すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

「子供が野菜嫌いで何が悪い」幕内英夫

2014-09-12 09:17:53 | 本・映画・音楽
『子供が野菜嫌いで何が悪い』幕内英夫


お子さんに野菜や苦手なモノを食べさせようと頑張って疲れ果てているお母さんには、オススメの本です。

つい、先日まで、私もそんな母親の筆頭でした。

野菜をたべさせよう
苦手な食べ物を減らそう
好きな食べ物を増やそう(ちょっとポジティブに)
残さずたべよう
ご飯よりおかずを食べよう

食事の時は、常にこんな意識でした。
やだろうな、ということはわかってました。だって、自分だって嫌いなレバーを「体にいいから食べなさい」と見張られたら、「絶対いやだ」となるか、感情を殺して口に押し込むか、のどちらかでしょうから。

自分が嫌なことを、息子に強いてる私。息子もつらい。私もつらい。私が握りしめている「常識」や「息子のためになること」は、そもそも本当に正しいことなのか。

そんな時に、この本を手にしました。

三角食べをすすめること
嫌いな野菜を克服させようとすること
残さないようにすること
おかずをしっかり食べること

全否定してくれました。
見事に、全否定。気持ちいいくらいの全否定です。

その理由は、極論やとんでも論ではなく、言われてみればわかる内容で、すんなり胸に落ちました。

一言で言えば、

子どもの感じ方の方が理にかなっている

ということです。

強制は、何も産まないのかもしれないですね。

食べ物の好き嫌いに限らず、大人は、子どもに何かを足そうとすることに力を注ぐのではなく、子どもが伸びたい方に伸びようとする、それを邪魔しないようにすることを頑張った方がいいのかもしれません。

食事の時間が苦痛ではなくなりまして、私は楽になり息子も楽しそうです。

時々、あらー珍しい!なんてことも。私が食べてる豚肉や皮付きの芋天ぷら、いかやタコなんかも欲しがるように。食べず嫌いだったおかずです。

「食べなさい!」と言われないと、食べてみたくなるんでしょうか。面白いです。


「かもめ食堂」を観る、そして読む。

2014-09-09 11:43:03 | 本・映画・音楽
小林聡美さん主演の映画「かもめ食堂」をDVDで久しぶりに見ました。

2006年とあるので、もう8年も前の映画なんですね。まだ独り身で、仕事帰りに友だち2人と待ち合わせて見に行ったっけ。見事に女の人ばかりが見に来てる映画でしたね。

とにかく、素敵な映画です。38歳の女の子がフィンランドでおにぎりを出す日本の食堂を開いて、人々との静かで温かな交流があって、閑古鳥が鳴いていたお店が最後には満席になる。ざっといえば、たったこれだけのストーリーです。

でもね、北欧の家具も食器も、おにぎりもシナモンロールもコーヒーも、主人公サチエさんの装いも、全部が全部いいんです。

当時はロハスとかスローライフとかが盛んに言われていたから、時代にマッチしたんでしょうね。シネコンでやる映画ではなかったけれど、多くの女性たちにじわじわと支持されました。

