すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

生の尾崎豊を見られなかった後悔。

2014-10-09 09:08:23 | ひとりごと
せっかくお目にかかれた双雲さんに、握手をお願いできたかったヘタレな私。

自分なんて、の卑下なのか、恥ずかしい、という感情か、自意識過剰の自分の所作に、自分でも笑ってしまう。

取るにたりない自分なんて捨てちゃえ、
今、この邂逅を、一期一会を無駄にするな、と鼓舞する自分もいたりする。

こういう後悔は、実はタチが悪い。

ああ、あれに似ているな、と思う。

実人生は、いろいろ帳尻を合わせてきたから後悔を実感するものはない。そういう意味では、幸せな人生だ。私の人生。

実人生以外のところで思い浮かぶ後悔は、そうこれだけ。


生きていた頃の尾崎豊のライブに行かなかったこと。

行けなかったんじゃなくて、行かなかった、という後悔。

私が大学生になった頃、尾崎は生涯最後のツアーを敢行していた。新聞広告でそれを知った母が、「行く?」と聞いた。母も尾崎が好きだったから。

私は、茶化すように「行かない」と言った。

一番尾崎にいれあげていたのは、高校一年生のとき。覚せい剤で逮捕された尾崎がやったコンサートは、東京ドームで一度きりだったから、その頃は機会がなかった。

大学生になって今さら「尾崎豊に会いたい」でもなかった。

いや、本音を言えば、尾崎は相変わらず好きだったけれども、大学生か熱をあげる音楽じゃない、と冷めたフリをしてたのかな。

私が二十歳の頃に、尾崎は死んだ。

尾崎は、ものすごく有名になったから、彼の音楽や映像やエピソードに触れる機会は飛躍的に増えた。

でも、彼の死が悲しくてたまらなかった。しばらく塞ぎ込んでしまうほど、寂しかった。

そして、あんなに尾崎を好きで、こんなに悲嘆にくれている私が、生の尾崎豊を知らないという事実が絶叫したくなるほど悔しかった。

魂が存在すると言われても、音楽は遺ったと言われても、それは、人間の尾崎豊じゃない。歴史上の人物でなく、同時代を生きる、生の尾崎豊が見たいんだ。最後にステージを見る機会だってあったのに。私が断ったばっかりに。カッコつけずに、母と見に行けばよかったんだ。

わかっているよ。

生の尾崎豊を見たからといって、何かが変わったわけでもないし、尾崎が死んだ悲しみが減ったわけでもない。

私は、後悔したいんだ。ただ、強烈な後悔という形で彼を記憶したいんだね。

でもね、やっぱり、どんなことも機会があったら、その時しっかり受け取らないとダメだよね。

形を変えて機会は来たとしても、その時その瞬間の機会は二度と来ないものだから。

うん、だから。

双雲さんの握手の列に並ぶのを躊躇するようなヘタレーをやらかすと、私、猛烈に自分にダメ出ししたくなるんだよ。

もう、後悔はしたくないって思ったはずなのにって。

改めて、もう後悔はしたくない。

次こそは、だね。