歴史は人生の教師

高3、人生に悩み休学。あったじゃないか。歴史に輝く人生を送っている人が。歴史は人生の教師。人生の活殺はここにある。

蓮如上人物語(41)(信心の沙汰)

2010年11月09日 | 蓮如上人物語
蓮如上人物語(41)(信心の沙汰)

急速な真実興隆は、上人が一貫して、
親鸞聖人の本当のみ教えを説き続けられ、
信心の沙汰を勧めておられたからである。

吉崎御坊時代の『御文章』には、
こう書かれている。

「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、
 わが信心は・ひとの信心は如何あるらんという
 信心沙汰をすべき用の会合なるを、
 近頃はその信心ということは
 かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ
 言語道断あさましき次第なり。
 所詮、自今已後はかたく会合の座中に於て
 信心の沙汰をすべきものなり。
 これ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり」
  〈御文章1帖目12通〉

せめて月に一度でも、法友が集まり、

『自分の信心は、ほかの人の信心はどうか』

と、信心の沙汰をするのが会合である。
しかし最近は、その信心の是非について
話し合われていないのだから、
言語道断、あきれて物が言えない。
今後は会合で、信心の沙汰をしなさい。
これが真実の極楽往生を遂げるに
大事なことであると
蓮如上人は信心の沙汰を勧められておられる。

吉崎に立ち並んだ「多屋」は、
各地の寺の宿舎であったのみならず、
上人のご説法をお聞きしたあとに、
布団に入るまで信心の沙汰をする場でもあったのだ。

山科御坊完成2年後に書かれた四帖目八通にも、

「もとより我が安心の趣
 いまだ決定せしむる分もなきあいだ、
 その不審をいたすべき所に、
 心中を包みて有の儘に語らざる類あるべし。
 これを責め相尋ぬる所に、
 有の儘に心中を語らずして、
 当場を言い抜けんとする人のみなり。
 勿体なき次第なり。
 心中を遺さず語りて、
 真実信心に基くべきものなり」。
  (御文章4帖目8通)

信心決定していないにもかかわらず、
疑問を尋ねずに心中に包み隠して、
ありのままに語らない者があるようだ。
その場を言い抜けようとする人ばかりである。
もってのほかだ。
心中を余すところなく語り、
真実信心を獲得せねばならない。

信心の沙汰を繰り返すことで、
門徒の信度が深まり、

「群集して幾千万」

と『帖外御文』にあるほど
人々が群参した山科には、
他派の門徒も、蓮如上人を慕って
参詣していたことが分かっている。

初めは、京都に小堂を構えるに
すぎなかった本願寺に比して、
仏光寺派、木辺派などの
真宗他派のほうが、ずっと優勢だった。
が、それらのトップが
末寺数十カ寺を引き連れて
蓮如上人に帰属し、
真宗地図が大きく
塗り替えられてしまったのだ。

このように、山科本願寺で
盤石のドメインを築かれた上人であったが、
82歳になられてさらに、
山科御坊の別院として思い立たれたのが、
大坂・石山本願寺であった。

未来の親鸞学徒のためにも、
これはぜひ必要だと決断され、
衰えを知らぬ情熱を傾けて
建立なされたのである。

翌年、門徒同朋の熱烈なご報謝で完成。
政治・経済・交通の要衝であることを
見抜かれた蓮如上人の先見性によって、
この石山の法城が、さらに80年後、
日本史を左右する激動の舞台となっていく。