射水市新湊博物館の25周年特別企画展に行ってきました。
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初めて知りましたが
室町幕府が一時、富山県射水市新湊において「放生津幕府」を開いたというのです。
銀閣寺を建てた8代将軍足利義政の甥である足利義材(よしき)が10代将軍になりましたが、応仁の乱以降の乱世の中、反対勢力である細川氏・伊勢氏が新たな将軍を立てようと後に「明応の政変」と呼ばれる反乱を起こしました。
義材は細川方に捉えられましたが脱出し、越中の放生津に逃れてきました。
そして5年間にわたって真正の将軍、正当の幕府を開いたというのです。
では、なぜ越中の放生津だったのでしょうか?
理由はいくつも考えられており
○義材政権の側についていた能登・越中の守護・畠山氏の領地であるなら安全
○越中の守護代・神保氏は日本海貿易や荘園の利権支配などで大きな経済力を持っていたので頼れる
○射水地域は室町幕府関係の武士や寺社の領地が多くあり、独自の経済基盤として期待していた
、、、など
義材派の役人ら70余名が越中入りし、室町幕府は京都と越中に分裂しました。これが契機となり戦国乱世激化となりました。
「海が支えた。。。」というのは、越中国射水郡・砺波郡の守護代・神保長誠(じんぼながのぶ)が日本海を往来する船の拠点だった放生津を支配し莫大な財力を誇っていたことで、京を追われた足利義材の財政的援助をして越中・放生津幕府の樹立の後押しをしたことに由来していることのようです。
その後も義材は地方の諸大名を頼り京都で二回目の将軍復帰を果たしますが、後押しする大名の離反などで再び京を追われ再起を図るなか阿波国で死去しました。
放生津幕府が置かれた辺りに建つ放生津八幡宮では足利義材が正当幕府の象徴として掲げた「御旗」を復元
※2020年新湊博物館にて許可を得て撮影
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また本年は放生津八幡宮の「築山行事(つきやまぎょうじ)」(国重要無形民俗文化財)において、足利義材が放生津城主・神保長誠の息災を祈願する場面が再現されました。
※北日本新聞紙面より
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放生津城跡周辺の内川に架かる橋には将軍・足利義材のモニュメントが飾られています。
騎馬像
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座像
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欄干にも透かし彫りのモニュメント
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万葉線アイトラム
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【海が支えた放生津幕府・特別展】
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令和5年9月22日より11月26日
9:00~17:00
定休:火曜、11月6,24日
入場料:一般310円(シニア割、JAF割あり)
地図: