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定年後の人生、日々の ”こと” つれづれ思いつくままに・・・

「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ

2019年03月29日 | 偉人(話題の人)
「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏 スピーチ全訳
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にて

亡くなったスティーブ・ジョブズ氏は多くの印象的な言葉を残した。中でも2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、自らの生い立ちや闘病生活を織り交ぜながら、人生観を余すところなく語り、広く感動を集めた。「ステイ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」。今も語り継がれるスピーチの全文を、日本語訳と英語原文で紹介する。

世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、3つの話をさせてください。たいしたことではない。
たった3つです。

まずは、点と点をつなげる、ということです。
私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。
私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。
そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えなかった。私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなった。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。
とはいえ、いい話ばかりではなかったです。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。
それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。
もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピューターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。
繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。

2つ目の話は愛と敗北です。
私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックとともに私の両親の家のガレージでアップルを創業したのは二十歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。
実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまった。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは周知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。
1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。
そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。
その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。
アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。

3つ目の話は死についてです。
私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。
自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。
1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。
一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。
人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。
誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。
あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。
私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。
スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
ハングリーであれ。愚か者であれ。
ありがとうございました。
※スティーブ・ジョブズ氏が2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチ原稿の翻訳。

スティーブ・ジョブズ氏の最後の言葉

2016年04月23日 | 偉人(話題の人)

私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。
他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。
しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。
人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。
病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと、認証(認められること)や富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。   
この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。   
神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。   
今やっと理解したことがある。   
人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。   
もっと大切な何か他のこと。
それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。
終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。   
神は、誰もの心の中に、富みによってもたらされた幻想ではなく、愛を感じさせるための「感覚」というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。   
私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。
これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。
愛とは、何千マイルも超えて旅をする。人生には限界はない。
行きたいところに行きなさい。望むところまで高峰を登りなさい。  
全てはあなたの心の中にある、全てはあなたの手の中にあるのだから世の中で、一番犠牲を払うことになる。
「ベッド」は、何か知っているかい?シックベッド(病床)だよ。   
あなたのために、ドライバーを誰か雇うこともできる。お金を作ってもらうことも出来る。
だけれど、あなたの代わりに病気になってくれる人は見つけることは出来ない。   
物質的な物はなくなっても、また見つけられる。
しかし、一つだけ、なくなってしまったら、再度見つけられない物がある。   
人生だよ。命だよ。
手術室に入る時、その病人は、まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」
あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。
あなたの家族のために愛情を大切にしてください。
あなたのパートーナーのためにあなたの友人のために。
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
他の人を大切にしてください。

スティーブ・ジョブス 1955年2月24日 - 2011年10月5日


宮崎秀吉105歳の世界新

2015年10月06日 | 偉人(話題の人)
92歳になってから陸上を始めたとか。凄いですね!

「産経ニュースより」

最近105歳で世界新を出したこの方も“レジェンド”のひとりだろう。京都市右京区に住む現役ランナー、宮崎秀吉さん。京都市内で9月下旬に開かれたマスターズ陸上競技の記録会で100メートル走(105~109歳)に出場。記録はこのカテゴリーの“世界新”となった。

100歳を超えて、100メートルを走りきることができる、ということだけでも大変なことだ。マスターズの記録は5歳刻みで認定されているが、105~109歳のカテゴリーではこれまで記録すらなかったそうだ。

宮崎さんが生まれたのは、明治43年だ。関東大震災が起きたときに中学生。30代で戦争を経験し、前回の東京五輪があった昭和39年には54歳だった、ということになる。

若いころからスポーツで身体を鍛えてきたのかと思っていたら、そうではないらしい。もともとはスポーツとは無縁だったというが、囲碁や俳句仲間が相次いで亡くなり、「1人でも打ち込めることをしよう」と、92歳になってから陸上を始めたそうだ。

100メートル走は練習では36秒台で走ることができていたといい、世界新とはいえ、42秒22という今回の記録には不満が残ったらしい。

走りきった後、「ここらで手を打とうと思っていたけど、あと2~3年は練習しないと」と話したという宮崎さん。この向上心こそが、健康でありつづける秘訣(ひけつ)なのかもしれない。

「武器に武器で対抗することは悪循環に陥る」104歳の訴え

2015年09月26日 | 偉人(話題の人)

104歳、凄いパワーだね!
104歳の誕生日を来月4日に迎える医師、日野原重明さん(103)=聖路加国際病院名誉院長=が25日、聖路加国際大(東京都中央区築地3)で記者会見した。太平洋戦争期の自身と病院を回顧した新著発刊を記念したもので、日本の現状に「武器に武器で対抗することは悪循環に陥る」と危惧を示した。さらに憲法解釈の変更による海外派兵にも反対し「憲法の精神は互いに『赦(ゆる)す』こと。話し合いこそが国際問題の解決につながる」と訴えた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

 聖路加国際病院の名はキリスト教の聖人の名に由来し、米国人宣教師が1902年に設立した。日野原さんは日米開戦直前の41年8月に着任し、海軍軍医に任官した一時期を除き、70年以上にわたり医療の第一線にいる。

