夫婦で新しい人生にトライしてます~日本編

15年ぶりにカナダから帰国。終の棲家と選んだ北海道美瑛町から日々の生活を綴ります。

アヌーク・エメ

2024-06-27 07:43:20 | 日記

6月14日のブログに「美瑛で生まれた映画」という記事を書きました。その中で手法は違うが美瑛で撮られた「Neighbor’s」という映画は1966年公開のクロード・ルルーシュ監督の出世作「男と女」を思い出させると書いていました。それから4日後の6月18日、「男と女」で主演したフランス人女優アヌーク・エメさんが亡くなったというニュースが流れました。92歳だったそうです。

掲載した写真は、全てネット上にあった著作権フリーのサイトからの借用

何かの縁を感じてしばらくネットで彼女の記事を見ていて、5年前に53年前の映画と同じ監督、キャストで「男と女 人生最良の日」が制作されていたことを思い出しました。2020年の正月にカナダから日本に一時帰省していた時、寅さん亡き後に制作された「男はつらいよ お帰り寅さん」を見に出かけ、その時に映画館でもらったパンフにこの映画の話もあり、「これは見なければならない」と思いながらその機会はなく忘れていました。

今この映画を見ることは出来ないかと探して見たら、灯台下暗しで我が家が加入しているアマゾンのプライムビデオで見られるのでした。ということで、昨日早速見て見ました。

音楽を担当したフランシス・レイは2018年に亡くなっているのでこの映画にどの程度関われたかは不明ですが、あの「ダバダバダ~」と流れる主題歌を初め使われる曲は皆オリジナルのもので、開始早々から懐かしさでワクワクしてしまいます。映像もオリジナル画面が随所に使われています。

それもそのはずで、この時クロード・ルルーシュ監督は83歳、アヌーク・エメは87歳、ジャンルイ・トラティニャンは89歳で、映画は回想シーンと会話で構成するしかなかったのだと思います。「撮影に長い時間は取れなかった」と後から監督は語っています。

認知症で記憶が曖昧なジャンルイが入居している施設に訪ねて来たアヌーク・エメと話しても彼女を’認識できない(あるいは認識できないふりをしている?)まま、ただ53年前の恋愛が人生最良の日だったことを二人で語り合っていました。

高校1年の頃に見た当時は大人び過ぎたこの映画のオリジナルになぜ未だに惹かれるのか、私の場合はストーリーもさることながらやはり音楽と映像美だったように思います。ストーリーとは何の関係もなく老人と犬が海辺を散歩するシーンに「Love is stronger far than we」という曲が重なります。この曲は、映画の中では男女のデュエットで多く使われるけど、このシーンでは確かトランペットで演奏されその切ない音色が忘れられません。

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富良野やすらぎの刻(とき)第64夜

2024-06-25 07:56:59 | 日記

先週土曜日(6月22日)は、毎月恒例の「富良野やすらぎの刻(とき)」の日でした。富良野在住の脚本家・倉本聰氏が70年余りに渡って書いてきた1000本にものぼる彼の作品の中から2つのドラマを見て、鑑賞後に彼と元富良野塾の塾生達がそのドラマにまつわるエピソードなどを語り合うトークショーです。

開会前の会場ロビー

この日のドラマは「前略おふくろ様」でした。1975年から77年にかけて日本テレビ系列で全50話に渡って放映されたもので、その中から第1シリーズの第24話と第2シリーズの第7話を鑑賞しました。私達はこの頃社会人になりたてであまりテレビを見ていなかった印象がありますが、このドラマは萩原健一(ショーケン)がそれまでのロン毛のイメージから角刈りの板前役になっていたり、彼の朴訥に語るナレーションが面白く、時々見ていたことを思い出します。

ドラマ鑑賞後舞台に現れた倉本さんは、これまでは杖を突いて歩いて来られたのですが、今回初めて車椅子を使用されていました。「ごめんなさい、こんな格好で」と話始められましたが、しかし頭脳は明晰で、この「前略」の頃はNHKと大河ドラマ「勝海舟」の制作でもめてけんかとなりテレビ界から干されていた頃だと懐かしんでいました。

