すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

自分を開いていくということ。

2016-03-22 18:39:20 | ひとりごと
自我を捨てる、
自分を手放す、

という表現を時々見かけますが、これは、わかりやすく言うと、

自分を開いていくこと、

なんじゃないかな、と。


堀澤祖門さんインタビュー/「泥仏」としての自分を生きること(1~4)


↑そんなことを、このインタビュー記事を読んでふっと思いました。

この記事は本当に素晴らしくて、たくさんの気づきをいただきました。ぜひ、仏教に関するあらゆる先入観を捨てて読んでみてください。

こんなことを、こんな風に、わかりやすく教えてくれる偉いお坊さんがいるんだな、とそれがまずは驚きです。枠にとらわれず、スピリチャルな世界への共感も深い。

あの、京都の大原三千院。庭園が美しくて、私が京都で一番好きなお寺に、こんな素晴らしい方がいらっしゃるんだ、と感銘を受けました。

仏教に関する本を読んだり、法話というものも京都や鎌倉で何度か聞いた記憶がありますが、こういう話を聞けたことはなかったですね。

「これが、仏教なんだ!」と読みながら膝を打ちたくなりました。



堀澤さんのおっしゃる、「空」、全てを捨て切った状態で、空っぽの状態になれ、というのは、

つまり、

自我を捨てる、
自分を手放す、

ってことだと思います。

捨てるのは、手放すのは、自分そのものではなくて、自分を隠しているもの、自分を覆っているものの方。

それは、もっと噛み砕いて言えば、

自分を出したら嫌われるんじゃないか、
私なんて大したことないしうまくいかない、
人に甘えたり甘えられたるするのが怖い、
他人に与えたり与えたりして損をするのが嫌だ、

という、自分を否定する方の自分。


堀澤さんは、人はみんな「泥仏」だとも言います。泥をかぶっているから見えないだけで、もともと仏なんだと。

仏なんですって、私たち。
なんて、温かい言葉なんだろう。

だから、捨てるの捨てないの、泥を拭おう拭おう、と考えるより、まずは、とにかく、

自分自身にも、他者にも、世界にも、

自分を開く、
自分を開いていく、


っていうことなんでしょうね。
なにせ、素の私たちは、仏なのですから。

勇気や覚悟の使いどころも、きっとここなんでしょう。

そして、自分の生き方は、仏の方の自分を捨てようとしている生き方ではないか、ということに思いを馳せる事も大切なのかもしれません。


このインタビュー記事を書かれた小出遥子さんの文章も、しびれます。








受け取って、味わう。

2016-03-16 21:11:36 | ひとりごと
一人で運転している時は、私にとって絶好のマインドフルネスタイムです。

運転にはもちろん自分に集中しつつ、力を抜いてリラックス。

この意識状態でいると、追い越されるとイライラして追い越したくなる、駐車する時に後続車がいると焦ってしまう、という、運転中にありがちな心理にも対応しやすくなります。観察してマイナスエネルギーを抜きます。

流れには乗りつつも、私は私、の感覚。

でね、不思議と、対向車が右折時に快く譲ってくれたり、前の車が進路変更時に無理なく入れてくれたりなんてことが増えます。

ただこういうのが、ちょっぴり困ったことも引き起こしたり。

譲ってくれた人のその温かさや優しさが、有難くて、勿体無くて、ついつい「私も、誰かに同じようにしなくては」って力んでしまうんですね。いただいた気持ちが大きくて、尊いから、すぐに恩返ししなくちゃ、と焦るんです。私。

ところが、こうした意識が強くなると、無理やりそういう場面を探します。流れを遮ってでも、対向車に譲ったりします。でも、やってることが不自然だから、どこかの車に大きなクラクションを鳴らされたり、譲った車からは感謝もされない、なんてちぐはぐなことになります。

なんか、私、変?!と気づきます。


🔸🔸🔸


贈り物をもらってすぐにお返しをしたくなる心理に似ているかもしれません。

それは、もらったものを純粋に受け取れていないんですよね。

贈る側になった時には、心を込めたものほど、お返しなんていらないって思います。まずはただ、ちゃんと受け取って喜んでもらいたいな、それが一番のお返しだよって思います。

