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あみの3ブログ

鮫ケ尾城@新潟県妙高市宮内  令和2022)7月30日

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 鮫ヶ尾城跡は、上杉謙信の死去に伴う御館の乱(おたてのらん)(天正7年・1579)の際に、上杉景勝が上杉景虎を追い詰め、景虎を自害させた山城です。当時の城将として景虎方であった堀江宗親の名があり、江戸時代の歴史書には城に火が放たれたとの記述があります。

 鮫ヶ尾城は、遺構が造作された部分で約10万㎡、天険の要害を構成する自然地形まで含めると約22万㎡にも及ぶ越後国内屈指の大規模な山城です。尾根の主稜線に大規模な堀切や曲輪が並べられ、中心部を取り囲むように多くの切岸が存在します。山城の正面口(大手)は南側の尾根筋にあり、左右に屈折しながら進む登城道や城門が存在したとみられる虎口が確認できます。後世の土地開発によって大きく改変された場所はほとんどなく、当時の遺構がほぼ完全な形で保存されています。

 発掘調査では、トレンチ調査したすべての地点から被熱した遺物が出土し、戦火によって廃城になったことが裏付けられました。遺構や遺物の状況から、火事場整理を経て再利用された可能性がないと判断されたため、天正7年当時の姿を忠実に留めていると考えられます。16世紀後半の遺物が主体であったことから、武田信玄の北信濃への侵攻によって国境付近の軍事的緊張が高まり、鮫ヶ尾城の防備が強化されたと推測されます。

 鮫ヶ尾城は、川中島合戦を通して北信濃に勢力を拡大してきた武田信玄の動きに備えた上杉方の拠点山城の一つであり、謙信没後の跡目争いである御館の乱では、勝敗が決する重要な舞台となりました。城歴が比較的明らかなうえに遺構の残存状態が極めて良好であることから、越後の戦国史や信越国境に面した当地の歴史的重要性を雄弁に物語る貴重な文化財として保存整備されています。、、、妙高市HPより

県道85号線からの遠景



場所は新潟県妙高市宮内 字城山
上信越道「新井スマートIC」下車、国道18号線へ左折(上越方向)。「乙吉」交差点で左折し、すぐにまた左折し県道85号線に入る。2本目の橋を渡ると「斐太神社」案内看板がありますので左折、



住宅街のY字路を案内看板に従って左折すると右手に駐車場があります。



駐車場から100mほど先に「斐太歴史の里公園」入り口があります。



山頂の本丸へは北・南・東の3本の登城道が現存しています。
往路は県民休養地入り口付近から宮内池を回って東尾根から行く「東登城道」、復路は本丸から深い沢を越えていく「北登城道」を選択。
整備された周遊コースは麓の管理棟へと続いています。




鮫ヶ尾城跡の縄張り(全体構造)については、城域を大きく3地区に区分してその特徴を整理しています。

【北遺構群】 山頂部周辺を大規模に加工した山城の中心地区。尾根筋に広い曲輪が並べられ、その周囲を比高差の大きい堀切や切岸で取り囲んでいます。

【南遺構群】 山頂から南に延びる尾根を加工した地区。北遺構群と一体性や連続性があり、その接続部に明確な虎口が存在します。曲輪や切岸が、尾根の先端部まで自然地形をほとんど残すことなく造作されています。

【東遺構群】 山頂から東に長く延びる尾根を加工した地区。尾根が細く、尾根筋を断ち切る堀切はたくさんありますが、広い曲輪はほとんど造られていません。山城の遺構は尾根の中腹で途切れ、尾根の先端部までは到達していません。、、、妙高市HPより

縄張り図、、、現地説明板より





公園入口からすぐ左手にある「東登城道」入り口



淡水魚の池「宮内池」横を通って行くと



案内看板に従って緩やかな東尾根を登ります



案内看板から6〜7分で「大堀切6」に到達
いよいよ城の遺構が見えてきました



続いて「大堀切8」



東一の丸手前の空堀


同断面



「東一の丸」




東一の丸からの眺望




頂上(本丸)を目指し尾根を進みます



「堀切6」



ロープを使っての登り



三の丸・北登城道・本丸分岐



三の丸へは後程行くとして、上段の二の丸を目指しました
二の丸・本丸分岐


二の丸への通路




「二の丸」
発掘調査により、曲輪の中央に掘立建物が1棟存在し、その周辺に投石用の「つぶて石」集積されていたことが分かったそうです。
焼けた陶磁器片が散乱した状態で出土したことから、天正7年(1579)の御館の乱の戦火で落城し、そのまま廃城になったことが伺えます。、、、現地説明板より