NHKともめると他のテレビ局からも仕事が回って来なくなり、その頃は高倉健とかこの萩原健一とか個人的なつながりで仕事を依頼され、それはテレビ局も断れないので使ってもらっていたということです。倉本さんの随筆などを読むと、この頃彼は40歳くらいでNHKとのけんかが原因で東京を引き上げ、しばらくは札幌にいた後富良野に移り住み、そこから東京へ通って仕事をしたということのようです。

「前略おふくろ様」は、ショーケンがレコード化されなかった歌があると聞かせてくれた「前略おふくろ」という歌をモチーフに書いたものだそうで、今この歌詞を読んでみるとなるほどドラマを彷彿させるような母親への近況を綴る歌でした。

倉本さんに言わせると、ショーケンは実生活では悪いことばかりしていたというのですが、粋な生き方は当時のファッションリーダーのようで、ドラマを見て角刈りになったりドラマの中で話されるヘチマコロンが流行ったりしたそうです。極めつけはドラマを見て板前になったという人も多く、倉本さんがしばらくバンクーバーで仕事をしていた時に会った寿司職人たちがそういう話をしていたそうです。

劇中のナレーションの話は以前にも聞いたことがありますが、脚本の世界ではタブーだったそのやり方は画家の山下清から発想を得て使い、意外と好評だったことから「北の国から」の純にもやらせたということでした。

帰り際に見る新富良野プリンスホテルの風景

このドラマのタイトル画は滝田ゆうさんが書いていましたが、この日は会場にその原画も展示されていました。しかし写真撮影は禁止ということで、写真はありません。味のある絵を載せられないのがちょっと残念です。

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昭和の看板絵師

2024-06-17 07:25:32 | 日記

富良野の「喫茶・ギャラリーあかなら」で展示されていたのは、昭和の看板絵師である藤林利朗さんのオードリー・ヘップバーン+大谷翔平の作品でした。

ここで拝見するまで看板絵師という職業や映画の看板について考えたことは一度もなく、しかし私の子供の頃は確かに映画館の看板を見ていたので、そのギャップに少しうろたえてしまいました。私は、映画の看板というものは東京の大手映画配給会社が各地の映画館に貸し出していてそれが全国を回っているのだと勝手に思い込んでいたようで、しかし実際にはあんな大きな看板をしかも全国に同時期に配給することなど出来るはずがないことは自明の理でした。

藤林さんにお聞きすると、昔は旭川にも20軒くらいの映画館があり、それらの映画館の専属と言うわけではないが看板を作成する会社もいくつかあって、そういった会社がそれぞれ受注して手作業で看板を製作していたのだそうです。美瑛町にも最盛期には2軒映画館があったそうですが、美瑛町の仕事もしたのですかと聞くとそれはまた別の業者がいたそうです。

彼は、1959年(昭和34年)からこの仕事を始めたそうですが、その頃最盛期だった映画産業は昭和40年代に入って各家庭にテレビが普及するのと同時に衰退を始め、更に印刷技術が進んだことで大型ポスターも容易に出来るようになったことから映画看板製作という仕事はなくなって行ったということでした。看板は大きなものなのでそれらを残しておくこともなく、若い人たちから見たことがないから見て見たいと言われたことをきっかけに2018年頃から残っていた写真などを見ながら改めて書き直して展示しているということでした。

彼の会社は日活映画の専門のようなところだったので、若いころの石原裕次郎や吉永小百合、浅丘るり子、小林旭らの看板を良く手掛けたそうですが、なぜ今回オードリーヘップバーンなのかは聞き逃してしまいました。昔の映画少年にはあこがれの存在で、思わず目を見張ってしまいました。

