平成18年5月15日(月) 昼
お使いから歩いて帰宅している途中小学校の横の道路に人だかりを見つけた。近づくと誰かが道路に寝転がっているということが分かった。辿り着いてみるとお爺さんが道路脇に寝転がり女性が二人世話をしていて、また別のお爺さんが自転車を止めて世話仲間に加わっていた。
「どうしました?」と私は声をかけた。
「こちらの方が具合が悪そうなので」中の一人の女性が答えた。
寝ているお爺さんの顔を見て、すぐにそれが近所の奥さんの父親だと気が付いた。
「ああこの人はTさんですよ。うちの近所の奥さんの父親です。今この方の娘さんを連れてきますね」と言ってTさん宅へ走った。
しかし留守であった。呼び鈴を押しても応答がないし玄関の鍵もかかっている。
いつもなら奥さんと定年退職したご主人が居るのだが今日はいないようだ。
私は一旦帰宅し妻に事情を話してTさんに電話してみることを頼み現場に戻った。
現場に到着して娘さんが留守なことを告げた。
「さて、どうしましょうかね。このままここに居るわけにもいかないし・・・・・・。救急車を呼んだほうが無難ですかね。顔色も悪いし・・・・・」と私が言って携帯電話をかけようとすると
「止めて」と小さな声で寝ているお爺ちゃんが言った。言いながら起き上がろうとする。
「ああ小山さん」と私に気が付いた。
そして駆けつけた妻にも「ああ小山さん」と言った。
「このまま通りの激しいところに、いつまでも置いておくことは出来ないから、とりあえず私の家に連れて行ってTさんの帰りを待ちます」と私が切り出し皆が同意した。中の一人の女性が「私の車を持ってきます」と言って付近に止めてあった車をとりに行った。
すると偶然通りかかった警察車両が止まり警察官が下りてきてくれた。
「どうかしました?」
私が事情を告げると
「じゃあ、この車で運びましょう」と言って警察車両を使って運ぶことに同意してくれた。
警察官は背中にT爺ちゃんを背負い警察車両まで連れて行った。
警察車両は大きなワンボックス車で後の席がロックされていたので私がエンジンキーを抜き鍵でスライドドアのロックを外しドアを開けた。
警察官の背中から下ろされたT爺ちゃんは目が死んでいた。開けてはいるが焦点は定まっていない。その上よだれが出てきて口から垂れ始めた。
後のベンチシートに横たえると、そのよだれが喉に引っかかるらしくむせて咳を出した。よだれは泡っぽくなっていた。
私はこのままにしておくと気管支によだれが入ってしまうと思い警察車両に乗り込み後の席からT爺ちゃんの頭を起こすように支えていた。
T爺ちゃんは、思いのほか重い。右腕の中にT爺ちゃんの頭を入れて起こしていた。
腕にはT爺ちゃんの体重と体温と汗を感じた。また独特の体臭がした。
突然「うぉー・・・うぉー・・」と小さな声で辛そうに叫んだ。泣いているような響きだった。
「大丈夫だよ。お爺ちゃん」と私は声をかけた。
しかしT爺ちゃんは目も開けず泡のよだれを垂れ続けた。
私は一瞬このまま私の腕の中でT爺ちゃんが亡くなるのかと思った。
T爺ちゃんの異変に気が付いた警察官が無線で救急車を呼んだ。
救急車を待つ間にT爺ちゃんは元気になり始め警察官の問いにも何とか答えられるようになってきた。
妻がT爺ちゃんの娘婿を連れてきた。
婿さんは警察車両の中に座っているT爺ちゃんを見て、いたわることなくいきなり
「だめだって言ったじゃん。出歩いちゃ。今日は人が来るって言ったじゃない」と静かではあるが叱る口調で言った。眼は怒りに満ちていた。
そして警察官に「済みません」と言い私にも体裁悪そうな顔をして「済みません」と言った。
警察官が「今具合が悪そうだったから救急車を呼びました。病院に行くようでしたら救急車で行ってください。もしこのまま帰って様子を見るようでしたら、このまま私が家まで送ります」と言った。
だが婿は何の判断も下さず、ただ自分の妻が来るのを待っていた。赤の他人の事故のように立ち入ることを避け自分はこの人で困っているのだということだけを我々に示したそうだった。
T爺ちゃんがなぜ救急車を呼ぼうとした私を制したのか分かったような気がした。
救急車がサイレンを鳴らしてやってきて我々の居る警察車両の前でサイレンを止めて駐車した。隊員が下りてきた。警察官がことの経過を説明した。
T爺ちゃんは、元気になり「うちに帰る」と言う。
隊員は「それじゃあ血圧だけ測らせて」と言って測り始めた。
別の隊員が駆けつけたT爺ちゃんの娘さんにサインをさせていた。
血圧120~?
私は全てやるべきことをやり終えたと思い
「それでは後はよろしくお願いします」と皆に伝えて帰路についた。
歩きながら妻の憤慨について聞いた。
「まったく、あのご主人はひどい人。私が呼びに行ったら、奥さんのケータイに電話して、いきなり『バカヤロー。お前、何やってんだ。すぐ来い』って怒鳴ったのよ。怒鳴ったってしょうがないじゃないね。お前の親でもあるんだよって言ってやりたくなっちゃった」
妻は婿さんの態度を直接目の当たりにして、かなり腹を立てていた。
余命幾ばくもない老人に対する態度だけでなく自分の妻に対する態度にも許しがたい姿勢を見たからである。
4時間ほど経過してT爺ちゃんの娘さんがお礼を言いに寄ってくれた。
あの後救急車ではなく警察車両に乗せてもらって家に帰った。警察官が家の中までおんぶして入れてくれたと聞いた。
初めに世話をしていてくれた女性も別のお爺ちゃんも警察官も救急車で駆けつけた隊員も皆親切であった。私の住んでいる町も捨てたものでもないなと実感し嬉しくなった。