日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

具足山妙覺寺(京都市上京区下清蔵口町)

2018-03-29 22:46:38 | 旅行
京都8ケ本山を巡る旅、トリは妙覺寺です。

↑具足山妙顕寺・・・


↑具足山立本寺とともに、三具足山を形成するのが、具足山妙覺寺です。


南北朝時代の終わり頃に、妙顕寺から枝分かれしたようです。
妙顕寺の系譜は開山日像上人、二祖大覚妙実上人、三祖朗源上人と続きますが、朗源上人が遷化されたのち、四世の選考を巡って日実上人と日成上人の兄弟が妙顕寺を離れることになります。
そして篤信者であった小野妙覺尼の外護のもと、永和4(1378)年、兄弟は四条大宮の地に妙覺寺を開創しました。
兄の日実上人は、開創を見届けると備前に下り、当地で遷化されます。
一方、弟の日成上人は自門の信仰指針として「妙覺寺方式」を制定、不受不施制を意識したスタイルで、妙顕寺とは一線を画したようです。
後年、妙覺寺が不受不施派の祖・日奥上人を輩出した源流は、このあたりにあるのかもしれませんね。


山門です。
祖師堂まで遮る建物がないため、遠近感と相まってグっとくる画像です。


山門には足下に太い横柱が渡されています。
境内に入るには必ず一回、立ち止まらなくてはなりませんし、信心ある方はここで合掌することでしょう。


祖師堂です。
三具足山とも屋根の偉容が見事です~!
この日は祖師堂内で、狩野派の画家が手がけた大涅槃図が公開されていました。
実は妙覺寺は狩野一族の菩提寺なのだそうです。


境内に、天文法難の殉教碑がありました。
今回訪問したいずれの日蓮宗寺院も、南北朝~室町時代に苦労して開山し、法華経布教の拠点として発展しはじめた頃に、天文法難に遭っています。
仏教宗派間の衝突ですが、比叡山のような大きなお寺は昔は沢山の「僧兵」を抱えていたそうで、それこそ武装集団に徹底的にやられ、数千~一万人の法華信者が殺されたといいます。

お釈迦様の教え、じゃないですよね・・・。もう二度とこういった紛争が起きないことを祈ります。


ちょっと驚いたんですが、戦国武将・斉藤道三は幼い頃、ここ妙覺寺で得度したそうで、もとはお坊さんだったみたいです。
のちに油商人から武将になったわけですから、文字通り下克上大名ですよね!


道三の息子さんがやはり僧侶で、妙覺寺19世だったことから、あの織田信長が宿として使ったそうです。
信長の京都の宿、といえば本能寺を連想しますが、実は妙覺寺の方が6倍も宿泊数が多かったそうで、タイミングさえ違っていたら「敵は妙覺寺にあり!」となっていたのかもしれないと、学生ボランティアのお兄ちゃんが言っていました!


個人的に興味をそそられたのは
「高祖親刻華芳塔奉安」の文字!
お祖師様が彫られた・・・華芳塔、かほうとう・・・?


本堂の裏側に、その華芳塔(かほうとう)はありました。↑ のお堂に安置されています。
このお堂の中に、それはそれは見事な彫刻が施された、う~ん、2m位?の高さの宝塔があり、さらにその内側に・・・ありました!

お祖師様が比叡山時代、書写した法華経を石塔に納めて密かに立教開宗を祈ったそうですが、その石塔は信長の比叡山焼き討ちで行方不明になってしまっていました。
のちに山本さんという方が焼けただれた石塔を土の中から掘り出し、妙覺寺に奉納したそうです。

石塔のカタチは・・・おっきなキノコみたいで、表面は焼けた感じがわかりました。
もちろん法華経は既に焼失してしまっているそうですが、お祖師様が遺した実物を目にすることができて嬉しかったです。


妙覺寺にはこの他にも、静岡・本覚寺開山の日位上人のお祖母様に宛てて日蓮聖人が書いた「盂蘭盆御書」や、鎌倉・光則寺の土牢に幽閉された弟子宛に日蓮聖人が書いた「五人土籠御書」など、僕が今まで訪ねたご霊跡にゆかりのご真筆が格護されているそうです。