逆に、すぐにお返しが届いたら、自分の気持ちは受け取ってもらえなかったのかもしれない、と寂しさを感じたりしてね。

もちろん、冠婚葬祭や儀礼的な贈り物は中々そんなわけにもいきませんけどね。

でも、元々は、贈るも貰うも、与えるも受け取るも、同じエネルギーなんですよね。与えることがすでに受け取ることだったりします。だから、逆もしかりでね。

親子の関係がまさにそうですね。与えている親が実は受け取ってもいる。受け取っている子が実は与えてもいる。

純粋な気持ちを込めたものほど、こういうことが起きます。

もちろん、その結果としての感謝のお返しは、素敵なお返しだと思います。義務感が漂わないほど、嬉しいですよね。


🔸🔸🔸

こんな気づきがあってから、運転中に譲ってもらう場面に遭遇したら、私、しみじみ言うことにしました。

ああ、この人、なんていい人なんだろー

とか、

世の中には、こんなにいい人がたくさんいるんだなー

って。それで、あとのことは考えない。受け取ることに集中する。受け取るだけの私を許す。そうやって味わう私がすでにお返しであることを信じて。相手の温かさと優しさの純粋さを信じて。

これは、運転中や贈り物の話だけじゃなくてね。

何かを与えてもらったら、まずは、それを受け取って味わってさえいたらいいのかもしれません。今返そう、すぐに返さなくては、と力んだり焦ったりしなくても、心から受け取ったら、受け取った人の在り方は必ず変わるんですよね。受け取った分だけ、それ以上に、間違いなく与えられる人になっているんだと思います。





