夫婦で新しい人生にトライしてます~日本編

15年ぶりにカナダから帰国。終の棲家と選んだ北海道美瑛町から日々の生活を綴ります。

富良野やすらぎの刻(とき)第65夜

2024-07-23 07:48:50 | 日記

先週土曜日(7月20日)は、毎月楽しみにしている富良野演劇工場での「富良野やすらぎの刻」の日でした。脚本家・倉本聰さんの作品の中から彼が選んだ作品を鑑賞した後、旧富良野塾の人達が彼を囲んで作品の思い出や裏話などを語り合うトークショーです。

この日の鑑賞作品は、何とラジオドラマでした。多分65回を数えるやすらぎの刻の中でも初めてのことだったのではないでしょうか。作品は1980年3月にTBSラジオで放送された「熊嵐」です。原作は吉村昭、脚本は倉本聰、音楽は山本直純であり、2時間のラジオドラマの出演者は主演の高倉健を初め、倍賞千恵子、笠智衆、宮口精二、寺田農、中谷一郎、北林谷栄ら錚々たるメンバーです。

いつもなら2時間あまりの映像を鑑賞するのですが、この日は音だけのラジオドラマなので会場を暗くし、ただ観客は耳から入る音だけで場面を想像し物語に入り込むことを求められました。初めはなかなか音だけではドラマに没入することが出来ず、雑念を払うことに努力する必要がありましたが、段々クライマックスに近づくと次はどうなるとかなりドラマの世界にはまり込んでいることを自覚しました。というのも、題材がかなりセンセーショナルなものであったからです。

たまたま先日、利尻礼文のドライブ旅行の帰途に羽幌町から留萌市へ向かう際、「三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件復元地」というサインを見て、「寄って行こうか」という話も出たのですが幹線道路からかなり中に入ることになるので素通りして来たあの場所での実際にあった事件でした。

1915年12月に現在の苫前町の開拓部落にヒグマが数日にわたって人家を襲い、死者7人、特に女性に味を占めたヒグマが女性たちを喰ってしまったという人類史上まれにみる獣害事件でした。警察や軍も出動して人食いグマを追ったものの捉えることは出来きず、伝説の猟師銀四郎(高倉健)が単独で仕留めるというストーリーでした。

トークショーでは倉本さんが開口一番「失敗作だったね」と始めたので、会場は爆笑でした。彼に言わせるとラジオドラマでもテレビや映画のようにカメラがどこにあって何を視聴者に見せたい(想像させたい)か視点をはっきりさせなければならないですが、その視点が分からない所があったということでした。確かに最初の内は場面を想像するのが難しく感じたところもあった気がしました。

しかし、高倉健の演技は「上手い」でした。健さんにとっては初めてのラジオドラマだったそうですが、クマに気づかれないようにひそひそ声で話す場面なども役者にありがちな声を大きくしてしまうことなく上手く演じられていたと言っていました。

毎回終了後に見る新富良野プリンスホテルと山並み

ヒグマの話は北海道では全く他人ごとではないので、こういう事件があったことは記録に残し語り継がれなければならないということで、この熊嵐以外にも多くの小説や映画となっていることも初めて知りました。

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11年前PEIで

2024-07-16 07:28:27 | 日記

11年前のPEI(プリンスエドワードアイランド)で、私達はB&Bブライトンハウスを運営していました。だいぶ軌道に乗って来てゲストとの交流も楽しい日々でした。

手作りのサイン

その頃古河夫妻は日本をベースに生活していながら夏の数か月は海外生活をするというライフスタイルを送っていました。彼らが特に気に入って数回続けたカナダのビクトリアでの長期滞在から、多分私達の当時のブログでカナダの東海岸を知ってそちらに興味を持ってPEIに長期滞在を考えられたのは2013年でした。メールで連絡を受けて、私達が住んでいたシャーロットタウン市に手ごろな一軒家を探すことが出来たので、そこで数か月の滞在を楽しまれました。

PEIに典型的なスタイルの家

一緒に島の西側を旅行し、サマーサイド市でカレッジ・オブ・パイピングのスコティッシュ音楽とダンスを見たことなどが思い出されます。

あれから11年が経ちました。その彼らがこの7月から3か月の予定で旭川に長期滞在をしています。登山のベテランである夫さんが大雪山にあこがれる気持ちは良く分かります。夏の期間に山にご一緒することもありそうです。

