夫婦で新しい人生にトライしてます~日本編

15年ぶりにカナダから帰国。終の棲家と選んだ北海道美瑛町から日々の生活を綴ります。

旭岳~周回コース

2024-07-22 07:26:50 | 山歩き

昨日は、大雪山を登り自然を学ぶ「ひぐま大学」の7月講座、旭岳登山でした。前日まで天気予報はあまり優れず、事前学習会で1962年の旧北海道学芸大学生10名の遭難の話などを聞いたこともあってイマイチ気乗りしないまま当日の朝を迎えました。

ところが、この日は天気予報も朝から晴れに変わっていて、バスが旭岳に近くづくと山頂の稜線がはっきり見えていました。見事にそれまでの気分を裏切ってくれ、俄然張り切ってしまいました。

もう一つ事前の気分が優れなかったのは、昨年一人で頂上をピストン往復した時に多分ペースの配分を間違えたのかきつくてもう登りたくないと思っていたのですが、昨日は仲間と登ることで自分の急ぎ過ぎるペースが抑えられ、時々ドリンク休憩を取ることで、山頂まで実に楽なペースで登ることが出来ました。これならまた登りに来ても良いと思うくらいでした。

頂上に到達し少しの時間休憩した後は、初めての経験となる旭岳の裏側を降り、続く間宮岳に縦走し、そこから中岳温泉と名付けられた川に自然に噴出している温泉に降りてそこで足湯に浸かり、そこから先日も訪れたチングルマの群生地・裾合平を経てロープウェイ駅に向かうという周回コースに入りました。

旭岳の裏を降りる道はきつかったです。かなりの斜度があり、ほとんどが滑り易い砂礫の連続で正直怖いと思うくらいでした。そこを抜けると今度は間宮岳(2185m)までの登り返しがありました。周回コースの中でのピークを過ぎた後はしばらくフラットな道を、右に御鉢平と名付けられている直径2㎞になるという大カルデラを見ながら進みました。

中岳分岐から中岳温泉に降りて行く道はかなりの急坂でした。中岳温泉には午後2時ごろの到着だったので多分一番混みあう時間帯だったのでしょう、多くの登山客が足湯に浸かっていました。ここは昨年経験していたしあまり休憩時間もなかったので軽く5分ほど足をお湯に浸けましたが、これだけでもそれまでの疲れがかなり回復する気分でした。

そこから裾合平を通り過ぎると、7月4日に訪れた時は満開のチングルマが見られたものでしたが、昨日はそれが見事に綿毛に変わっていました。しかし、この綿毛の様子も遠くからはまるで薄いピンクの絨毯のように見えてなかなか良いものでした。

全員疲れた足取りでやっとロープウェイ駅に戻り、乗り込んだのは最終に近い夕方4時45分発でしたが、この時にも旭岳はくっきりと頂上までの姿を現していて、良い登山日になったことを改めて感じました。

チングルマは綿毛になっていても他の花々はまだたくさん咲いていて、特に女性陣は嬉々として花々を楽しんでいるようでした。(一部名前の分かるものを掲載して見ます。)

ミヤマリンドウ

ミヤマアキノキリンソウ

イソツツジ

イワヒゲ

メアカンキンバイ

イワウメ

タカネシオガマ

 

 

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再び旭岳へ

2024-07-18 08:01:04 | 山歩き

昨夜は、今週日曜日(21日)の大雪山に登り自然を学ぶ「ひぐま大学」7月講座のための事前学習会があり、夕方旭川へ出かけて来ました。

今月の講座は、メインは北海道最高峰の旭岳(2291m)へ登り、裏側に降りて間宮岳、中岳温泉(自然露天風呂・足湯のみ)、裾合平を廻って来るという周回コースです。これはなかなかのロングコースで所要時間は9時間と目されるので、それはきついと思う人には旭岳頂上をピストン往復するのんびりコースと、先日カナダからの友人夫妻と出かけた裾合平往復のゆったりコースも設けられます。

旭岳は、昨年8月に「美瑛町に住んだ以上旭岳に登らないわけにはいかない」と絶好の登山日和を狙って一人で登って見ました。昨日の事前学習会での各報告者の話しでは、旭岳は変わり易い天気で夏の晴れた日には比較的簡単に登れる山であるが、天候の悪い時には視界も効かず夏でも強風で低体温症の危険があり、登山道は滑り易いザレ場ばかりで簡単な山ではないと言われました。昨年の登頂がいかにラッキーだったかを知らされました。

