山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

ふるさとの蟹の鋏の赤いこと

2011-08-15 23:49:53 | 文化・芸術
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―四方のたより― えっ、朝刊休み?

今日は終戦記念日だが、新聞大手五紙は休刊となっている。
はて、こんなことはこれまでにあったのだろうか? どうも記憶がないが‥、初めてじゃないのかしらん、とすると少々問題だろう、なにも今日でなくとも、8日でも22日でもよかったのじゃないか。

昨日早朝から、単身、車で出かけた。京都東から湖西道路を走り、敦賀へと抜け、越前海岸を北上、越前岬の少し向こうまで。復路は、敦賀から若狭へと足を伸ばし、三方五湖を廻り、鯖街道を走り、湖西道路は渋滞とみて、琵琶湖大橋を渡って、栗東から名神に上がった。Uターンラッシュで名神の渋滞を観念していたが、案に相違、スムーズに流れて、午後8時半ほどに帰着できたのは幸い。延べ500㎞余りの行程で、おまけに前夜は寝不足だったから、途上、睡魔に襲われては小休止を繰り返したものだった。
と、日帰りの強行軍といった次第だったから、もうヘロヘロだった。とうとう今朝まで起き上がれなかったので、昨日は言挙げできず。異例だが、山頭火の日記も昨日と今日、二日分を掲載しておく。

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Photo/三方五湖を望む-‘110814

今日、15日付の、山頭火の日記では、川棚での一向にはかどらない造庵の件に業を煮やしたか、絶叫にもひとしい自棄気味の詞を連ねている。
「やつぱりムリがあるのだ、そのムリをとりのぞけば壊滅だ、あゝ、ムリか、ムリか、そのムリは私のすべてをつらぬいてながれてゐるのだ、造庵がムリなのぢやない、生存そのものがムリなのだ。」
私のひとり語りでも、この詞を挿入しているが、ご覧になった方にはご記憶があるかもしれない。


―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-217

8月14日、朝から墨をすつて大筆をふりまはす、何といふまづい字だらう、まづいのはいい、何といふいやしい字だらう。
うれしいこころがしづむ、晴れて曇る!

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-218

8月15日、何といふ苦しい立場だらう、仏に対して、友に対して、私自身に対して。
やつぱりムリがあるのだ、そのムリをとりのぞけば壊滅だ、あゝ、ムリか、ムリか、そのムリは私のすべてをつらぬいてながれてゐるのだ、造庵がムリなのぢやない、生存そのものがムリなのだ。
茗荷の子を食べる、かなしいうまさだつた。

※この両日句作なし、表題句は8月4日の句。

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Photo/北の旅-2000㎞から―釧路湿原-’11.07.26


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夏草ふかく自動車乗りすてゝある夕陽

2011-08-13 23:50:00 | 文化・芸術
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―四方のたより― 闘病、この残酷なるもの

妹の亭主殿、ようするに義弟だが、今年64歳の彼が、昨年11月末頃に肺癌を発症した。健康診断のレントゲンでひっかかり、精密検査をしたところ判明したわけだが、それより以前のほぼ2年間、彼は糖尿病の新薬であるDU-176bの治験をしていたという。見つかった癌の診断は小細胞型ですでに最悪のステージ4だった。

以後、今年の6月までに、抗癌剤の治療をほぼ毎月のように6回受け、7月になって今度は脳への転移-脳腫瘍-が見つかった。時に歩行バランスが取れなくなったりして、ある日突然倒れ込むような発作が起こって、緊急入院した所為で判明したのだった。彼にとっては最初の衝撃からさらに加えて第二の衝撃に見舞われたわけだが、入院直後に訪ねた時の彼の様子たるや、正視するに耐えぬものがあった。

その後、一週間ほどのあいだか、脳部には放射線治療が施され、肺癌にはまた抗癌剤治療が施されたという。
それらの治療が功を奏したか、一応の小康状態を得て、一週間ほど前から退院して自宅療養していると聞いたので、今夕、久しぶりに見舞いに行ってみた。

元々、身長185㎝ほど、体重は90㎏を越す巨躯の持ち主であったが、それが60㎏余りにまで痩せて、腕も脚もこそげるように筋肉が落ち、関節裏は皺だらけになってしまっている。ところが本人はいたって元気そうに振る舞っており、いつになく饒舌すぎるほどによく喋るのである。妹と一人娘の二人を相手に、お互い歯に衣着せぬ悪態をつきあっているのだ。