改めて見て、一番何がいいのかっていうのを再確認しました。

サチエさん、ですねやっぱり。わかっていたけれど、サチエさんの醸す雰囲気、立ち振る舞い、そして言葉です。

人となりを言い表す、飾り気のない、芯の通った言葉は、感動的!っていうたぐいのものではないけれで、サチエさんのセリフを聞くと、なぜか涙が出てきます。

私が今一番欲している、なじみつつある言葉なのかもしれません。


「やりたくないことは、やらないだけです」

「毎日まじめにやっていれば、そのうちお客さんも来るようになりますよ。それでもダメなら、その時はやめちゃいます。でも、大丈夫」

「本人にしかわからないことですし。どちらにせよ、私たちはマサコさんの決めたことを喜んであげないといけませんよね。」


サチエさんは、やりたくないことをやったことがある人で、その違和感を大事にして、あるときパッと反転した人なんですね。

雑念が少なくて自分や他人の良心を素直に信頼できる人でもあります。

そして、「ほっとおいてあげる」という高度な優しさの持ち主でもあります。相手の力と自由を尊重する近寄り過ぎない距離で、ちゃんと人に寄り添える人なんですよね。

DVDのあと、原作も読んでみました。群ようこさんが書いたものです。

サチエさんは食堂を開くために得意のくじ運で宝くじを当てた、といった登場人物の背景や事情などのディテイルが書かれていて、小説としても面白かったです。

サチエさんは小説でも素敵な女の子なんですが、映画とは違うイメージです。私はやっぱりどちらかというと、その辺にいそうでいない映画のサチエさんの方が好きです。





「きみはいい子」中脇初枝。

2014-08-23 18:25:27 | 本・映画・音楽
『きみはいい子』中脇初枝


初めて読む作家の本。作品集を集めたもので、ベストセラーだとか。
新聞の書評で見つけて手に入れました。

虐待とか、崩壊した家庭とか、そんな重たいテーマで始まるものだから、こちらの気分も読みながら少し身構えるけれど、ラストはどれも、希望を添えてくれる終わり方。

白でも黒でもないけれど、グレーでしかないんだけれど、でも、大きく広がった未来が見えます。

ホロホロ涙がこぼれる。

カタルシスとは違う、静かな感動。

中でも、「うそつき」が好きです。

4月1日生まれの、発育が遅くのんびり屋さんに成長した息子と、継母と暴力をふるっているであろう父親のもとで暮らす友だちの、仲良すぎー、な姿を息子の父親の視線で、優しく温かく、そして切なくつづられています。

無意識にチョキを出す息子に、パーを出し続けて、負け続ける友だち。

それを、息子に告げるでもなく、それが愛であり優しさであることも自覚していない友だち。

私にも、まだ幼いけれど、小さな息子がいるから、これでもか、これでもか、のたまらない描写やフレーズにやられまくります。

父親のラストの言葉が、圧巻。

この父も、かつて兄弟のように仲良しだった友達と、別れを経験しています。

ぼくは知っている。
たとえ別れても、二度と会わなくても、一緒にいた場所がなくなったとしても、
幸せなひとときがあった記憶が、それからの一生を支えてくれる。
どんなに不幸なことがあったとしても、その記憶が自分を救ってくれる。


何度読んでも、泣ける。



いじめと中島義道。

2013-09-01 10:09:28 | 本・映画・音楽
中島義道氏の本を、以前、何冊か読んだ。シニカルな内容が、その時の自分の精神状態になじんでいて、面白かった。