かけがえのない宗宝を護ってゆくのは責任の重い仕事です。感謝の気持ちも込めて合掌し、お寺をあとにしました。

広布山本満寺(京都市上京区鶴山町)

2018-03-29 08:34:00 | 旅行
京都・鴨川  今日もアベック達で大盛況です!
この少し上流に、身延山中興の名僧を、何人も輩出したお寺があります。


本山・本満寺です。
注連縄が張られた黒門。重みを感じさせます。


京都御所からほど近い場所でもあり、落ち着いた町並みです。
向かいの地名は「本満寺前町」というそうです。


本堂です。
もともとこの場所から1kmくらい西に行ったあたりに本満寺はあったそうですが、天文法難を境に、この場所に移転しました。



山号は「広布山」です。正式には「広宣流布山」というそうです。
法華経の薬王菩薩本事品第二十三に「広宣流布」という言葉がありますし、毎朝のお勤めの時に読む回向文で「末法万年広宣流布」という部分があるので、馴染みがあります。
宗門でもとても大切にしている言葉なのだと思います。


本満寺は、公家として有名な近衛家の方が開きました。
南北朝時代の天皇にお仕えした方(関白)の息子さんで、日秀上人という方です。
普通、公家なんかだと嫡子以外の方が出家する、というのはよく聞きますが、日秀上人は嫡子だそうです。
以来、近衛家の外護もあり、お寺は発展してきました。
天皇家の勅願寺、あるいは徳川家の祈願所ともなったそうです。


優秀なお坊さんも沢山、このお寺で修行したようです。
僕も名前を知っている「重・乾・遠」つまり身延山中興の三師といわれる日重(本満寺12世)、日乾(同13世)、日遠(同14世)はみな本満寺の出身なのだそうです。

特に12世日重上人は、天文法難後の混乱期を必死で耐え、本満寺の再興に尽力したと言われています。


13世日乾上人は、ウチの菩提寺にもご尊像がお祀りしてあり、馴染みのあるお名前です。
本満寺の妙見宮にお祀りされている妙見大菩薩は、日乾上人が開いた能勢の妙見様にお祀りされている妙見大菩薩と同体だそうですよ!


また14世日遠上人は、七面山でなんと千日(!)の行をして七面大明神を感得し、↑のお堂にお祀りしたそうです。


見事な枝垂れ桜!訪問時は開花前でしたが、ブログを書いている今日あたりはすでに満開を過ぎたようです。


実はこのお寺にはもう一種類、たくさん蕾をつけている植物がありました。


牡丹(ボタン)です。
近衛家の家紋が牡丹だそうで、実は牡丹の方がシンボルフラワーなのかもしれません。

ウチの近所にも毎年牡丹が咲くお宅がありますが、確かGWあたりが見頃だったような・・・。また来てみたいな~。

叡昌山本法寺(京都市上京区本法寺前町)

2018-03-26 18:51:15 | 旅行
日親上人のお寺「本法寺」を訪問しました!

周辺には表千家や裏千家の宗家があり、茶道資料館や茶道用品店などが軒を連ねます。


仁王門を見つけました!ここが正式な入り口だと思います。


山号は「叡昌山」です。


阿行と


吽行。
本法寺を護っています。


摩利支天がお祀りされているんですね!


この碑は、動悸や息切れの薬「六神丸」を作ってる薬屋さんが、奉納しているようです。


摩利支天堂です。
摩利支天といえばイノシシですよね!
摩利支天は小さくて、しかもイノシシで移動するから姿が見えず、傷つきにくいということから、戦国武将にも信仰された神様です。
僕の身近な小田原城の天守にもお祀りされています。


おお~!裏千家の!


本堂です。
江戸時代に大火で燃えてしまい、再建されたものですが、それでも200年以上!