堂々と。

2016-02-28 11:28:00 | ひとりごと
最近、心がけているのは、

堂々と、

ということ。

余計な罪悪感がある時、
気持ちが及び腰になっている時

は、

背筋を伸ばして、
深呼吸して、

行動を変えてみる。

そしたら、気持ちも追いついてくる。


堂々と帰ろう。
堂々と断わろう。
堂々と話しかけよう。
堂々とお願いしよう。


タイミングを図りながら、
えいやーって、
堂々と、振る舞おう。



堂々と。

他人を意識した傲慢さや尊大さ、とは違う。

むしろ、

自分に対して、堂々と。

これは、気持ちと行動のあり方の中で、
自分が自分を許しているという、
最良の状態を言うのだと思う。



気持ち良さって、こんな感じ。

2016-02-27 08:36:58 | ひとりごと
朝の通勤時、
駅までの10分間と
電車を降りてから職場までの10分間は、

私のマインドフルネスタイム。


呼吸の観察、
左右の足の裏が地面に触れる感触、
バイク、電車、誰かの話し声などの外界の音、
そして、気分と身体、

順番にゆっくりと意識を這わせていく。

うまく行く日もあれば、
心配事や考え事に絡め取られて、意識が逸れてばかりのときもある。


昨日の朝は、それがとてもうまく行った。

心と身体が調和していて、
焦りも、不安も、
身体の重さも、違和感もなかった。

私の全体が、シーンとしていた。



ああ、気持ちいいな、



と思った。

高揚感とは違い、リラックスして緩んでいるのとも少し違う。

意識ははっきりしていて、意欲的で、自然体で、穏やか。

不思議と、微笑みが生まれて、
家族や親しい人たちへの愛しさや、感謝が、沸いてくる、

そんな感じだった。



🔹🔹🔹


宇宙の波動は7.5ヘルツで、
脳波の状態がそれに一番近いのが、赤ちゃんなのだと、何かで読んだことがある。

この世界を信頼し、あるがままの自分を全肯定している赤ちゃん。

この時の私も、きっと、この赤ちゃんに近い状態だったんだろうと思っている。

この世界、この宇宙に調和している状態というのは、こういう気持ち良さなんだな、と理解した。


🔹🔹🔹



この気持ち良さを基準に生きていけたら、
どんなに素晴らしいだろう。


瞑想やマインドフルネスでいることは、
それを助けてくれる大切なもの。

でも、一番大事なことは、別なところにあると思う。




自分を許しつづけること。


つまるところはこれなのだ。

エネルギーが低下していた私だからこそ、
その状態を許し続けた私だからこそ、
わかった。


自分に許され、自分に愛され、自分に守られている、

そんな、私という世界は、

赤ちゃんのように、愛らしく、柔らかく、生き生きとした、気持ち良さを生む。




どんな自分も許し続けること。



私の気持ち良さは、ここから生まれる。
他人への愛、感謝も、ここから生まれる。

きっと、ここからしか、生まれないよね。



自責の逆は、他責じゃない。

2016-02-24 23:05:16 | ひとりごと
春本番近し、ですね。

夕方延長保育に預けている息子を幼稚園に迎えに行くときの空の明るいことといったら。

冬がグングン遠のいていくのを感じます。

鼻もムズムズしてきたし。
それと、もう一つの徴候も。

去年も、こんなの書いてますが、今年も、先日のPMSあたりから、そのまま春先の不調に突入しました。



なあんにもやりたくないです。


おまけに、

肩が重いです。
立ちくらみがします。
テニスボールが見えなくなります。


そして、なにより、

自責に偏ります。


すでに、毎年の恒例行事のようなものなのに、「普段の私」から逸れるのがやっぱり恐ろしくて 、このまま自分はダメになってしまうかも、なんて妄想してジタバタします。

ジタバタする間に、知らず知らずに、意識が自責に向かいます。

それに気づくのが、

普段はなんでもない、
誰かの言葉が自分を責めているように感じる。
結果的に、その誰かを責める意識が高まる。


という現象に、ことごとく遭遇するからなんです。

自責 → 他責 →自責 →他責

を、時に静かに、時に激しく繰り返してるんですね。

この、エネルギーの消耗ッぷりたら、ハンパないです。

自責も、そして、他責も、果てしなくエネルギーを使う。

不調でエネルギーが足りてないのに、自分も他人も責めて、さらに減らす。最悪です。


昨日、そこに気づいて、どうしたらよいか考えました。


まず、

1 休む。寝る。横になる。

2 仕事も家事も、とにかく最低限。

3 意識を自分に集中させる。他者を意識から極力消す。


この3つを自分に課す。許す。
つまり、徹底的にマイペース。

昨日と今日、これを意識したら、肩が軽くなってエネルギーが少し戻りました。

で、あと、大事なのが、


自責をやめる

です。

自責をともなう思考・感情が出てきたら、観察して、味わって、「私ができなくても、誰かがやるでしょ」といった言葉を、自分に穏やかに掛け続けます。

ここで、他責はダメなんですね。そこに向かうと、結局自責に戻ってしまう。

自責をやめるということは、つまり自責の逆は、他責に向かうということではないんですね。

自責の逆は、自責をやめる。それだけです。


自責をやめるだけなら、エネルギーは減らないんですよ。

ちょっと、抽象的なんですが、この発見が今の私には大きくて。


今日は、省エネ稼働しながら、自責をやめたら、誰からも責められませんでした。そして、誰かを責めたくなる気持ちも全く起こりませんでした。


🔸🔸🔸

季節のリズムで減ったエネルギーは、また日が経てば戻ってきます。だからこんな時期は、自責に傾かないように気をつけていさえすれば、どうってことないはずです。


あと、「春先の不調」という表現も、そもそもよくないですね。すでに、私のジャッジが入っている。

エネルギーが低下している。ただ、それだけなんですから、そのように過ごせばいいってことです。


しばらくは、低空飛行の自分が、いかに心地よく過ごせるか、を試行錯誤してみます。

難しい妻。

2016-02-20 18:24:07 | ひとりごと
夫は、私のことを、

難しい人、

と言います。

簡単な人と言われるよりは、まだいいかな、とは思いますが、その言い方がね、なんか、独特なんですよ。

薄ら笑い?ドヤ顔?みたいな感じを漂わせている。

まあ、私は、自分でも、

難しい人かな

とは思うときもあります。

でも、社会的には「いい人」系ですし、私よりも難しい人なんて、周りにゴマンといるしね。


職場でも、妻がいかに大変な人かを語る人が結構います。自分が強い妻にいかに虐げられてるとかもね。

難しい妻、
大変な妻、
強い妻


私だけじゃないんだなぁ。結構いるんですよね。いや、むしろこっちが主流?!

