すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

巣立ちを見届ける時の思い。

2014-10-15 16:57:38 | 日記・できごと
相手が誰であっても対等でありたい、年下であろうと対等を心がけている、そんな思いが強くありました。

でも、ぜーんぶ、思い込み。「対等でありたい」と意識する時点で、対等にはできない自分がいるということです。

それを証明する出来事と遭遇して驚きました。出来事よりも、その出来事に対して抱いた感情に自分でびっくりしたというのが正しいようです。




ある出来事とは・・・



その友人は、引っ越してきて間もない人でした。仕事を通して知り合った彼女、控えめで穏やかで、人懐こく、私はすぐに好感を持ちました。

彼女の役に立てる手ごたえが嬉しくて、地域の情報を伝え、仕事の相談にも乗り、家にも呼び、また彼女の家にも行き、仲間づくりにも協力する。

元々人助けが嫌いではないから、いつになく頑張った節があります。

友人は、その好意を気持ちよく受け取ってくれ、感謝もしてくれ、かつ私の領域に勝手に土足で踏み込まない、という見事なバランス感覚を持った人です。

いつしか、私の中に、彼女がこの地域で生きるための窓口は、私しかいないという使命感、頼られているという重圧を含んだ優越感が出来上っていたのかもしれません。

でも、使命感、重圧って、字の通り少し苦しいものなんです。自由ではない、無理のある感じ。

それを守るために犠牲になるものがあるんです。

つまり、自由でいたい自分、無理しない自分。他の友人とランチした話をするときに軽く生じる罪悪感、友人の都合を考えながら誘う、誘わないを決めるわずらわしさ。

私は、そもそも一人も大好きだし、固定の人とだけ閉鎖的に付き合う関係も苦手。

もう少し距離があってもいいかな。

もちろん、その友人が私の行動を制限するわけではないので、私が勝手に、言葉にするとこんな感じのことをうっすらと感じていたのでしょう。


そんな時、彼女が、私も知っている知人を自宅に招いたことを私にポロっと話したのです。

買い物先で偶然顔を合わせたので、「今日何してた~?」と気軽に聞く私に、彼女の口ぶりは少し気まずそうなものを含んでいました。「○○さんが来てました」。

私は、「そっか」と軽く受け流し、根掘り葉掘り聞くわけでもなく笑顔を浮かべながら彼女と別れました。すると、後から後からなんとも形容しがたい感情が湧き出てきたのです。

悲しさや嫉妬、であることは認められます。

自分だけが誘われなかったのが悲しい。
自分には声がかからなくて嫉妬した。

ここまでは自分の心の動きがわかるし、そんな自分を認めるけれど、この感情の勢いからすると、その先にもう少し根深いものがある予感がしたのです。

他の友人から、そんな話をされても別になんとも思わない。嫉妬や悲しさをわずかに感じても、すぐに忘れるレベルです。

自分の中に渦巻く感情の意味がわからず、しばらくはもてあましました。

ただ、「彼女は悪くない」ということだけは、わかっていました。


やがて、ふっとしたときに気づきを得ました。



ああ、そうか。

これは、私が助けてあげなきゃと思って助けてあげてた人が、私がいないと困ってしまうだろうと思ってきた人が、自分の力で立てるようになるのがわかって、自分の力で新しい関係を作っていける姿を目の当たりにして、そうやって自分から巣立つときに、私の中に生じた悲しみなんだ。

私はもう要らないと言われたような気にさせられた悲しさなんだ。


私にも、そんな傲慢な意識、人を弱者にする意識があるんだということです。ただ、そんな自分を否定せず、そんな部分も認めて、嫉妬や悲しみの感情にも蓋をしないでしばらくいたら、やがてスッキリとした気持ちになりました。

友人の方が、どういう心境だったのかはわかりません。

私の、不自由さとわずらわしさを無意識で感じとって遠慮したのかもしれないし、巣立ちの儀式として私を排除したのかもしれない。私と同じように、色々な人と色々な形でつながりなかったのかもしれません。


この出来事を経て、やっと、私と彼女は対等になったということです。

少なくとも私の意識の中で、彼女は常に助けを必要とする人ではなくなった。私が常に気にかけないといけない人でもなくなった。最初から、もちろん対等だっんですが、こうした気付きがあるということは、私は彼女を対等に見ていなかったということです。

ただ、今思うのは、私のなかにあった使命感や優越感は、もしかしてあのときの私と友人には必要で心地の良いものだったのかもしれない。時間の経過の中で本来の自分が少しずつ顔を出して、お互いの心の中にも新しい変化が起きた。そして、その関係のあり方がもう用無しになったということ。

これからは、助けられるばかりでも助けるばかりでもない対等の関係が始まるのだと思います。実際に、もう始まっています。




息子が巣立つときも、きっと同じような感情を味わうのでしょう。もちろん、もっと強烈なやつでしょうけどね。

今回のことがあったので思うんですが、息子の巣立ちには母の無意識の願望もつながっています。

ずっと子供をそばに置いておきたい、自分が守ってあげたいという意識がすべてではありません。子育てから自由になりたい、わずらさしさから解放されたい、という本心が母の中にも必ずあるのです。むしろ生き物的には、そちらが本物かもしれません。そして、それを察知する子供が、自ずと自立に向かう。

だから、子供の巣立ちの時空っぽになる自分、置いていかれる自分、役に立たない自分をイメージして怖れる必要はない。親離れ子離れを焦る必要もない。

実際の巣立ちの時、たとえ一時的にそういう心境にはなっても、そうした母としてのエゴ的な悲しみを十分に味わったら、本当の自分が夢見ていた底知れぬ開放感と自由を手に入れることができるのかもしません。

そして、巣立ちを迎えた息子とだって、新しい、対等の関係が始まる。そう信じています。