夫婦で新しい人生にトライしてます~日本編

15年ぶりにカナダから帰国。終の棲家と選んだ北海道美瑛町から日々の生活を綴ります。

原始ヶ原

2024-06-24 07:48:37 | 山歩き

原始ヶ原、魅力的な名前です。大雪山国立公園の富良野岳の南麓に広がる高層湿原です。昨日は、大雪山の自然を学ぶ「ひぐま大学」の6月講座でこの原始ヶ原湿原を歩いて来ました。場所は下の地図のようになります。

青線が歩いた場所

「北の国から」の麓郷地区からも近くドラマでもロケ地として使われたそうです。この日も「ひぐま大学」は総勢41名と大型バス1台にほぼ満席で出かけ、登山口まで対向車がすれ違えない細い林道をバスで運んでもらいました。

登山口から原始ヶ原までは3㎞の緩やかな上り坂が続き、ずっと渓流に沿って歩くので途中には滝がいくつか見られました。その中の一つ「不動の滝」は見事なので登山路から外れて川まで降りて眺め、マイナスイオンを浴びまくりで皆さん喜んでいました。

またコースの途中には「天使の泉」という洒落た名前の湧水があり、小休止を兼ねて水を飲んで見ました。冷たく柔らかな喉ごしで確かに旨い水でした。帰りがけには空になっていたペットボトルにその水を満たして来ました。

登山口から420mほど登ったところに湿原は広がっていました。この頃には晴天となり気持ちの良い青空に前富良野岳や富良野岳が目の前に見え、感激の瞬間でした。

先日小説で呼んだ蝦夷地の探検家松浦武四郎がかつて歩いたことを示す碑もあり、ぬかるむ足元に気を使いながら湿原を思い思いに散策し、ここで昼食休憩をしました。

歩きながら思ったことは、尾瀬を初め湿原はその植生を保護するために木道を作り人が歩く場所を規制しているものですが、ここはそれがなくどこでも自由に歩けます。国立公園内の特別自然保護地区に指定されているので、何一つ傷つけないよう散策者自身に細心の注意を払うよう求められているのですが、実のところ昨日はあちこちで見られる食中植物モウセンゴケを踏んでしまっていたことに何度か気づきました。木道整備はお金がかかることで、人が訪れることが少なく費用対効果の関係で自然に任せているのかも知れませんが、ここにも原始ヶ原の名を思い起させます。松浦武四郎が歩いた時と何一つ変わっていない姿なのでしょう。

モウセンゴケ

昨日は、「ひぐま大学」には珍しくあまり登山をしたという感じではなかったですが、夏に湿原を歩くと言うもう一つの登山の楽しみを味わった一日でした。

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松浦武四郎

2024-06-09 08:01:53 | 山歩き

松浦武四郎という人を知っていますか?私は、恥ずかしながらこの名前を知ったのは北海道に住んでからのことでした。

結構歴史や地理が好きだった私でしたが最初にその名前を聞いたのは、去年大雪山を登る「ひぐま大学」に入って初めての山行として愛別町の石垣山という525mの低山を登った時に松浦武四郎が登山中野宿をした場所というものに出会ったことでした。その時は明治の初めに蝦夷地を探検して歩いた人という程度にしか認識はしませんでした。

松浦武四郎も見たであろう石垣山からの眺望

ところが、その後北海道の山を歩いていると各地で彼の名前が出て来るのを見るようになり、先日の十勝岳の噴火の現状の学習会では「松浦武四郎が見たのは安政の噴火だったのか?」とか、昨日たまたま訪れた美瑛町の新栄の丘に彼が訪れた木碑が建っていたり、今月「ひぐま大学」の山行で出かける予定の富良野の原始が原には彼の通過地の碑が建っているといった感じです。

新栄の丘から見た十勝岳連峰

新栄の丘の碑

しかし、江戸時代に北海道を歩き地図を著した人としては伊能忠敬や間宮林蔵は歴史で習っているのに松浦武四郎と言う人は全然出て来ません。どういう人なのだろうと言うぼんやりした思いがあったところ、先日たまたま図書館で彼のことを書いた小説「北海道人」(著者:佐江衆一)を見つけたので借りて来て読んでみました。