 日野原さんは、日本国憲法について会見で「改正すべきではない。解釈の変更もすべきではない」と強調。「隣人を愛せ、殴られても殴り返すな、という聖書の教えに似ている」と指摘した。国際問題の解決には辛抱強さが重要であり、「分かってもらえないからと殴りかかることは間違いだ。口があり、言葉がある。言葉は人間に与えられた宝物だ」と訴えた。

 日野原さんの新著「戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり」(小学館)によると、聖路加国際病院は戦時中、当局による命令で「大東亜中央病院」へと強制的に改称させられた。駐日米国大使らと交流のあった日野原さんはスパイ容疑をかけられ、特別高等警察(特高)に「天皇陛下とキリスト教の神とどっちが偉いんだ」などと尋問された。戦後も、病院はGHQ(連合国軍総司令部)に建物を接収された。

 新著の執筆の動機には「命と平和の尊さを次の世代に語り継ぐことは大切な使命」との思いがあるという。ここ10年ほど、日野原さんが力を注いでいるのは子供たちへの教育。「ほかの人の価値観や尊厳を否定したり、生きる権利を暴力で奪ったりする戦争はいじめと同じ」と説いている。

 この日、日野原さんは車いす姿で会見に臨んだ。2年ほど前、大動脈弁の不調による狭窄(きょうさく)症と診断されたためだ。ただし、冒頭には「(移動に便利な)車いすのおかげで活動範囲が広がった」と意気軒高なところを見せ、会場を沸かせた。続けて「与えられた命をどう生かすかは一生の課題だ。いかに時間を人のために差し出すか」とも。会見は予定時間を30分近くも超過した。


なぜ、日本では「宗教戦争」が起きないのか?現役僧侶のスピーチが深い

2015年05月05日 | 偉人(話題の人)


松山大耕さんは、僧侶の典型的なイメージを覆し、日本の禅宗の教えを広めるべく、世界中を飛び回っている。

実は今、日本の宗教観が世界で高く評価されているという。

異宗教を受け入れる難しさ

松山さんはお寺に生まれながら、中学・高校時代はカトリックの学校に通った。
そのことを大学時代に訪れた、アイルランドのB&Bで女将さんに話したところ、こう言われたそうだ。
なぜあなたの国では、そんなことができるの?
アイルランドでそんなことをしたら、殺されても文句言えないわよカトリックとプロテスタント、血で血を洗う対立の歴史を持つアイルランド。
いまも敬虔なカトリックが多いアイルランドでは、自分の信じる宗教以外に属する学校に通うのは、考えられないことのようだ。

世界でも珍しい、寛容な宗教観を持つ日本

多くの日本人は、クリスマスを祝い、除夜の鐘をつき、神社に初詣に行く。こうした複数の宗教を横断して信仰してしまう日本は、世界でも珍しい寛容な宗教観を持っている。
世界では宗教戦争が頻繁に起きている。しかし日本でそういったことがほとんどないのは、複数の宗教の信仰から、柔軟にいろいろなものを取り入れ、受け入れることができるからなのではないか。

日本とインドの仏教の違いは、カレーに似ている!?

こうした特徴は日本の仏教に独特のものだ。インドでは、戒律を守り、経典を学習し、瞑想の修行をすることが重視される。仏教発祥の地・インドから遠く離れた日本の仏教、もはや仏教ではなくなってしまったと言われることもある。しかし松山さんは、そうした意見に対してこう語る。
私は、日本とインドの仏教の違いというのは、実はカレーに似ているんじゃないかな、と思っています。
インドではこのように、非常にスパイシーで辛いカレーをみなさん召し上がります。
カレーもインドが発祥の地なんですけども、インドの方が、日本の私たちが食べ慣れている甘くてまろやかなカレー、好きな方たくさんいらっしゃると思いますが、あのカレーを召し上がったら、「これはカレーじゃない」と、こうおっしゃるかもしれません。
確かに調理法、具材は違うかもしれませんが、ルーにお肉やお魚、そして野菜を入れて煮込んでご飯もしくはパンと一緒にいただく。このスタイルはインドでも日本でも共通しています。
日本の仏教もインドの仏教も、根底にある哲学は同じということだ。

日本で宗教戦争が起きないたったひとつの理由

しかし海外では、根底が同じであるにも関わらず考え方の異なる宗派が対立し、信仰を巡ってたくさんの戦争が起きてしまっている。
確かに全ての宗教において、その教義に忠実である、守ること、それは非常に大事なことです。しかし世の中にはもっと大切なことがあります。
それは信じる宗教が違っていても、お互いを尊重し、そして仲良くするということです。日本では色々な宗教を信じている人がいますが、宗教が違うからといって、争いやもめごとといったことはほとんど起こりません。
私は世界でも冠たる宗教都市、ここ、京都から、日本人のもつ素晴らしい寛容性のある宗教観、これをぜひ世界に伝えたいと思います。
そうすれば世界はもっと素晴らしくて素敵な場所になると、私は強く信じております。
松山さんはローマ法王やダライ・ラマに会うなど、日本の寛容な宗教観を伝えるために、精力的に活動を続けている。日本のいろいろなものを受け入れることのできる寛容さこそが、宗教戦争の止まない世界に役立つのではないかと、世界的に期待が高まっているのだ。
お互いを尊重すること。そして仲良くするということ。松山さんの語る寛容の大切さに、深く考えさせられる。