11年前の出会い以後4人とも同学年になる私達は日本へ帰省の時に何度か東京でも再会していましたが、コロナ禍などでしばらく途絶えていました。それが昨日、何年ぶりでしょうか、美瑛でお会いし我が家でランチを楽しみました。お互いあまり変わっていない(と思われる)様子で、昨日のことのように昔話に話を咲かせました。

美瑛は昔訪れていて初めてではないという彼らに、まだ出かけたことがなかった新栄の丘、拓真館、フェルム・ラ・テールを案内してから旭川へ戻る彼らを美瑛駅に送りました。今週末の富良野やすらぎの刻(とき)でもご一緒出来ることになりました。この夏は時々旧交を温めることが出来そうです。

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アヌーク・エメ

2024-06-27 07:43:20 | 日記

6月14日のブログに「美瑛で生まれた映画」という記事を書きました。その中で手法は違うが美瑛で撮られた「Neighbor’s」という映画は1966年公開のクロード・ルルーシュ監督の出世作「男と女」を思い出させると書いていました。それから4日後の6月18日、「男と女」で主演したフランス人女優アヌーク・エメさんが亡くなったというニュースが流れました。92歳だったそうです。

掲載した写真は、全てネット上にあった著作権フリーのサイトからの借用

何かの縁を感じてしばらくネットで彼女の記事を見ていて、5年前に53年前の映画と同じ監督、キャストで「男と女 人生最良の日」が制作されていたことを思い出しました。2020年の正月にカナダから日本に一時帰省していた時、寅さん亡き後に制作された「男はつらいよ お帰り寅さん」を見に出かけ、その時に映画館でもらったパンフにこの映画の話もあり、「これは見なければならない」と思いながらその機会はなく忘れていました。

今この映画を見ることは出来ないかと探して見たら、灯台下暗しで我が家が加入しているアマゾンのプライムビデオで見られるのでした。ということで、昨日早速見て見ました。

音楽を担当したフランシス・レイは2018年に亡くなっているのでこの映画にどの程度関われたかは不明ですが、あの「ダバダバダ~」と流れる主題歌を初め使われる曲は皆オリジナルのもので、開始早々から懐かしさでワクワクしてしまいます。映像もオリジナル画面が随所に使われています。

それもそのはずで、この時クロード・ルルーシュ監督は83歳、アヌーク・エメは87歳、ジャンルイ・トラティニャンは89歳で、映画は回想シーンと会話で構成するしかなかったのだと思います。「撮影に長い時間は取れなかった」と後から監督は語っています。

認知症で記憶が曖昧なジャンルイが入居している施設に訪ねて来たアヌーク・エメと話しても彼女を’認識できない(あるいは認識できないふりをしている?)まま、ただ53年前の恋愛が人生最良の日だったことを二人で語り合っていました。

高校1年の頃に見た当時は大人び過ぎたこの映画のオリジナルになぜ未だに惹かれるのか、私の場合はストーリーもさることながらやはり音楽と映像美だったように思います。ストーリーとは何の関係もなく老人と犬が海辺を散歩するシーンに「Love is stronger far than we」という曲が重なります。この曲は、映画の中では男女のデュエットで多く使われるけど、このシーンでは確かトランペットで演奏されその切ない音色が忘れられません。

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富良野やすらぎの刻(とき)第64夜

2024-06-25 07:56:59 | 日記

先週土曜日(6月22日)は、毎月恒例の「富良野やすらぎの刻(とき)」の日でした。富良野在住の脚本家・倉本聰氏が70年余りに渡って書いてきた1000本にものぼる彼の作品の中から2つのドラマを見て、鑑賞後に彼と元富良野塾の塾生達がそのドラマにまつわるエピソードなどを語り合うトークショーです。

開会前の会場ロビー

この日のドラマは「前略おふくろ様」でした。1975年から77年にかけて日本テレビ系列で全50話に渡って放映されたもので、その中から第1シリーズの第24話と第2シリーズの第7話を鑑賞しました。私達はこの頃社会人になりたてであまりテレビを見ていなかった印象がありますが、このドラマは萩原健一(ショーケン)がそれまでのロン毛のイメージから角刈りの板前役になっていたり、彼の朴訥に語るナレーションが面白く、時々見ていたことを思い出します。