昨年8月1日

昨年下山の際に大きな鐘のモニュメントがあることに気づいたけど観光客が多くて素通りして来ましたが、昨日の話で、あれは1962年に起きた北海道学芸大学(現北海道教育大学)山岳部の冬山登山で亡くなった10名の学生たちの鎮魂と「ここに避難小屋(石室)があるよ」と知らせる鐘だということを知りました。気持ちが引き締まる思いでした。

頂上から見た下界

今週日曜日の天気はあまり芳しくはありません。役員の話では、頂上まで行ってもしそこで天気が悪ければ周回せずにピストンで下山することも考えるということです。キツイ山を登るのですから出来れば初めての経験で周回したいと思っていますが、利尻山でも無謀な山行は遭難の危険性があることを知ったので経験豊富な役員達の判断に任せたいと思いました。

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花の富良野岳

2024-07-13 08:25:04 | 山歩き

昨日は、花の富良野岳と呼ばれる高山植物の宝庫、富良野岳を初めて登って来ました。標高1912mと十勝岳連峰の中でそれほど高い山ではなく、登山口の十勝温泉凌雲閣が標高1280mに位置することから標高差は632m、実際にはアップダウンがあって標高差は780mほどですが登山レベルとしては初級者でも登れる山となっています。

その評価に、ちょっと楽勝気分で花を楽しんで来ようと当初は一人で登ろうと思っていましたが、前日すずらん大学で会ったひぐま大学でも一緒の岡田さんに話したところ、彼女ともう一人ひぐま大学の猪股さんが同行することになり結局3人での登山となりました。

登って見ての印象は、標高差の割に歩行距離が片道5㎞と長くその分行程の3分の2くらいはゆっくり歩け、十勝岳の安政火口付近は火山の跡そのものですがその先は木々に覆われたなだらかな登り斜面で花を楽しみながら歩けました。しかしその後は標高差を稼ぐために頂上まで急坂が続きますが、その過程でもずっと花が咲き続けていてそれらを見ながら歩いているといつの間にか頂上に着くことが出来るという山でした。

昨日は、下界は晴れて暑かったようですが、山の天気は少しガスっていて頂上に着いた時には周囲は真っ白でした。ただ十勝岳方面や登山口の凌雲閣の方を見ると晴れていて、ちょっと残念な気分ではありました。

同行のお二人は高山植物の知識も豊富で、多分30種類以上の花が見られたことに嬉々としていて写真を撮りながらの楽しい山行だったようです。私はまだまだ花の知識には疎いのですが、頑張って探して名前の分かる(と思われる)花だけを紹介して見ます。実際にはもっとたくさんの花を撮っていますが、名前までたどり着けない花は省略です。

左上イワカガミ、右上イワヒゲ、左下アズマギク、右下(花ではなく)ノゴマ

左上コマクサ、右上メアカキンバイ、左下エゾルリソウ、右下エゾツツジ

左上エゾコザクラ、右上ウコンウツギとエゾノツガザクラとチングルマ、左下ゴゼンタチバナ、右下シナノキンバイ

左上カラマツソウ、右上クワガタソウ、左下エゾノカワジシャ、右下トカチフウロ

左上ミヤマリンドウ、右上ミツバオウレン、左下ウサギギク、右下ヨツバシオガマ

左上アカモノ、右上エゾイソツツジ、左下ミヤマアキノキリンソウ、右下ウコンウツギ

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原始ヶ原

2024-06-24 07:48:37 | 山歩き

原始ヶ原、魅力的な名前です。大雪山国立公園の富良野岳の南麓に広がる高層湿原です。昨日は、大雪山の自然を学ぶ「ひぐま大学」の6月講座でこの原始ヶ原湿原を歩いて来ました。場所は下の地図のようになります。

青線が歩いた場所

「北の国から」の麓郷地区からも近くドラマでもロケ地として使われたそうです。この日も「ひぐま大学」は総勢41名と大型バス1台にほぼ満席で出かけ、登山口まで対向車がすれ違えない細い林道をバスで運んでもらいました。

登山口から原始ヶ原までは3㎞の緩やかな上り坂が続き、ずっと渓流に沿って歩くので途中には滝がいくつか見られました。その中の一つ「不動の滝」は見事なので登山路から外れて川まで降りて眺め、マイナスイオンを浴びまくりで皆さん喜んでいました。

またコースの途中には「天使の泉」という洒落た名前の湧水があり、小休止を兼ねて水を飲んで見ました。冷たく柔らかな喉ごしで確かに旨い水でした。帰りがけには空になっていたペットボトルにその水を満たして来ました。