多宝塔です。
法華経にも多宝如来の塔、出てきますよね!この塔にも多宝如来と釈迦如来が安置されているそうです。


扁額は本阿弥光悦によるものです。
本阿弥光悦は、池上本門寺や中山法華経寺など多くの宗門寺院の扁額を手がけていますよね!
実は本法寺は本阿弥家の菩提寺なのだそうです。


本阿弥光悦の曾祖父である本阿弥清信公が、「鍋かむり日親」の通称で知られる日親上人を開祖に招いて創建しました。


本阿弥家は代々、刀剣業で室町幕府に仕えていましたが、本阿弥清信公が足利義教の怒りに触れて、投獄されてしまいました。


一方、日親上人は日蓮聖人と同じように「世の乱れは法華経を信じないから」と繰り返し幕府に諫暁をした結果、やはり投獄されてしまいました。

日親上人へ加えられた拷問についての記述は、多くのお寺で目にしたことがありますが、あまりに凄惨なのでここでは触れないことにします。


そんな二人は獄中で出会ったそうです。そして本阿弥清信は日親上人に深く帰依し、赦免後に本法寺を創建しました。


本阿弥家の菩提寺らしく、寺内の庭園はとても素晴らしいです。
本阿弥光悦は父の光二とともに伽藍や庭園の整備に尽力したそうです。


貴人をお迎えする門なのでしょうか、特別に誂えてあります。


柵で囲まれているのが、日親上人の説法石です。
日親上人は一条堀川の戻り橋(市バスの停留所に「一条戻橋」って今もありました!)で辻説法をさかんに行ったそうです。
その際、日親上人が傘を立てるのに使った石みたいですよ!
しかし旧字の「法」は字の中に「鹿」がいるんですね。知りませんでした!


日親上人は、頑なにお祖師様の教えを守ろうとするあまり、他宗を激しく攻撃し、多くの迫害を受けてきました。
また宗門内でも、千葉氏と対立したのが発端で、中山門流を破門されているそうです。


一方でその姿は、信徒達にとってひとつのカリスマとなり、亡くなった後も篤い「日親信仰」は続いているようです。


純粋すぎる法華行者が開創したお寺が、法華信仰を軸とした大芸術家により発展する・・・。

ひとつの理想型を、このお寺に見たような気がしました。末永く、維持されてゆく事を祈念します。

法鏡山妙傳寺(京都市左京区北門前町)

2018-03-22 22:57:19 | 旅行
最近、ご霊跡巡りの参考書として、汎用させて頂いているこの書
望月真澄先生著「身延山参詣道を歩く」(せいしん刊)には、特に江戸時代の各地の法華信徒が、いかにして身延山を参詣していたかが詳細に記されています。


例えば江戸の武家女性は、行きに11日要し、身延に9日間滞在したあと、帰りに12日の合計32日の長旅でした。
また、伊予西条松平家の参詣は、伊予→身延→江戸の行程に50日ほどかかっています。


行こうと思えば数時間で身延山に着いてしまう現代の感覚では、およそ計り知ることができないくらい「身延山参詣」はハードルが高かったと思われます。


(↑ 画像は「東身延」鎌倉・本覚寺)
そのため、先師たちはお祖師様のご真骨を、遠く離れた地に少しずつ分けてお祀りしました。
信徒たちはその場所を身延山に見立てて参詣したのです。

鎌倉・本覚寺のほか、茂原・藻原寺や能勢・真如寺なども「~身延」をうたっています。


今回は「関西身延」京都の妙傳寺を訪問しました。


東大路と二条通りが交差する、交通量の多い交差点に面しています。


お祖師様のご尊像が交差点に向かって立っています。
まるで辻説法しているような配置です。


右手にお数珠、左手にお経を持っています。
顎やのど元に力が入っています!


山門です。
周囲の堂宇の屋根とのコントラストが美しい!


妙傳寺は室町時代の僧・日意上人が開いたお寺で、日蓮宗本山です。


本堂です。
道路が迫っているので、僕のカメラでは塀の外からしか全体像が写せませんっ!