私は、この様子を見ながら、痛烈に思い到ったのだった-闘病というものの苛酷さ、残酷さに‥。
突然降りかかった最初の衝撃、手術のすべもない、もはや抗癌剤治療しか手段のない手遅れという事態に、遅かれ早かれ否応もなく死と直面せざるをえないその事態に、彼の心はうち萎れていたはずだ。

ところが巨漢ゆえに体力は人並み以上に恵まれていたか、過度に負担のかかる度重なる抗癌剤治療にもよく耐え得てきたのだろう。だからこそか、そして第二の衝撃、追い打ちをかけるように脳への転移が襲いかかった。これはもう絶望以外のなにものでもない。神は我を見捨てたもう、だったろう。だから、彼はいま、開き直っている。死はすでに約束されている。ならば生きられるだけを、生ききるしかない、そうはっきりと思い知ったのだろう。それが病者と介抱者たち、家族三人の、悪態にも似た言いたい放題ぶりの姿なのだ。
そして、これが闘病というもの、その本質なのだ。

彼は、この23日、またも抗癌剤治療のため一週間ほどの入院をする、という。これで8回目か9回目の投与となる筈だが‥、この是非についても熟慮が必要だろう。

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―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-216

8月13日、空晴れ心晴れる、すべてが気持一つだ。
其中庵は建つ、-だが-私はやつぱり苦しい、苦しい、こんなに苦しんでも其中庵を建てたいのか、建てなければならないのか。―

※表題句の外、句作なし。

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Photo/北の旅-2000㎞から―ノロッコ号の走る釧路湿原の駅-’11.07.25


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ふるさとの水だ腹いつぱい

2011-08-12 23:54:34 | 文化・芸術
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―四方のたより― KAORUKO紙芝居板「北の旅」最終篇

 「六日目 七月二九日」

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 宿のすぐそばに黒岳ロープウェイの乗り場があります。私たちもロープウェイに乗って、山に行き景色を見たり散歩をしました。
 層雲峡から旭川の旭山動物園までは一時間くらいで行きました。動物園は人、人、人がいっぱいそれにとても暑かったけれどお母さんと一緒に、ペンギン、アザラシ、レッサーパンダ、チーター、キリンなどいっぱい見てまわりました。ここでは「もぐもぐタイム」といって、いろんな動物のエサやりを見せてくれるのですが、その時はどこも人がいっぱいで、並んで待つのが大変でした。お父さんは「暑さにダウン」といって、途中から車の中で休んでいました。
動物園のそばにある中華のお店で昼食をとって、それからは小樽をめざしてまっしぐらです。高速の道央道に入ると、スピードもどんどん上がります。四時前にはホテルにチェックインして、すぐ市内見物に出かけました。ちょうど「小樽がらす市」というのがあって、いろんなガラスのお店が並んでいました。私はあるお店でマグネット作りを体験しました。四センチの四角のガラス板に、色とりどりの小さな丸いのや三角のガラス玉を自由に並べてもようを作るのですが、材料がいっぱいあって、あれかこれか迷っては、なかなか形が決まりません。おもしろいけれど意外とむずかしいものです。
それから町を歩いて、いくつかお店を見てまわりましたが、ホテルの夕食の時間が迫ってきて、ゆっくりできなかったのはちょっと残念でした。

「七日目 七月三〇日」

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朝早く起きたお父さんは、ひとり車で出かけ、小樽運河などを見てきたそうです。
お母さんと私は八時過ぎに起きましたが、そのときにはもうお父さんは帰りのしたくをしていました。朝のバイキングをしっかりと食べて、ホテルを出たのは九時過ぎでした。
車は昨日通ってきた道央道を引き返します。飛行機の時間のこともあって、今日はどこへも立ち寄れません。車を返して空港に着いてから、お母さんといっしょに、いろんなお店を歩きながら、おみやげやお弁当を買いました。
飛行機は長いかっ走路を走って、勢いよく空へ飛び立ちました。高い空の飛行機の窓から北海道の景色が見えます。心の中で私は「さよなら」とお別れを言いました。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-215