ドラマ鑑賞後舞台に現れた倉本さんは、これまでは杖を突いて歩いて来られたのですが、今回初めて車椅子を使用されていました。「ごめんなさい、こんな格好で」と話始められましたが、しかし頭脳は明晰で、この「前略」の頃はNHKと大河ドラマ「勝海舟」の制作でもめてけんかとなりテレビ界から干されていた頃だと懐かしんでいました。

NHKともめると他のテレビ局からも仕事が回って来なくなり、その頃は高倉健とかこの萩原健一とか個人的なつながりで仕事を依頼され、それはテレビ局も断れないので使ってもらっていたということです。倉本さんの随筆などを読むと、この頃彼は40歳くらいでNHKとのけんかが原因で東京を引き上げ、しばらくは札幌にいた後富良野に移り住み、そこから東京へ通って仕事をしたということのようです。

「前略おふくろ様」は、ショーケンがレコード化されなかった歌があると聞かせてくれた「前略おふくろ」という歌をモチーフに書いたものだそうで、今この歌詞を読んでみるとなるほどドラマを彷彿させるような母親への近況を綴る歌でした。

倉本さんに言わせると、ショーケンは実生活では悪いことばかりしていたというのですが、粋な生き方は当時のファッションリーダーのようで、ドラマを見て角刈りになったりドラマの中で話されるヘチマコロンが流行ったりしたそうです。極めつけはドラマを見て板前になったという人も多く、倉本さんがしばらくバンクーバーで仕事をしていた時に会った寿司職人たちがそういう話をしていたそうです。

劇中のナレーションの話は以前にも聞いたことがありますが、脚本の世界ではタブーだったそのやり方は画家の山下清から発想を得て使い、意外と好評だったことから「北の国から」の純にもやらせたということでした。

帰り際に見る新富良野プリンスホテルの風景

このドラマのタイトル画は滝田ゆうさんが書いていましたが、この日は会場にその原画も展示されていました。しかし写真撮影は禁止ということで、写真はありません。味のある絵を載せられないのがちょっと残念です。

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昭和の看板絵師

2024-06-17 07:25:32 | 日記

富良野の「喫茶・ギャラリーあかなら」で展示されていたのは、昭和の看板絵師である藤林利朗さんのオードリー・ヘップバーン+大谷翔平の作品でした。

ここで拝見するまで看板絵師という職業や映画の看板について考えたことは一度もなく、しかし私の子供の頃は確かに映画館の看板を見ていたので、そのギャップに少しうろたえてしまいました。私は、映画の看板というものは東京の大手映画配給会社が各地の映画館に貸し出していてそれが全国を回っているのだと勝手に思い込んでいたようで、しかし実際にはあんな大きな看板をしかも全国に同時期に配給することなど出来るはずがないことは自明の理でした。

藤林さんにお聞きすると、昔は旭川にも20軒くらいの映画館があり、それらの映画館の専属と言うわけではないが看板を作成する会社もいくつかあって、そういった会社がそれぞれ受注して手作業で看板を製作していたのだそうです。美瑛町にも最盛期には2軒映画館があったそうですが、美瑛町の仕事もしたのですかと聞くとそれはまた別の業者がいたそうです。

彼は、1959年(昭和34年)からこの仕事を始めたそうですが、その頃最盛期だった映画産業は昭和40年代に入って各家庭にテレビが普及するのと同時に衰退を始め、更に印刷技術が進んだことで大型ポスターも容易に出来るようになったことから映画看板製作という仕事はなくなって行ったということでした。看板は大きなものなのでそれらを残しておくこともなく、若い人たちから見たことがないから見て見たいと言われたことをきっかけに2018年頃から残っていた写真などを見ながら改めて書き直して展示しているということでした。

彼の会社は日活映画の専門のようなところだったので、若いころの石原裕次郎や吉永小百合、浅丘るり子、小林旭らの看板を良く手掛けたそうですが、なぜ今回オードリーヘップバーンなのかは聞き逃してしまいました。昔の映画少年にはあこがれの存在で、思わず目を見張ってしまいました。

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