何冊目かで、異常なくらい女性に固執される、それくらい自分はもてたんだって言いたげな内容に、少々げんなりして遠のいていた。

「人生に生きる価値はない」で、久しぶりにこの人の本を読んだ。シニカルさは、いくぶんマイルドになっていた。

いじめの原因は、「みんな一緒主義」と看破するぐだりが、ひどく腑におちた。標準、常識、空気を読む力。

そこに重きを置く大人の意識にこそ、いじめの根がある。

そうだなあ。本当に、そう。

自分をも追い詰めるその意識は、必ずや他人も追い詰めている。私の中にも確かにある意識も、いじめに加担しているんだ。

そうした事に自覚的になること。突破口は、これに尽きる。

河合隼雄「こころの子育て」

2013-02-15 17:29:49 | 本・映画・音楽
息子が生まれて、何冊かの育児本を読んだ。ふまじめな、私のような親には、ハードの高いものが多い。

「おもちゃがほしくて友だちを叩いたら、まずその気持ちに共感する」

といった、たとえば具体的なアドバイス。

理屈ではわかる。いや、わかってないのかもしれない。読んですぐは試みてみるけど、なかなか続かない。

だんだん、ぎこちなくなる。

自分が心の底から納得してないから、身につかないのだろう。

結局いつも戻ってくるのは、河合隼雄さんの「こころの子育て」

QA式で書かれているこの本は、「子どもをこんな風に育てよう」という視点では書かれていない。少なくとも私は、そう読めなかった。

要は、子をどうするかではなく、
「親であるあなたはどうするか。子どもとどう生きるのか」。

そこに、押しつけがましさは微塵もない。書きながら、一緒に考えている河合さんの姿が想像できる。

さて、どうして久しぶりにこの本を手に取ったか。

息子を、叱りすぎた。
いや、そんなかっこのいいものじゃない。息子の行動にイライラが募り、感情に任せて怒りまくったということだ。

自分の未熟さに腹が立ち、息子の寝顔を見ながら、いたたまれない気持ちになった。

クールダウンするために本を読んだ。
失敗を繰り返さないように、というのは無理でも、少しでも減らせるようにならなければ。

そして、あとがきにあった文章に傍線を引いた。

「自分のところにいきなりやってきたものを自分の運命としてガッチリ受け止めて、それをどう生きるか、なんです。
『どうしてこんな子なの?』じゃなくて
「こんな子とどう生きるか」と考えるのが自己実現です。
思うようにならない子どもを受け容れるのが自己実現だ、といってもいいです。」

いわゆる、ユングの言うところの自己実現。

自我を超えた自己の世界の話だ。

肝に銘じよう。私は、偉大な仕事に従事している矜持を持って。



煮詰まった時の、池田晶子さん。

2013-01-16 22:47:04 | 本・映画・音楽




年齢を冠したタイトルに惹かれているわけではない。

でも、97歳に続き、今回は41歳。はい、自分の年齢です。

日々の生活、現実世界に転がる問題に辟易すると、帰りたくなる場所があるとすれば、私は、池田晶子さんの本を読むという行為が、それになる。

たとえば、天空に広がる無数の星を眺めながら、「この星の光は、実際には何億光年も昔のもの」とかなんとか、宇宙的規模なことを考えて見たりする。

そうやって、自分の悩みを俯瞰して、こんなの大したことないや、って意識を変える感じに似ているかも。

でも、池田さんは、日々のこまごまとした生活にまつわることではなく、生きて死ぬことについて、命について、宇宙について思いをはせることことが、本当のことなんだと看破する。

つまり、そっちを「考える」ことに時間を割くことが、まっとうなことだと。


手持ちにあった「暮らしの哲学」を流し読みしてから、図書館で借りた「41歳からの哲学」を読んだ。

この人が言っていることは一貫しているので、基本的にどの本を読んでも同じ。
ただ、「暮らしの哲学」の中にある、穏やかで柔らかい感じが、「41歳からの哲学」では感じられず、あくまでアグレッシブで、扇動的な印象を受ける。

前者が、自分の死期を知って書いていたことが、大きく影響しいてるだろう。
後者は、バリバリ現役感が漂っている。

個人的には、「暮らしの哲学」の方が読んでいて心地いいのだけれど、「41歳からの哲学」も、やっぱり、いい。

『人は、そのなるところのものに、自ずからなっている。物事は、なるようになっていて、ならないようにはなっていない。
これは偉大な真理である。宇宙の真相である。
なるほどそれを運命というなら、運命なのかもしれない。
しかし、それは、生きればそれが運命であるという、当たり前のことでもある。
裏から言えば、運命は、人生は生きてみなければわからない』

たとえば、こういう文章。

私がこういう文章に心動かされるのは、
他の誰でもない、考えて、考えて、考えることに一生を費やした池田晶子さんが書いているからに他ならない。

悲しいかな、私は、この人がいわんとしていることを、「わかった」と言えるレベルではない。でも、なんていうかな。
ああ、読書はもう、この人のものだけでいいかもしれないな、なんて思わされてしまう、私とこの本、私と池田晶子さんとをつなぐ、何かがあるのだ。