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「北の国から」の喫茶店へ

2024-06-16 07:46:27 | 日記

昨日は、富良野市の富良野演劇工場や新富良野プリンスホテル近くの「喫茶・ギャラリー あかなら」へ初めて訪れて見ました。きっかけは、先日行われた第1回美瑛フェスティバルのシンポジウムに飛び入りで紹介された篠田信子さんが現在代表として運営にあたられていると聞いたことでした。

この方のお話に加えてネットでチェックしてみると、この建物は富良野在住の脚本家・倉本聰さんが私財を投じて作られたもので、2010年まで「北時計」という店で「北の国から」にも出演されていた今野照子さんが経営されていたものということでした。

今野さんが引退した後市に寄贈された建物を篠田さんとそのお仲間たちが指定管理者として借り受けて現在に至っているということです。冬の間は休業となり4月から11月まで営業されているようです。

「北の国から95秘密」で純がシュウ(宮沢りえ)から彼女の秘密を打ち明けられる重要な場面がここで撮影されたそうで、昨日私達は広い店内の中で外の景色が見える窓際のテーブルに座ったのですが、そこが彼らが座っていたテーブルだと聞かされてびっくりでした。

こちらは今はギャラリーにもなっていて、今日までで終了ですが旭川在住の藤林さんという映画看板画家のオードリーヘップバーンの作品が展示されていました。彼とのお話も面白く、そちらは明日の記事で書きたいと思います。

帰りがけに少し篠田さんともお話ししました。彼女は現在、富良野で文化芸術活動を支援するメセナ協会の代表であったり、アマチュア野球チーム富良野ブルーリッジの代表兼GMという役職に力を入れていたりというスーパーウーマンですが、その活動の始まりは1999年に「北の国から」で一躍有名になった富良野市に市民の演劇活動を根付かせたいと日本で最初のNPO法人として認証された「ふらの演劇工房」を立ち上げ、同時に市が建設した「富良野演劇工場」の初代工場長となって運営に当たったことからだそうです。私達が毎月倉本さんの「やすらぎの刻」で訪れているあの場所に関わっている方だったのでした。

美瑛フェスティバルのシンポジウムもNPO設立の頃から知り合った方々が主催者であったことで呼ばれたそうですが、美瑛でそういうすごいイベントが開催されているのに富良野には何の情報も入って来なかったと残念がっていました。美瑛町でも話題が広がっていないように感じられるところが私達も残念です。

ともあれ、昨日は毎月1度出かけている富良野のやすらぎの刻に立ち寄る場が出来たことが嬉しいことでした。

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丘までお散歩

2024-06-08 07:44:42 | 日記

美瑛町の街中にある「丘のまち交流館bi.yell ビ・エール」では、写真や絵画や様々な創作作家さん達の展示スペースが広くあり、日本国内で活躍中の有名な作家さん達の作品展示も良く行われているので私達もその都度出かけています。見ごたえのある作品が身近に見られるので良い場所だなといつも思っています。

昨日は、富良野在住の人形作家、宇治静穂さんの「丘までお散歩」という題名がつけられた展示会を開催中だったので出かけて見ました。

宇治さんは、富良野で人形工房セントメリーを運営されている方だそうです。50年前から人形つくりを始めたというので、多分ですが私達と同年代のような気がします。

作風は、童話に出てくる妖精のような雰囲気をまとった人形たちです。それぞれに森の中にいそうだったり街中だったり家の生活の一コマのようだったりと思わず顔がほころびます。

人形たちは主にお爺さんお婆さんが多かったように思えます。実に可愛いホッとするようなお爺さんお婆さんの人形には不思議な暖かい夢を感じます。観る人を幸せにする人形たちでした。

富良野在住なので彼女のお仲間なのかファンの方達なのか、入口の来場者名簿には住所が富良野と書かれた方がたくさん並んでいました。

この展示を薦めてくれたぱれっとの会の友人は渋谷の東急ハンズで偶然彼女の人形展を見て富良野の人かと嬉しくなったそうです。小さな妖精の世界は気持ちがほっこりといつまでも暖かな気持ちの良さが続きました。

 

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