彼は時代的には幕末から明治の人で、伊能忠敬によって北海道(当時は蝦夷)の地図が正しく著されたのは1821年で彼が生まれた頃でしたが、しかしその頃は松前藩が道南を領地にしていたものの多くはアイヌ民族が暮らす未開の地でした。伊勢(現在の三重県松坂市)生まれの彼が蝦夷地に関心を持ったのは、当時のロシアが南下政策で蝦夷地を狙っていると聞きながら対抗策を持たない江戸幕府や松前藩に対する危機感だったようです。

伊勢神宮の国に生まれた彼は日本を神国、皇国としてそれが許せず、20代の頃から個人として後には幕府の雇い人として6度も蝦夷地を探索して歩き、蝦夷地経営の現状やそこで暮らすアイヌの人々との交流をつぶさに観察して幕末には蝦夷地に対する随一の地誌学者であり探検家であり作家となっていました。

アイヌの人々との交流でアイヌ語を身につけ、私などは明治以後と思っていた和人のアイヌの人々に対する熾烈な支配は既に江戸時代から始まっていて、これに対する義憤もあらわにして人物志なども多く残しています。

松前藩や江戸幕府の蝦夷地政策の駄目さから当時最も優れた政策を表わしていた水戸藩徳川斉昭に心酔し、尊王攘夷の運動にも関わっています。

70歳で富士登山をして亡くなるまで登山家、探検家として生きた人でしたが、明治になって蝦夷地を北海道と改めたのは彼の提言であり、それは彼の雅号が若いころから「北海道人」であったことに由来するそうです。

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ひぐま大学~音江山登山

2024-05-27 07:49:58 | 山歩き

昨日の日曜日は、大雪山に登り自然を学ぶ「ひぐま大学」の今年度第1回目の山行の日でした。今年から妻が参加していないので私だけの参加でした。

例年5月の第1回目の山行は、雪の残る大雪山は避け、久しぶりの登山なので足慣らしの意味で低山を企画するそうですが、昨日の音江山は足慣らしに「ちょうど良い」から「ちょっときつい」の微妙な山でした。音江山は地図で見ると旭川から車で1時間弱の深川市にある標高795mのなだらかな稜線を持つ山です。

後からYAMAPなどのアプリを使って他の登山者のレポートを見て思ったのですが、音江山を含む沖里河(おきりかわ)山、無名山をぐるりと回るコースは多分下の2つのルートを歩くことが正解のようで、私達のように音江山だけを往復するルートは距離は半分くらいに短いけど往きも帰りも急な坂を登り下りすることになって、特に私の場合下りの時に足の親指に圧がかかって左足の爪先が痛くなって難儀しました。こういう経験は下りがきつかった十勝岳や旭岳でもなかったことなので、いかに急だったかを物語っています。

ぐるりと回る一般的なルート

私達のルート

ただ、私達「ひぐま大学」の良いところは、単に山を登るということではなく、山行中頻繁に足を止めて山の植物を一つ一つ確認して行く即席講座があり、それが特に登りでは急な坂であってもあまり苦にせず登れてしまうところです。その分標準タイムの倍近い時間がかかっていますので、もしぐるりと回るルートを選んだ場合はもっと朝早く出て帰りも遅くなったことでしょうから、痛しかゆしの状況でした。

この山は太古の時代には火山だったそうですが、今では完全に植生が戻っていて火山を感じるようなことは全くなく、足元もふかふかの木々の絨毯であり大雪山で経験するような火山岩を歩く大変さとは無縁で歩きやすかったです。

昨日は学生31名、スタッフ11名という今までで最大のグループでの登山でしたが、誰一人脱落者もけが人もなく行って帰って来られたのですから第1回目としては大成功だったと思います。

天候も後押しをしてくれ、朝の内雨が残って心配しましたがスタート時点の曇りから頂上に着くころには晴れ間が出てやや暑いくらいでした。山行中には遠くに芦別岳や十勝岳連峰、また下界の深川市の街並みも見えましたが、音江山頂上は周囲が藪になっていて背伸びしなければ眺望が得られない所でした。