本当に残念なのは、もう、この人の新刊は出版されないこと。

言っていることは同じでも、タイトルを変えて、文体を変えて、テーマを変えて、何度でも何度でも読み続けたかった。

星を眺めるように、この人の本を生涯読んでいきたかった。そして、できたらこの人の年齢を追い越したくなかった(追い越さない可能性ももちろんあるけれど)。いつでも、ずっと先人でいてほしかった。

幸い、全著を読んだわけでないので、
読んでいない本は、片っぱしから読んでいきたい。

ただ、もったいないので、ぼちぼち、ときどき。




97歳への憧れ。

2013-01-15 11:03:16 | 本・映画・音楽

今年最初に読んだ本は、「97歳の幸福論」。御年97歳の現役報道写真家、笹本恒子さんのエッセイ。

都内のマンションに一人暮らし。老人ホームに入ることを考えたこともあったが、その資金を、リフォームに充てて、自由な生活を満喫している。

58歳のときに夫が亡くなって、それ以来の一人ぐらしというのだから、筋金入りだ。

お子さんはいないようで、週に一度姪御さんが訪ねてくるという。

食事は、毎食自分で作り、夕食にはお肉と赤ワインが必ず並ぶ。その盛り付けの美しいこと。食器にもこだわりがありそう。

毎朝テレビ体操や、英会話の視聴も欠かさない。自分に甘えを許さず、お洒落や美意識へのあくなき思い、あらゆるものへの好奇心も、決して衰えない。

「孤独」を感じることは、もちろんあるという。それでも、仕事関係者や姪っ子、ホームヘルパーなど、いろんな人が頻繁に訪れてくれるので、さほど強烈に感じてはいないようだ。

強い人だな、素敵な人だな、と思う。

人を受け入れ、それでも必要以上に人に依存せず暮らしている様子に、本当に尊いものを感じる。

97歳という年まで健康ではいる自信はないけれど、自分の遠い目標ができたような気がする。



池田晶子「魂を考える」を読む

2011-03-24 15:54:51 | 本・映画・音楽
池田晶子さんの書くものになんとなくひかれてきた。

若いころ、それなりに哲学の本は読んだりしたけれど、ちんぷんかんぷん、全然頭に入ってこなかった。

言葉の羅列、理屈の羅列にしか思えなかった。

氏の著書にもよく登場する、ヘーゲル、カント、ソクラテス、等々、読んでも感覚的に拒否感があった。

私は、理屈や言葉によって思考するということが、決定的に苦手なのであろう。

氏の愛読者は、池田さんの書いていることが「わかる」のだそうだが、
私はそうではない。
「わかる」ではなく、「ひかれる」「なぜだかわからないけれど、なんとなく好き」なのだ。

わかるわからないでいえば、わからないことも多い。

池田さんの、哲学的側面にひかれるのではなく、哲学を使ってあらわそうとしている、人間の不思議、生きることの不思議、宇宙の不思議、そこに向けるエネルギーの純粋さ、善良さがありありと伝わり、読んでいて気持ちいいのである。

もちろんシニカルである、世情に疎かったりする、池田さんのそんな一面を俯瞰して、その人間臭さに、少しの嫌悪感や共感も覚えたりもする。

池田さんの本は、何日もかけて、その美しい文章をゆっくり味わうように読むのが常だったけれど、「魂を考える」は違った。途中でやめられなかった。

この人を、すこしだけ、「わかった」気がした。

そして、私は、池田さんの「魂」の話しから自分の子育てについて思いをはせた。

自分がお腹を痛めて産んだ子とも、
ほしくてほしくて作った子ども、
夫の精子と私の卵子の受精によって誕生した子ども。

事実ではあるけれど、息子の側からしたら、そんなことはどうしてもいいことなのかもしれない。いや、息子の魂の側、といった方がいい。

その魂は、生まれるべくして生まれた、
私の意図とは、別世界のことなのだ。

子どもの発育やしつけに悩むことはある。あれはできてるけれど、これはまだ。もっと叱った方がいい?もっと甘えさせた方がいい?