でも、夫諸君、その表情に悲壮感はないし、なんだかんだ言って、幸せそうじゃん、って思います。


でね、
うちの夫の薄ら笑いの意味がわかりましたよ。


難しい人を妻にしている男。

それは、情けないからでも、弱いからでもなくて、つまり器の大きい男だから可能なんだ、と言うのが、彼の無意識の中にあるんでしょうね。実際に私が難しいかどうか、は問題じゃない。彼にとって難しいかどうか、が大事なんです。

うちの夫のような男たちは、自分が威張ることではなくて、妻を威張らせることに、自分の価値を置いている。そこにこそ、「男の甲斐性」がある、と。

いや、これは、多分無自覚ですけどね。でも、そんな気がしてならない。

だから、そんな、めっちゃハードルの高い妻がですよ、基本、幸せそうにしている。自分の器の中で好きなようにしている。

これは、すごい手柄なわけですよ。彼らのようなタイプの夫にはね。

彼らを幸せにするには、良妻賢母なんかになっちゃダメなんですよ。そんなことしたら、彼らは面目を失う。

彼らの望み通り、私たちは、好きなことをしながら、ありのまま、難しく、大変で、かつ、幸せでいたらいいんですよね。 時々、忘れた頃に、ちょっとだけ褒めたりもして。


ホントかな? 笑

許してやるよ、私の方が幸せだし。

2016-02-15 19:51:37 | ひとりごと
罪悪感の減らし方の続きは、また次回。

今日は、別のテーマで。

🔸🔸🔸

とある方の書いたブログに、面白い話がありました。

その方、友だちと集まってイヤな思いをした日には、帰って何をやるかといえば、それは、通帳を見るんだそうです。

それで、気持ちがおさまるのだとか。

お金持ちの奥様で、通帳にはたくさんの数字が並んでいるのかな。

こういうのゲスいっていうのかなぁ。笑

でも、大笑いました。それに、これ、自分をケアするという点で素晴らしい、とも思いました。

つまるところ、

「右の頬を打たれたら、
左の頬も差し出しなさい」


も、同じなんじゃないかと。

相手よりも、

お金があるから、
優しいから、
愛を知っているから、
人間ができてるから、
器が大きいから、
人気があるから、
美人だから、
頭がいいから、
運がいいから、
大切に育てられたから、
ハンディキャップに負けないから
自力で這い上がったから、
悟ってるから、


だから、余裕を持って、相手を受け入れたり、流したり、無罪放免にしてやるよってことですもん。右だけじゃなくて、左も殴っていいよ、なんて、相当に余裕の発言ですよ。

つまり、相手よりも、
自分が自分にとって大切なポイントにおいて、
優位だから、大きいから、勝ってるから、少なくとも、自分はそう信じて疑わないからできることです。

その逆はありえないでしょ?
お金のない人がお金持ちに寄付します?
素人が専門家にアドバイスします?
悟ってない人が悟っている人に道を説きます?

聖書のような美しい表現で納得するか、ゲスい表現が腑に落ちるかなんですよね。

中身が同じなら、ゲスい表現の方が効くこともあります。私は、かなしいかな、こっち派だ!