下山してからは、近所に「まあぶ温泉」という立派な施設がありそこにゆっくり浸かって体を温めることが出来たので、普段のように足をつることもなく帰宅出来ました。

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ひぐま大学2年生の入学式

2024-05-20 07:02:38 | 山歩き

昨日は、大雪山に登りその自然を学ぶ「ひぐま大学」の今年度の入学式が旭川市で行われました。この「大学」は今年で第44期ということですからもう半世紀近く運営されている由緒ある登山同好会です。昨日もまた10数名の新入生を迎えての入学式となりました。

運営の主体は「大雪と石狩の自然を守る会」が行っていて、その代表をされている寺島一男さんが大雪山ばかりでなく北海道の山や自然に熟知されている方なので、毎回登山対象の山についての本などでも得難い知識を共有していただけることが活動の魅力となっていると思います。

昨年は1年生として夫婦で初めて参加しましたが、妻は規定の3度の登山は達成したものの大雪山本体に登ることは難しいと今年の参加は見送りましたので、今年は夫だけが単独参加となりました。私(夫)は昨年修学旅行だけは不参加でしたが、その他の山行は全て参加して皆勤賞を得ていたので、今年もそのつもりで張り切っています。

ただ、今年の予定を見ると音江山(5月)、原始ヶ原(6月)、雨竜沼湿原(8月)とまだ出かけたことがない山行があり興味がわくのですが、本番の大雪山では7月に旭岳・裾合平、9月に十勝岳と昨年個人的に登って「きつかった」思い出のある山行が企画されていてこれには少し困惑しています。「皆勤賞を狙う」と宣言した以上逃げはしませんが、「あーまたあのきつい坂を登るのかぁ」という気持ちを払しょくする体力を今から養わなければならないようです。

昨日は、入学式の後早速5月山行である音江山についての事前学習会も開かれ、予察隊が先週登って来た状況の報告と寺島先生から音江山を含むイルムケップ火山の成り立ちについての講義がありました。5月はまだ大雪山は雪が残るのでそれを避け足慣らしの目的で低山登山を企画するようですが、音江山は標高795mの低山とはいえこの時期はまだ雪があってバスが入れないことから3つある登山ルートの内一番きついルートを歩くことになるようなので、「大丈夫か?」と戦々恐々な面もあります。結果は来週報告します。

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やっぱりクマ

2024-04-05 07:26:45 | 山歩き

先日のブログで東川町のキトウシ山に登った際、雪上にクマの足跡と思われるモノを見つけたので東川町の役場にメールで報告しておいたという記事を書きました。

キトウシ山はキャンモアスキー場があるし、家族旅行村として大規模なキャンプ施設や日帰り入浴施設「きとろん」もあるので1年中を通して人が多く集まる場所ですから、町としてもクマには細心の注意を払っていると思っていました。しかし、ネット情報をくまなく(ダジャレ?)探してもキトウシ山でクマを見たと言う話は今に至るもありません。

それで私の撮った写真はクマではないのかと思い、先日スノーシューに出かけた際に今や専門のネイチャーガイドとなっている愛称「隊長」に写真を見せたところ、やはりクマだということでした。そもそもあの山にクマがいることは関係者は知っていて、彼が参加しようとしていたトレイルランニングの大会がクマの影響で中止になったこともあるということでした。

そういうことなの?では私の情報など何の役にも立たないことだったのでしょうか? いや、そうではないでしょう。私の情報提供などはどうでも良いことですが、町としてはクマ注意の情報をネットに上げるなり、下の写真のように同じく多くの訪問客がある旭山動物園裏の旭山のような看板で訪問客に注意を促すべきでしょう。

何もないから下の写真のように民間人が作っているキャンプ情報でキトウシ山は安全という誤った情報を出してしまうのだと思います。

東川町は写真の町宣言や旭川家具などのデザインを誇る町であり、建築家の隈研吾氏とコラボした街づくりで人気のある町です。私達も好感を持って見ていました。しかし、このクマ対策は残念です。町の人気に陰りを与えるような情報を制限しているのではと勘ぐってしまいます。この先どうするのか様子をみてみたいと思います。

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