うちの子の場合、歩いたり、の運動能力は早かったけれど、まねっこなんかは全然しない。おしゃべりは自分なりにたくさんするけれど、意味がよくわからない。

いい面を見よう、なんていうけれど、それは違うのかなと。いい面、悪い面、を言うこと、それ自体が不遜だ。

そのどちらもその子だ。

私は私として、良かれと思った姿勢で、彼と関わっていくのだろう。多くは、私や夫に影響は受けるのだろうが、それでも、きっと、私とは違う人間である彼、魂を持っている彼である以上、踏み込めないこと、把握できなことはあまたでてくるだろう。責任が取れる部分と、とれない部分が必ずあるということだ。

正直に言うと、少し気が楽になった。
彼は私の作品ではない。彼=私、ではない、ということが。

縁あって、親と子をしているけれど、
彼の人生は彼自身のもの。そして、彼の魂は、当然のように彼だけの魂だ。

親としての私は、彼のその人生を、その魂を、大切にいつくしみ、時には突き放し、見守っていくことなんだ。それしかできないんだ。

池田晶子さんは、子どもを持たなかった。

「産んでないからわからない」ことはあるだろう。

でも、逆に「産んでないからわかる」ことも必ずあるのだろうと思う。

私は、その「産んでないからわかる」部分から発せられる言葉に、とてもひかれた。





映画「西の魔女が死んだ」

2008-07-03 20:01:47 | 本・映画・音楽
夕食の準備を手早く終えて、
夕方の映画館に走った。
ずっと見たかった映画「西の魔女が死んだ」を見るために。

優しい映画でした。何度も見たくなる映画でした。

おばあちゃんが主人公の少女に何か言葉を発するたびに、
涙が出た。
あ、これは、私が主人公になっちゃってるんだな、
と思った。

公式ホームページや、書評、プログなどを見ても、
大体同じようことが書かれている。
素敵な文章が多くて、
「そうそう、そうだよね」と共感する。

うん、たぶん、そう。
人間が根っこのところで持ち続けている疑問、
子ども(ある時期、私は中1のときにやってきた)から、
大人になっても持ち続けている、
でも、日常のなかでは確かめられない、
答えがあるかどうかもわからない、
そんな疑問に、
さりげなく、でも確かな力をもって、
触れてくるものだったから。

たとえば、
「私は、ただこのままの私で愛されているの?」
「死んだらどうなるの?」
みたいなことって、大人になったら、なかなか聞けないもんね。

この映画はその疑問に真摯に向き合っていた。
大切なのは、
「私が信じていることを話しましょう・・」
というおばあちゃんの謙虚さ。
事実と信じていることは、同じかもしれない。
違うかもしれない。
そうなると、結局答えはないのだけれど、
でも、おばあちゃんの人となりに触れれば、
答えを突き詰めていくことは、
衣食住・・・生活すること、
丁寧に生きることに還元されていく。

子どもが見たら、
どんな風に感じるんだろう、あの映画。
ちょっと難しいような気がする。
でも原作は、児童文学か・・・。
多くの大人の人に、ぜひぜひ見てもらいたい。

そうそう、
ちょっと余談だけれど、
この映画を見てちょっと感じだことが。

かの「オーラの泉」のお二人が言っていることと、
おばあちゃんが言っていることはとても似てる。
一方は、教育倫理にひっかかるとクレームが入り、
もう一方は、文部科学省特別選定を受けている。
事実と断言するか、
信じている、にとどめておくの違いなのかな。

それから、
この4月からテレビ番組をすべて降板した、
某有名占い師。
そのきつい物言いが好きではなかったが、
「運命(人生)とは、衣食住のことよ」としきりに言っていた。
???と思っていたが、
この映画を見て、なるほど・・・・とうなづけた。

伝えたいことにどんな表現を選ぶか、
とても大事だと思った。
人の心は、
いろんなバリアや固定観念が張り巡らされている。
そんなものをすり抜けて、しっとりと万人の魂に届く力を、
この映画は持っている。