登山口から420mほど登ったところに湿原は広がっていました。この頃には晴天となり気持ちの良い青空に前富良野岳や富良野岳が目の前に見え、感激の瞬間でした。

先日小説で呼んだ蝦夷地の探検家松浦武四郎がかつて歩いたことを示す碑もあり、ぬかるむ足元に気を使いながら湿原を思い思いに散策し、ここで昼食休憩をしました。

歩きながら思ったことは、尾瀬を初め湿原はその植生を保護するために木道を作り人が歩く場所を規制しているものですが、ここはそれがなくどこでも自由に歩けます。国立公園内の特別自然保護地区に指定されているので、何一つ傷つけないよう散策者自身に細心の注意を払うよう求められているのですが、実のところ昨日はあちこちで見られる食中植物モウセンゴケを踏んでしまっていたことに何度か気づきました。木道整備はお金がかかることで、人が訪れることが少なく費用対効果の関係で自然に任せているのかも知れませんが、ここにも原始ヶ原の名を思い起させます。松浦武四郎が歩いた時と何一つ変わっていない姿なのでしょう。

モウセンゴケ

昨日は、「ひぐま大学」には珍しくあまり登山をしたという感じではなかったですが、夏に湿原を歩くと言うもう一つの登山の楽しみを味わった一日でした。

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松浦武四郎

2024-06-09 08:01:53 | 山歩き

松浦武四郎という人を知っていますか?私は、恥ずかしながらこの名前を知ったのは北海道に住んでからのことでした。

結構歴史や地理が好きだった私でしたが最初にその名前を聞いたのは、去年大雪山を登る「ひぐま大学」に入って初めての山行として愛別町の石垣山という525mの低山を登った時に松浦武四郎が登山中野宿をした場所というものに出会ったことでした。その時は明治の初めに蝦夷地を探検して歩いた人という程度にしか認識はしませんでした。

松浦武四郎も見たであろう石垣山からの眺望

ところが、その後北海道の山を歩いていると各地で彼の名前が出て来るのを見るようになり、先日の十勝岳の噴火の現状の学習会では「松浦武四郎が見たのは安政の噴火だったのか?」とか、昨日たまたま訪れた美瑛町の新栄の丘に彼が訪れた木碑が建っていたり、今月「ひぐま大学」の山行で出かける予定の富良野の原始が原には彼の通過地の碑が建っているといった感じです。

新栄の丘から見た十勝岳連峰

新栄の丘の碑

しかし、江戸時代に北海道を歩き地図を著した人としては伊能忠敬や間宮林蔵は歴史で習っているのに松浦武四郎と言う人は全然出て来ません。どういう人なのだろうと言うぼんやりした思いがあったところ、先日たまたま図書館で彼のことを書いた小説「北海道人」(著者:佐江衆一)を見つけたので借りて来て読んでみました。

彼は時代的には幕末から明治の人で、伊能忠敬によって北海道(当時は蝦夷)の地図が正しく著されたのは1821年で彼が生まれた頃でしたが、しかしその頃は松前藩が道南を領地にしていたものの多くはアイヌ民族が暮らす未開の地でした。伊勢(現在の三重県松坂市)生まれの彼が蝦夷地に関心を持ったのは、当時のロシアが南下政策で蝦夷地を狙っていると聞きながら対抗策を持たない江戸幕府や松前藩に対する危機感だったようです。

伊勢神宮の国に生まれた彼は日本を神国、皇国としてそれが許せず、20代の頃から個人として後には幕府の雇い人として6度も蝦夷地を探索して歩き、蝦夷地経営の現状やそこで暮らすアイヌの人々との交流をつぶさに観察して幕末には蝦夷地に対する随一の地誌学者であり探検家であり作家となっていました。

アイヌの人々との交流でアイヌ語を身につけ、私などは明治以後と思っていた和人のアイヌの人々に対する熾烈な支配は既に江戸時代から始まっていて、これに対する義憤もあらわにして人物志なども多く残しています。

松前藩や江戸幕府の蝦夷地政策の駄目さから当時最も優れた政策を表わしていた水戸藩徳川斉昭に心酔し、尊王攘夷の運動にも関わっています。

70歳で富士登山をして亡くなるまで登山家、探検家として生きた人でしたが、明治になって蝦夷地を北海道と改めたのは彼の提言であり、それは彼の雅号が若いころから「北海道人」であったことに由来するそうです。

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