8月12日、曇、よいおしめりではあつた。
今朝の湯壺もよかつた、しづかで、あつくて、どんどん湯が流れて溢れてゐた、その中へ飛び込む、手足を伸ばす、これこそ、優遊自適だつた。
緑平老から返信、それは珍品をもたらしたのである。
早速、小串町まで出かけて買物をする、両手にさげるほどの買物だ、曰く本、曰く線香、曰く下駄、曰く何、等、等、等。
南無緑平老菩薩! 十万三世一切仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。

※この日句作なし、表題句は8月4日の句。

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Photo/小串の駅舎-小串町は昭和31年豊浦町に編入された

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Photo/机に盆の花-ぽんぽん菊

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朝焼すゞしいラヂオ体操がはじまりました

2011-08-11 22:13:57 | 文化・芸術
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―四方のたより― KAORUKO紙芝居板「北の旅」その3

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 「四日目 七月二七日」 
 宿を出たのは八時。曲がりくねった峠を越えると、屈斜路湖が見えてきました。湖を左に見ながらしばらく走って、摩周湖の展望台に着きました。摩周湖は不思議な湖です。水面がちっとも波立たないで、静かに空の雲を映していて、湖を見ているのか、空を見ているのか、わからなくなります。
 神秘の湖にサヨナラして、次に向かったのは野付半島です。一時間あまり走っていると、前の方に青い海がどんどん広がってきました。お父さんが「オホーツク海だ」と言いました。どこまでも長くつづく野付半島は、砂しでできているそうです。砂しというのは、海から運ばれた砂や土が、何万年もかけてたまってできた、鳥のくちばしのような形の砂地です。
半島の途中にあるレストランで食事をしてから、いよいよ知床半島に向かいます。急にお父さんが眠たくなって、運転をお母さんと代わりました。海に沿って走りつづけ、羅臼に着いたところで、眠気の取れたお父さんがまた運転をしました。
 知床峠で見た羅臼岳は、山の頂上に雲が少しかかってはっきり見えませんでした。峠を越えて、今度は半島の奥へ奥へと進みます。細い山道をどんどん行くと、とうとう行き止まりになりました。そこがカムイワッカの滝でした。裸足になって、お母さんといっしょに、温かいお湯が流れる滝をそろりそろりと登って行きました。すると滝つぼのように広くなったところに出ましたが、そこでは泳いだりして遊んでいる人が何人もいました。
 今度は道を引き返して、知床五湖へ行きました。鹿を何度も見かけました。小さな子鹿がおいしそうに草を食べていました。親子づれの鹿も見かけましたが、見つけるたびワクワクドキドキしました。
そのあと宿の岩尾別温泉に行きましたが、それは知床五湖からすぐのところでした。

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 「五日目 七月二八日」
 遊覧船で半島めぐりをしようと、朝早くから出発して、ウトロの港に行きました。黄色い救命具を着て、小さい船に乗りました。めずらしい岩や小さな滝を見ながら、船はカムイワッカの滝のところまで行って、もどってきました。
 それから海にそって北へ北へと走り、網走まで行き、監獄博物館を見学しました。たくさんのマネキンで監獄の様子を表わしているのが、とても気持ち悪かったです。
 お昼は能取湖のレイクサイドパークで食べ、それからまた北に向かって走り、サロマ湖の展望台に上がりました。広いサロマ湖のその向こうにオホーツク海が広がって、水平線が見えました。
 今度は西へ西へと走ります。山と山の間を通りぬけ、長くてけわしい峠を越えると、そこは二つの大きな滝がある層雲峡でした。勢いよくまっすぐに落ちる流星の滝、途中で岩にさえぎられて「く」の字に曲がって落ちてくるのが銀河の滝です。
 そこから宿の朝陽亭まではすぐでした。夕食のあと、ロビーで花火を見て、それからビンゴゲーム大会に、私たちも参加して楽しみました。


―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-214

8月11日、コドモ朝起会の掃除日ださうで、まだ明けきらないうちから騒々しい、やがてラヂオ体操がはじまる、いやはや賑やかな事であります。
何となく穏やかならぬ天候である、颱風来の警報もうなづかれる、だが其中庵は大丈夫だよ。
若い蟷螂が頭にとまつた、カマキリ、カマキリ、ウラワカイカマキリに一句デヂケートしようか。
宿のおばさんが「あかざ」の葉をむしてゐる、あかざとはめづらしい、そのおひたし一皿いただきたい。
今日此頃は水瓜シーズンだ、川棚水瓜は名物で、名物だけの美味をもつてゐるさうだが-私は水瓜だけでなく、あまり水菓子を食べないから、その味はひが解らない-。
1貫12銭、肥料代がとれないといふ、現代は自然的産物が安すぎる。
刈萱を活けた、何といふ刈萱のよろしさ!
今日は暑かつた、吹く風が暑かつた、しかし、どんなに暑くても私は夏の礼讃者だ、浴衣一枚、裸体と裸体のしたしさは夏が、夏のみが与へる恩恵だ。