二の丸土塁



二の丸・本丸分岐まで戻り
本丸直下の帯曲輪的な削平地を進みました


本丸下から米蔵曲輪下の北東斜面を取り囲むように造成されており、北登城道に至ります。



「堀切2」


この堀切は本丸と米蔵曲輪を分断しています





堀切の米蔵曲輪切岸に設けられた階段



「米蔵曲輪」





米蔵曲輪から見た本丸




一旦堀底に降りて、本丸切岸に設けられた階段から本丸に登ります

「本丸」
標高185mの山頂は眺望に優れ、日本海から信越国境の関田山脈までを一望することができます。山頂周辺の尾根筋に主要な郭や堀切が集中的に配置され、籠城するための空間として入念に整備されています。
御館の乱以後、火事場整理をして再利用した形跡がないことから、謙信時代の姿を忠実にとどめる山城として高く評価することができます。、、、現地説明板より





本丸からの眺望


遠く上越から日本海



東の方向には先ほど訪ねた鳥坂城のあたり


上杉景虎終焉の地 幟旗



ここから下に戻り三の丸を目指します
三の丸・北登城道・本丸分岐




「大堀切1」




「三の丸」
全国的にも珍しい炭化した握り飯が形を留めた状態で出土しました。(同)




三の丸土塁上から



三の丸より直下に見える井戸跡



「井戸跡」
現在でも満々と水をたたえています


大手道
井戸跡から虎口方向



「虎口」
両脇の虎口土塁と奥は枡形


内枡形


屈折した大手道




南登城道
無数の段郭が広がる南遺構群



もう一度分岐点に戻り
北登城道で帰路につきました。


途中で米蔵曲輪からの北登城道に合流



深い沢に整備された擬木階段を下ると突如現れたドーム



城址の山腹を貫通する
上信越自動車道路「観音寺平トンネル」のスノーシェルターでした




分岐から15分ほどで「斐太歴史の里公園」管理棟に帰り着きました。


公園の管理事務所を兼ねており、館内には休憩施設や売店、周辺の遺跡や季節の花がパネルで紹介されています。


売店のおばちゃんが、学芸員に変身(^^♪
説明してくれましたよ



ここには鮫ケ尾城跡で発掘、出土した遺物の一部が展示されています。
炭化した焼け米が興味を引きます。



御城印はこちらで買い求めることができます。
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天正6年(1578)「御館の乱」が勃発した際、鮫ケ尾城主堀江駿河守宗親は上杉三郎景虎に加担し、御館に兵一線を率いて入城した。御館は上杉景勝軍の攻撃により天正7年(1579)3月17日に落城。三郎景虎は小田原城へ脱出する登城に鮫ケ尾城に入城した。景勝は3月18日には鮫ケ尾城を包囲、城下に放火したうえで安田顕元を通じて堀江宗近の内通を誘った。3月22日堀江宗近は安田顕元に内通の上、二の丸の放火して鮫ケ尾城を出た。景勝軍は翌22に3日早朝まで攻め寄せ、二の丸まで占拠した。3月24日未明、景勝は総攻撃を命じ、三郎景虎は自刃し、鮫ケ尾城も落城した。

甲斐・越後の人質人生を経て、北条に切り捨てられた後は越後に骨をうずめる決意を固めたが三郎景虎だったが、家督争いを口実に謙信亡き後の越後を二分する家臣団の分裂。その犠牲となって僅か26歳で散ったイケメン武将・三郎景虎に合掌。、、、鮫ケ尾城二の丸にて



【鮫ケ尾城】
《さめがおじょう》

名称(別名);
所在地;新潟県妙高市宮内 字城山
城地種類;山城
標高/比高;187m/110m
築城年代;16世紀後半
廃城年代;御館の乱後天正7年(1579年)3月24日以降か?
築城者;
主な改修者;永正から天正年間に上杉(長尾)氏による北国街道防衛による整備・改修?
主な城主;堀江宗親
文化財区分;国指定史跡
主な遺構;土塁,郭,堀,井戸
近年の主な復元等;
地図;
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