🔸🔸🔸

私、今日、イヤなことがありました。自分に非のないことで、ある人に感情的に怒鳴られました。

腹は立つけど、何かの機会に言い返してやろうとも思うけれど、心の中でこう叫んだら一気に、その人のことや、今日のイヤなことがどうでもよくなりました。



許してやるよ!私の方が幸せだし。



それが、事実かどうかはわかりませんが。笑
私は、そう思ってます。

そのためにも、そう、人を許せる人間でいるためにも、私は私の機嫌をとり、私は私を大切に扱い、私は私を幸せにしなくっちゃと思うのですよ。

これからも、ずっと。

この春、中一になる甥っ子へ。

2015-02-27 12:19:53 | ひとりごと
川崎の中一殺害事件がどうしても気になっています。この春、甥っ子が中一になるので余計にかもしれません。その甥っ子に伝えたいことがあって、文章にまとめてみました。春休みに会うので、その時のためのメモです。


甥っ子君へ

春がやってきたら、いよいよ中学生だね。君の学生服姿、おばさん、楽しみだな。とっても似合いそうだ。

改まってなんなんだけど、君が中一になるにあたって、おばさんから伝えたいことがあります。

川崎で中一の男の子が殺された事件は知ってるよね?君は、あの事件で何を感じたかな?何を考えたかな?

実を言うと、あの事件のこと、殺された男の子のこと、が、最近おばさんの頭のかなりの部分を占めています。

男の子の笑顔いっぱいの写真を見ると、男の子の魅力的な人となりが伝わってくるよね。ニュースから伝わる少ない情報だと、明るくて、クラスの人気者で、スポーツ万能で、人懐こくて、集団の中にいると一際目立つ存在だったみたいだね。

小学校生活を送った島根県の島の友達や校長先生からのコメントを聞くと、男の子がどんなにかたくさんの人から親しまれ可愛がられていたかがわかります。


君には少し迷惑かもしれないけれど、おばさんには、この男の子が、どうも君と重なってしまって、胸のざわつきを抑えられません。

君がこの春、男の子と同じ中一になるというだけじゃなくて、集団の中での男の子の存在感と君の存在感の種類が何だか似てる気がしてね。

君が男の子みたいに事件に巻きこまれる可能性なんてまずないんだけど、でも、
少しだけ、耳を傾けて欲しいんだ。

君は、大人のおばさんですら羨ましくなるような数々の素晴らしい資質を持っている人です。

勉強も運動も万能で、ゲームやらせても、スポーツやらせても、簡単にマスターしてすぐに抜きん出てしまう。クラブのキャプテンや児童会長のほか、小学校では色んなリーダーもこなしてきたよね。ひょうきんで、いたずらも大好きな君は、自他ともに認める人気者でした。

ところでさ、君の友達がそんな君を見る目について考えたことはある?みんな、君のことどう思ってるんだろうね。「楽しいから好きだ」「いっつも前に出て羨ましい」「何でもできて憧れる」「僕だって捨てたもんじゃない」「別に何とも思わない」みたいな感じかな。

君ほど学校で目立つ存在だと、多分嫉妬みたいな感情を持つ友達はいるだろうけど、でも今の君の友達は、みんな正しい方法でその嫉妬を消化できる友達なんだろうね。君が嫌な思いをしていないところを見ると、きっとそうなんだろう。

君のお兄ちゃんも、嫉妬とは違うかもしれないけれど、常に君の凄さを目の当たりにして育ってきたんだから、弟が自分にはないものを持っているヤツだ、という認識の仕方はしていそうだね。でも、君のお兄ちゃんは、そんな君のことをいつも「コイツ、すげー」って口癖のように言うから、君のことが好きだし、君を誇りに思ってるのがわかる。

君は、もしかしたら、それだけ目立つヤツなのに人に嫉妬させない能力も持っているのだろうか。だとしたら、あっぱれだ。


たださ、中学校に行くと、今よりももう少し社会が広がる。楽しい、面白い、個性的な友達との出会いが増える一方で、想像を絶する環境で育ってきた子達、色んな傷を抱えている子達との出会いも増えると思うんだ。

