弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

R.I,P~大言壮語

2019-02-06 00:22:54 | 思考
今小説の執筆を再開することを考えいて、そのテーマ的に受験の季節に思うことがあって。




分相応・分不相応、趣味・本業どちらでも「高み」を目指してきた。




小学校の間は「甲子園」とか戯言を抜かしていた。中学の野球部の時点で上がいすぎて「敵わない」どころか「お話にならなかった」。




一浪時には東大。父が亡くなったり一浪の受験前にノイローゼになっていなければ東大には合格していたと思う(模試ではB判定以上しか取っていない)。

合格しても大学内で自分では「敵わない」人に巡り会っていただろう。




その前にアーケードゲームでも上手くなろうとしていたし、大会にも出ていた。だが、もっと、反射神経が良い人には「敵わなかった」。




フルートでも、歴代のフルート部員の中で一番うまくなろうと練習ばかりしていた。全盛期の実力と練習量なら音大も目指せたかもしれない。

でも、部から出て、幼少期からやっている人と会った時には、そういう人には「敵わなかった」。




バイオリンはもう動画を見たとたん、「敵わない」ことが分かった。その時点で(エレキ)バイオリンはやめた。




大学院には偏差値がないのであまり気にしなかったが、公務員試験も当初は国家公務員総合職(いわゆるキャリア)を目指していた。

これは敵う敵わないの以前に意欲が出なかった。




・・・ふと、高校の同級生で

「ノーベル賞を取る」

と言っていた人がいたが、あの人はどうなったのか。




仮にノーベル賞がナンバーワンだとして、それも結局他者評価。誰かとの勝負。




牧歌的な「誰もがオンリーワン」なんて戯言もどうでもいいの良いが、ナンバーワンっていうのも誰が決めるのだろうということ。

結婚相手なんてのも本質的な意味で「その人にとってのオンリーワンとナンバーワン」なのではない。市場が広すぎて、その中で縁のある人と結婚するだけ。それは目標とするものではない。




ともかく、自分が「有象無象のその他」であることを認めて受け入れるべきなのか。それで何が残るのか。いや違う、何が始まるのか。




・・・

冒頭の小説でも、高みはおろか、~賞すら取れない。

というか、そこに賭けるものでもない。物書きは自分の本質でない。じゃあ、趣味で・・となると、そもそも自己満足で楽しめるのかすらかなり謎で。今はネットで投稿できるから、ひょっとしたら、「将来の潜在的な他者」にとってオンリーワンになれるかもしれない。だが、見ず知らずの人に認めてもらうことが目標なのか。

そこまで私はお人よしではない。




じゃあ、本業の賭けるべき研究で一番をとなっても・・・

一体、誰がどのように評価してくれたらそうなるのか。

ノーベル心理学賞もノーベル哲学賞なんてのはない。

というか、それ以前に一端の研究者になれるのかすら分からない。

それはさすがに他者に評価されることで決まる。。




それでも、他者評価で「高み」なんてのを目指してきたことで幾多の自分が死んでいった。




その時々の自分にとってその時々の自分がナンバーワンでオンリーワンならいいというのは一理ある。

が、自己満足では食べていけない。




ここら辺の思考の袋小路が、平成の自分の限界だろう。

大学院に入学して何か本質的な部分が変わる訳でもない。元号が変わっても同じ。

それでも、その頃には・・未だに内部と外部で亀裂が入っている「平成の自分」はその自己イメージ、心象風景とともに安らかに眠っていることを祈る。




・・何て都合のいいことにはならず、結局、他者評価と自己評価の間でもがき続けるのだろう。

それでも、いや、だからこそ、大言壮語を吐き続けますか。

年齢不相応な夢を公言し、理想を抱き、目標を掲げ続けようか。

誰のためでも何のためでもなく、元号が変わっても、年を取っても。きっと、その足跡だけが死んだ幾多の自分への鎮魂歌。


ブログと投薬状況

2019-02-01 14:21:12 | メンタル
今日も今日とて寝起きの調子が悪い。
昨日、頭痛薬を飲んでランニングをしたら、少しハイになったからその反動か。

それはさておき。

13年前からずっと独り言のようなブログをサイトを変えながら続けてきた訳だが、昔と今では状況が違う。
ブログを始めたのは、まだお薬手帳が完全に普及しておらず、また、院内処方の病院に通っていた頃。
その時代には投薬状況の記録としてブログを使っていた。今ではそのブログは残っていないが、大体、いつどんな薬を飲んでいてどういう状態だったのかを思い出せる。
記録をつけていたおかげだろう。

逆に、お薬手帳を完全に使い、その代わりにブログに記していない時の記憶の方が浅い。

とはいえ、多分、もう投薬ですることはマイナーチェンジしかないので、これから記録をつけていく意義はあまりないだろう。下手したら死ぬまで変わらないかもしれない。とはいえ、画期的な新薬が出たらそれを試していくことにはなろう。

その固まったものとして記しておこう。今までに何度薬を試したことか。。

レクサプロ20mg
レキサルティ1mg又はエビリファイ6mg※
セロクエル300mg
以上眠前。
※レキサルティはまだ処方制限があり1ヶ月処方が出来ないため、おそらく、4月からエビリファイに一時的に戻す。あまり効果は変わらない。

ソラナックス0.4×3
デパス1
デパスは頓服だが、ソラナックスの使い方は自由。

漢方
大柴胡湯
ほぼ肝臓保護のため。

以上はちゃんと飲んでいるがリーマス800mg/dayだけ飲んでいない。
効かないどころか逆に鬱々としてほとんど動けなくなると医師に言っても無くしてくれないのでしょうがない。
双極性2型だから医師は出したいのだろう。ただ、軽い躁に一時的になっても、ほとんど持続しないことは医師も量済み。

デパス以外ほぼどの薬も微妙にしか効いていないが、セロクエルだけは必須という感じ。でないと恐ろしい不眠症になる。
基本薬は少ないが、肝臓への負担と肥満傾向にあるのでそこだけは注意という感じか。

文学と救い、或いは哲学

2019-02-01 02:15:28 | 本など
高校生の頃、教科書に載っていた梶井基次郎の『檸檬』を読んで感銘を受けた。
だが、多分、その頃の印象と今読み直した印象とでは大分違うのだと思う。

梶井基次郎の作品は自分が病人になってようやく見えてくる部分がある。
表現が染み渡るのだ。

感銘を受けた、と言えば、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』が一番で、他にも夏目漱石の『こころ』などがある。
カミュのそれは私のバイブルのようなものだ。おそらくだが、当時も自殺という単語に反応していたのだろう。

この著作は哲学的な部分がある文学だが・・
反証主義者なので、科学や哲学と文学は切り離すべきだと思っている。
それでもなお、改訳したこの本に惹かれて読み直している。

ある意味、そういう区分など、私には本質的でないのかもしれない。

この本は苦境の時に、いつもかじりついていた。そして、今もなお色褪せない。

学問とも趣味嗜好とも切り離されたところでしか、人は本質的に救われないのかもしれない。
だが、それは直観や啓示によるものでもない。
そしてまた、私の世界ー言語への信頼することで私の表現していくものが他者の糧になるかもしれない。

夢想か。
学問にしても何にしても、表現で食べていくしかない。
それならなおのこと、他者の存在の前提のもとで私は私の言語を突き詰めていくしかない。

(このブログは伝えることを目的としてない。ただの落書きだ。だが、私的言語がなりたたないのと同じくで、完全に他者を排していない。)