美輪明宏さんの舞台を見て。

2006-06-12 00:22:06 | 本・映画・音楽

つい先日、美輪明宏さんの舞台「愛の讃歌」を鑑賞した。
美輪さんの圧倒的な存在感、この世のものとは思えない美しさと神々しさ、
エネルギッシュな演技や歌唱力に釘付けになった。
舞台終了時、数回に及ぶカーテンコールで、満席の観客は感動のあまりに総立ち。
私も涙があふれて止まらなかった。

美輪さんが演じた伝説の歌手、エディットピアフの生き様、
愛と歌に全身全霊を注いだ生涯を目の当たりにして、
この舞台のテーマでもあった「無償の愛」について考えた。

愛を与えるとき、人は相手からも愛が返ってくることを求めがちだ。
だから、見返りを求めない「無償の愛」は、
愛の中でも最も尊いものとされる。
母が子どもを思う愛は、まさにそれに近いもの。
でも、男女の愛となると、なかなか難しいと思う。
もしそれができたら、奇跡だ。
ただ、世の多くの人たちは、そんな愛を夢見てる。あこがれている。
「愛の讃歌」に涙する自分や、
周囲のお客さんを見て、つくづく実感する。

さて、では「無償の愛」を実践出来る人とはどんな人なんだろう。
エディットピアフが、
男性に対して「無償の愛」をささげてきたとするならば、
エディットピアフは、どうしてそれができたのだろう。

おそらく、エディットピアフには、歌があったから、
歌を愛し、歌に愛されていた女性だから、
つまり、愛にあふれている女性だから、
与える愛、見返りのない愛に徹することができたのだろう。
それならば、エディットピアフにとっての歌のように、
自分が熱中できる具体的な何かがないと、
「無償の愛」を与えられる人にはなれないのだろうか。
たしかに、仕事、趣味、好きなことがある人は、
それだけで、充分自分が満たされているわけだから、
誰かに「無償の愛」を与えるられる可能性が高い。

でも、もちろん、それがなくてもいいのだと思う。
自分を自分できちんと愛せていたら、
ゆるぎないしっかりとした自尊感情があったら、
必ずしも誰かに愛してもらわなくても、
自分はそのままでも幸せだから、
失うことを恐れないで、 見返りも求めないで、
丸裸で誰かを愛せる。
そういう人になれるのかもしれない。

「無償の愛」は、
自分を捨ててするものではない。
自分を犠牲にしてするものでもない。
愛を与える人が、一見すると自分を捨てていたり犠牲にしているように見えても、
その人に本物の愛があふれていたら、愛は減るものではないから、
その人は満たされたままだ。
自分を捨てたり犠牲にして、誰かを盲目的に愛しているように見える人がいたら、
その人は、誰かに尽くして誰かの中に自分を居場所を作ることによって、
誰かに与えたものをしっかり返してもらうことによって、
つまり、誰かを通して、
自分の中にはない愛を手に入れようとしているだけかもしれない。
自分が自分を愛することができないから、
わざわざ、他人という媒体をこしらえて、
愛を手に入れようとしているだけかもしれない。
もちろん、それだって相手によっては成功することもあるだろう。
でも、ほとんどの場合は、与えられる側は自分に注がれているものが、
本当の愛か、本当じゃない愛かはわかってしまうので、
やがて、与えられるものにNOを出すことにもなる。
こうなると、与えたものは「無償の愛」ところが、
相手を苦しめる「押し付け行為」になってしまう。

その辺の見極めが、実はとても難しい。
私たちは、
愛じゃないものを愛と呼んでいることが多いからだ。
でも、確かに言えるのは、
「無償の愛」をささげるとは、
自分が相手の中にすっぽりとはまって生きることではない。
自分が自分をしっかりと生きる人が、
自分が自分をしっかりと愛せる人が、
ただそれだけで、自分の中に愛があふれてきて、
そうせずにはいられなくなって、
初めて実践できるものなのかもしれない。