※表題句の外、1句を記す。

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Photo/北の旅-2000㎞から―TV「北の国から」の五の石の家-’11.07.25


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去る音の夜がふかい

2011-08-10 23:55:30 | 文化・芸術
Santouka081130090

―四方のたより― KAORUKO紙芝居板「北の旅」その2

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「二日目 七月二五日
 朝食の後、すぐに出発して、一時間くらい走ったら、支笏湖のそばにある苔の洞門に着きました。苔だらけの大きな岩がいっぱいでびっくりしました。案内のおじさんが三人の写真を撮ってくれました。
それから湖のそばを走って、峠の山道を越えて、札幌へ向かいました。時計台に着いたのはもう十二時ごろでした。平日なのに観光の人が次々と来ていました。私たちは時計台のそばのお店に入って昼食にしました。私はまたマグロとサーモンのお寿司を食べました。
それからまた車で移動です。二時間あまりかかって、やっと富良野に着きました。
ファーム富田に行って、広いお花畑の中を歩きました。紫、黄、赤、白、いろんな花がいっぱい咲いていました。
それから五郎の家にも行きました。富良野演劇工場にも寄ってみました。宿のノースカントリーに着いたのは六時半ごろでした。

H20110726
「三日目 七月二六日」
 富良野の宿を出たのは八時。今日のはじめの目的地は釧路湿原で、その距離は二七〇㎞もあります。高速の道東道を走りましたが、十勝平野は見わたすかぎり緑の畑と牧草地で、建物が一つも見えませんでした。
 やっと釧路湿原駅に着いたのは、もう十二時をすぎていました。車を降りて森の小道を歩くと、アブやヤブカの虫が次から次とおそってきて、はらいのけるのに大変でした。
今度は湿原の道路を走って、丘の上の展望台の方へ行きました。湿原というのは、草原が広がっている湿ったところだそうです。釧路湿原は、ものすごく広くて、展望台から見てもずっと草原がつづいていました。その後下のレストランでやっとお昼を食べました。
 それからまた車で走って阿寒湖に行きました。阿寒湖では、白鳥の足こぎボートに乗りました。お母さんと一緒でしたが、三十分こぎつづけるのは、とてもしんどかったです。でもすごく楽しかった!
 そしてまたどんどん車を走らせて、奥屈斜路温泉の森つべつの宿に着いたのは六時ごろでした。ランプの宿という名がついていて、そのロビーは、いろんな電灯で、とてもやさしいふんいきでした。

―山頭火の一句― 行乞記再び-昭和7年-213

8月10日、晴れて、さらさら風がふく、夏から秋へ、それは敏感なルンペンの最も早く最も強く感じるところだ。
昨日今日、明日も徴兵検査で、近接の村落から壮丁が多数やつて来てゐる、朝湯などは満員で、とてもはいれなかつた。
妙青寺の山門には「小倉連隊徴兵署」といふ大きな木札がかけてある、そこは老松の涼しいところ、不許葷酒入山門といふ石標の立つところ、石段を昇降する若人に対して、感謝と尊敬とを捧げる。-略-
Sからの手紙は私を不快にした、それが不純なものでないことは、少なくとも彼女の心に悪意のない事はよく解つてゐるけれど、読んで愉快ではなかつた、男の心は女には、殊に彼女のやうな女には酌み取れないらしい、是非もないといへばそれまでだけれど、何となく寂しく悲しくなる。
それやこれやで、野を歩きまはつた、歩きまはつてゐるうちに気持が軽くなつた、桔梗一株を見つけて折つて戻つた、花こそいい迷惑だつた!
夕の散歩をする、狭い街はどこも青年の群だ、老人の侵入を許さなかつた。
真夜中、妙な男に敲き起された、バクチにまけたとか何とかいって泊めてくれといふ、無論、宿では泊めなかった、その時の一句が前記の最後の句-表題句-である。

※表題句の外、3句を記す。

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Photo/北の旅-2000㎞から―中富良野町の富田フアーム-’11.07.25


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