Mooの雑記帳

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4月1日(木) あの世の友へ

2021-04-01 20:49:07 | 日記

今日は、中学で同級生だったつねちゃんの誕生日だ。あの世へ旅立ってからもう30年になる。
4月1日が生まれ日だったことは同級だったときから知ってはいたけれど、1日違っていたら学年が違うのだから、まさしく奇跡に近い生まれ方をした人(私にとっては・・・だが)だったわけだ。

いまでも時おり、もし生きていてくれたら、どんな会話をしていることだろうと考えることがある。
自立心が強く、自分の心を絶対に人には悟られまいとするような頑固なところを持った人だったから、その会話も何気ない世間話だけで終わることになるのか、それとも懐かしさに心を開いて、あのときのように素直な気持ちを吐露してくれるのか。いずれにしても、子や孫の話だけで終わることはないだろうということだけは確かだ。

こうして30年経ったいまも、私の記憶のなかに転写されて生き続ける人がいる不思議。おそらく、転写というのは結局のところ、その人の姿をありのままに写し取るのではなく、自分の都合のよいようにデフォルメしたものであって、その人の言うように「本当の私の姿をあなたは知らない」のだろう。若い頃の私は、いまとは違って(いや、あまり違わないのかも)、その変形の度合いは余りに大きかったから、一面ではまさに正鵠を射た私への批判でもあった。

しかし、一方では、私が求めていたものをその人もまた心の奥深くで求めていたことは疑いようがない。それは「与ひょうの実直さ」という私への評価に表れている。なぜ、大学生になって「夕鶴」の「つう」を自ら演じたことを私に知らせたのか。なぜ何枚もの写真を持ってきてわざわざ見せてくれたのか。
その後も長い間、私の中で、そのことを含めてさまざまな疑問が湧き出て、グルグルと同じところを旋回しながら繰り言を並べていたのだった。

ひとは、自分の心のなかにそっとしまい込んでいるものを、そう簡単には外に出さない。出せないと言った方が正しいのかもしれない。なぜなら、その思いは、それが形作られた「とき」と「ところ」の当事者でなければわからないことだし、大抵は、仮にその世界にいたところで分かるはずのものでもない。自分だけの体験と想像の産物であるわけだから。

今は、ただこの日がその人の生まれ日であることをこうしてたまたま思い出すに過ぎない。思い出せば、それまでの記憶がすべてよみがえり、流れ、そしてまた静かに消えていく。

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