そういう子達から学ぶことがあったら多いに学んで欲しい。傷をうまくバネに変える生き方をしている子は、本物のカッコイイヤツだからさ。

でも、中には、君が直接何かをしなくても、君みたいな眩しい存在に勝手に傷ついてしまう子がいるかもしれないんだ。それに、君に嫉妬を感じたときに小学校の友達のように正しい仕方ではなくて、「君を傷つける」というやり方で君と関わろうとする子もいるかもしれない。

おばさんは、学校ではフツーの子供だったから、君みたいに、存在自体が派手で目立つ人の気持ちは実はよくわからないけど、目立たない側の目立つ人に対する複雑な気持ちは何となく想像できる。自分が直接には体験してない気持ちでも、人生の中でいろんな人の気持ち触れる体験をしてきたからね。そういうのはね、大人の世界には、もう当たり前にあふれている気持ちなんだよ。

大人になると、そのごまかし方もだいぶうまくなるものだけど、これから君が迎える思春期という時期は、傷を抱えた子の傷がよりむき出しになって、でも自分ではなんともできなくて、その傷を他人を傷つけることで晴らそうとする子もいると思うんだ。

これは、偏った考えかもしれないけれど、集団の中では、その矛先が目立つ人と弱い人に向かいがちなんだよね。

君は、間違いなく、中学校でも目立つ人の1人にはなるだろうから、おばさんは君のそんなところを誇りに思う反面、心配にもなるんだよ。多分、おばさんの心配症のせいなんだけどね。

君にお願いしたいのは、傷ついている子達を劣った子達だとは思わないで欲しいってこと。その上で、どうも違うな、怖い子だなって思ったらきちんと距離を置くってこと。その子の傷に気付いた時には、その傷に絶対に触れないでいてあげる事も忘れないでほしいんだ。

小学校の時みたいに目立つようなことしたらダメ、って聞こえたかな。そうじゃないんだ。

中学校になったら、君が君らしくいられる生き方はそのままでいいから、目立つ人として存在する君が誰かを傷つることがあるかもしれないな、ということに少しだけ思いを馳せてほしい。自分のふるまいに少し意識を向けてほしい。難しい宿題だけど、器用な君ならそれもできるよ。

傷つきやすい人というのは、ほんの少しのことにとっても敏感だからね。ほんの少しのことが、君を守るような気がするんだよね。

そして、万が一なんだけど、自分が明らかに傷つけられてる、と恐怖を感じることがあったら、その感じをごまかさないで欲しい。君が恐ろしい、と感じる程度のことは、君ひとりの手に負えることではないし、君の落ち度とは無関係なんだから。

恐ろしことをする人の言葉には、絶対に耳を貸してもいけない。脅し文句や弱虫呼ばわりしても、そんなの嘘だから反応しちゃダメだ。

そういうことは、大人に投げてください。お母さんに投げてください。信頼できる大人に投げてください。

大人のいいのはね、解決方法をたくさん持っているということ。自分が持っていなくても、持っている人を探して相談できるってことなんだ。

君のお母さんは、君の言葉をきちんと聞いて、解決方法を探せる人です。君を誰より愛しているから、絶対に君の悪いようにはしないよ。

思春期で、お母さんに話せないって気持ちが強かったら、おばさんを思い出してくれたら嬉しいな。

おばさんは、逃げるのが大得意で、要所要所で怖いことから辛いことから逃げてきたんだ。それで結果、悪くない人生を送ってるんだから、逃げることが悪くないことを知り尽くしている大人です。逃げたくなった時には、存分に知恵を貸すよ。ほんとだから。


君の晴れがましい中学校入学という節目の時に、ずいぶん水を差すようなことを言ってしまったね。気を悪くしたらゴメン。おばさん、書きながら気持ちが落ち着いたよ。それで、なーんだ、君は大丈夫って思えてきたよ。

うん、君は大丈夫だ。


君の中学生活に、幸あれ!


