嫌がる冷たい水に触る担当だ。

こういう人が「大成する人なのだな」と、つくづく痛感する。

また彼の奥様も同様にするから「大成する人の傍らには、必ずこういう人がいるのだな」とも感じる。

さて年が開けて実家に挨拶に出かけた。

母のいない正月を初めて経験する私には間が抜けた感じがする。

楽しいが寂しくてしかたがない。

母の代わりに登場したのは子猫だ。

猫がいると、場がそれだけで明るくなり話題に事欠かなくなる。

全てが必然ならば、こういう流れも決まっていたのだなぁと納得した。

帰省した長男とは実質3日間過ごした。

元日の内には我が家に戻っていたらしいが熟睡中で気付かなかった。

彼とは墓参りをした以外は家の中にいた。

外食の多い生活の彼に妻が手料理を食べさせたいと思ったからだ。

彼の活躍をTVで見たり彼の推奨する本を図書館に予約したり話題は尽きない。

だが仕事の電話は彼に休息を与えることをしない。

いつ、どこにいても繋がっている社会に逃げ道はない。

FAXも電話すらなかった時代のことが嘘のようだ。

世間は仕事始めになり全てが元に戻っていった。