おばさんより




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「味方です」を伝えたい。

2015-02-15 19:20:59 | ひとりごと
電車の中など公共の場所で、泣き叫ぶ赤ちゃんを必死にあやしているお母さんの姿を見ると、かつての自分が重なって、身につまされます。

先日も行きつけのレストランで、赤ちゃんを抱っこしたお母さんと赤ちゃんのお姉ちゃんとおぼしき4、5歳の女の子が食事に来ていましたが、料理が運ばれてきたとたんに赤ちゃんが愚図りだしてしまいました。

お母さんは立ち上がって赤ちゃんをあやしますが機嫌は悪くなるばかり。いったんお店の外に出て赤ちゃんが落ち着くと戻り、また泣き出すと外に出る。そんなことを何度か繰り返しましたが、赤ちゃんの機嫌はもどりません。

お店の人が、時折優しく声を掛けていましたが、お姉ちゃんが大方食べ終わるのを確認すると、お母さんは、ほとんど自分の料理に手をつけることなく、店を後にしました。

お母さんのお皿の揚げ物やお味噌汁から立ち上る湯気と、諦めたような、疲れきったような、お店の人に無理やり微笑んで見せたお母さんの表情が忘れられません。

その場を代表して、お母さんに「ごめんなさい」とでも言いたい気分でした。

男性の咳払い、赤ちゃんの泣き声が大きくなった時に一斉に集まる視線。お母さんの方を見ないようにする人たち。お母さんには、それが自分を責める所作に感じたのだろうと思います。

「うるさい」なんて言う人はいなかったけれど、彼女を気遣うような寛容な雰囲気は全体的にはなかったかもしれません。

もしかしたら、いや多分、男性はたまたま咳払いしただけだし、ほとんどの人は大きな泣き声がしたから見ただけだし、逆に気詰まりだから見ないようにしただけ、なんでしょうが、その状況のお母さんにはとてもとてもそんな風に思えないはずです。

そう想像するのは、私がそういう感じを何度となく経験したからです。息子が赤ちゃん時代には、電車もバスもレストランもいろんな人に監視されているような気分だったからです。

息子が1才前に飛行機に乗らざるを得ない状況になった時には、フライト中、周囲の乗客に迷惑にならないようにしなくては、と張り詰めた神経がゆるむことはありませんでした。幸い、泣き叫ぶような事態は免れましたが、あの日のことを思い出すと、今でも胃のあたりがキューっとします。

泣き叫ぶ赤ちゃんをなだめるだけでも一苦労なのに、それをはるかに超える心理的圧迫をもお母さんに与えるのが、日本の公共の場なのかもしれません。

何年か前に、とあるマンガ家が飛行機に搭乗した際に、1才児の赤ちゃんが泣き止まず、航空会社にクレームを申し入れたとして一騒動になったのがありました。

マンガ家に対して、「子供は泣くものだ」といった反論が著名人からも多くあがっていたけれど、その発信者はほぼ親の立場の人、子育て経験者でした。私は、これには少し違和感を覚えました。

「子供は泣くものだ」とか、「国の宝である子供は大事にすべきだ」といったことを理由にして「子供の泣き叫ぶ声にも我慢しろ」と言われたら、「子供は泣くものだ」という実感の伴う体験、つまり子育てをしていない人からすると、随分な物言いに聞こえるような気がしたのです。

何より大切なのは、子供は泣くものだと言うことを知っていようがいまいが、子供が宝であろうがなかろうが、子育てしてようがしていまいが、そんなことよりも、自分がたまたま居合わせた場で、一番辛そうな人に自分なりのやり方で寄り添う気持ちを持てるかどうか、だと思うのです。

公共の場で泣いている赤ちゃんをあやしているお母さんは、その場からの退場という選択を迫られるほどに、辛い人です。「うるさいな」「迷惑だな」と思っている人たちの、その不快感をはるかに超える苦痛を背負う人です。

食事をゆっくり楽しむ人の権利も、飛行機でぐっすり寝たい人の権利も大切ではあるけれど、その議論とは別に、せめて、たまたま場を共有した人が相当辛い気持ちを味わっていることを察するのは人として大切なことで、さらにそれを少しでも和らげようとする努力は、多分自分自身を救うことにもつながるような気がするのです。

惻隠の情って、そんなことを言うんですよね。


ちなみに、レストランで出会ったお母さんに私ができたのは、自分の息子に「赤ちゃんは、泣くのも大事なお仕事なんだよ」とお母さんにも聞こえるほどの大きな声で語りかけることと、赤ちゃんのお姉ちゃんに笑顔で話しかけることだけでした。

いつも、こんな場面に出くわすと、どうにかして「味方ですよ」「わかりますよ」ってことをお母さんに伝えたくなりますが、私のやり方はいつもこんな風にかなり控えめです。


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メールの長い人。

2015-01-20 17:00:00 | ひとりごと
年末だったと思うのだけれど、明石家さんまの「ホンマでっかTV」で、専門家のどなたかが、「メールの長い人は病んでいる人が多い。相手の都合が考えられない。自分の気持ちを押し付ける傾向が強い」みたいなことを力説していた。

へー、なるほどー。お笑い番組向けの極論ではあるけれど、全くの暴論ではないかも。

とっさに、頭に何人かは浮かぶ、長文メールの友人知人たち。病んでいる人たちとは思わないけれど、でも、ある種の共通する傾向を持っている、愛すべき人たち。

その1
わかってほしいことがいっぱいある人

(つまり、わかってもらえない体験をたくさんしているから、メールでもいっぱい書かないとわかってもらえないと思っている)


そして

その2
ものすごく気をつかう人

(だから、気を使わない人が嫌い。相手への配慮はもちろん、なんらかの言い訳も混じっていて前置きが長く、返信するのも早い)


相手の都合を全く考えないどころか過剰に考えるんだけど、自分の気持ちは抑えきれない。抑えているつもりだけれど、ダダモレ。

だからメールで読むには長すぎるという点が不躾なんだけど、言葉遣いは限りなく丁寧で、時候の挨拶や相手を気遣う言葉もふんだんにいれる。

そんなちょっとアンバランスなことになっちゃてて、メールを読む方からすると、「どっちやねん」という感じで少々モヤモヤしちゃうことも。

とはいえ私は自分を攻撃するものでなければ、長いメールをもらうのも嫌いじゃない。というのも頻度は少ないけれど、私のメールも書きはじめると長くなりがちで、油断すると前置きなんかもまどろこしい。

長文メールタイプの人の2つの傾向を少なからず満たしているという自覚あり、なのだ。

一方、いわゆる脱力系の人とも付き合いが増えてきたんだけど、彼女たちのメール見ているとやっぱり性格が出てるなーって思う。

基本、文章が短い。時候の挨拶もかなりシンプル。結論から入ることが多くて、しかも用件が一つか二つに絞られている。改行も頻繁にあって見た目のスッキリ感が違う。ついでに、連絡メールでない限り、こちらの返信を期待している印象が薄い。

やや素っ気ない感じではあるけれど、なんというか、すごくラクーな感じ。密かに、「かっこいいなー」と憧れてしまう。

今はこうした人たちの所作が新鮮で、自分にもそのエッセンスを少々インストール中。なるべく短く、結論を早めにいうメールを心がけているけれど、「返信不要です」とか書きながら、返信来るかな、来ないかな、なんて気にしちゃう自分の往生際の悪さが笑える。

ちなみに、短くシンプルなメールに憧れてはいるものの、長いメールの湿度の高い文章の良さも知っているし、それに救われることがあるのも事実。まあ、生来はこっち派だから。

さらに言えば、長文メールはおおむね疲れている時に読むと少々気が滅入るけれど、疲れない長文メールというのもあるのだ。

それはずばり、自分の送るメールが長文であることと、そんな自分の傾向を自覚してる人のメール。「悪いけど今日は長くなるから聞いて!」という前置きがあったり、「いつも長いメールになってごめんね。」みたいな締めがあると、長いメールでも、あー、わかって書いているのねー、いいよ、大丈夫よー、とこちらの気もすむ。

まあ、なんというか、メールが長くても短くても、自分という人間を知っていて、さらにそれをごまかさない人、というのは魅力的な人ってことなんだ。




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