ここに「高祖舎利」の扁額が掛かっていたので、ご真骨堂と思われます。
ここにご真骨がお祀りされていると思うと、確かに御廟にいる気持ちでお経が唱えられます。


天台僧だった日意上人は比叡山で学頭まで務められた、いわゆる「天才」だったようです。
常々天台宗に疑問を持っていた日意上人は、ある夜、当時の身延山の法主・日朝上人の夢を見ました。


これは何かのお告げだろうと、日意上人は急いで身延山に向かい、日朝上人に拝謁しました。
二人は三日三晩、法論を交わした結果、ついに日意上人の疑問は解け、日朝上人のお弟子さんになりました。


日意上人が京都にお寺を開くに際し、身延から遠い京都の地でもご真骨を拝めるよう、妙傳寺に分骨したそうです。
日意上人はのちに身延山12世法主になりました。
日朝(11世)日意(12世)日伝(13世)は「身延山中興の三師」と呼ばれているそうです。
その後の世代にも重・乾・遠が存在しますが、どちらも「中興の三師」なのでしょう。


妙傳寺の創建は、応仁の乱が終結した1477年です。
政情不安で法華経に信仰を求める人々の拠り所になったのでしょう。


しかしやはり京都の法華寺院、天文法難や火災などの苦難に直面し、何度も移転しながら現在の場所に落ち着いたようです。


京都のお寺らしく、歌舞伎の片岡家のお墓があります。
日蓮宗には文化・芸術界の檀信徒さんが多いですね!


そうそう、妙傳寺の掲示板にこんなポスターが!
お寺で落語会、やるそうですよ!
月亭方正さんは立正大学卒のようです。
どんな噺をするのかな?気になります!!

具足山妙顕寺(京都市上京区妙顕寺前町)

2018-03-22 22:42:51 | 旅行
日本仏教の歴史を見てみると、仏教が日本に伝来したのは6世紀はじめ、飛鳥時代の頃ですが、当初は権力層が信仰する宗教だったようです。

仏教が庶民に浸透し始めるのは、都が京都に移された平安時代以降だったと言われています。

まず、多くの日本仏教の源流となった天台宗、高野山の真言宗が、権力からの自立を図りました。
鎌倉時代になると天台宗比叡山から派生した浄土宗、臨済宗、浄土真宗、曹洞宗などが民衆の間に広まりました。

お祖師様が清澄でお題目を唱え立教開宗したのは、これらよりも後で、当時はいち「新興宗教」に過ぎなかったはずです。


(↑ 画像は鎌倉・小町大路の辻説法跡)
当時の武家政治の中心、鎌倉で日蓮聖人は布教に奮闘し、徐々に弟子信徒を増やしていきましたが、それでもやはり「新興宗教」だったのでしょう。

新興宗教のレッテルを外し、天下公認の仏教としてやっていくためには、天皇が国のために祈願をするお寺「勅願寺」を作ること、そのためには当時天皇が暮らしていた京都で実績を作ることが必須でした。
若い頃に京都にも遊学していた日蓮聖人は、それを痛いほど感じていたのでしょう。


(↑ 画像は池上・大坊本行寺の御臨終の間)
弘安5(1282)年10月11日、日蓮聖人は孫弟子の経一丸を枕元に呼び、帝都(京都)弘通を遺言されました。
その2日後、日蓮聖人はご入滅されました。


経一丸はのちに日像上人となり、大変な苦労を重ね、元享元(1321)年、京都に初めて開いたお寺が大本山妙顕寺です。
西日本で最初の法華寺院でもあります。


妙顕寺は建武元(1334)年に勅願寺として認められました。
まさに日蓮聖人の悲願が果たされたお寺であり、信徒である僕も特別な想いで山門をくぐらせて頂きました。


境内は奥に広くなっています。


境内を囲むように9つの塔頭寺院が並んでいます。


正面に本堂。息を飲むような圧倒的な存在感です。
あとで本堂内で巨大な金丸(ゴォ~ンてやつ)を使ってお勤めさせて頂きました!


扁額には「四海唱導」の文字。
世界中のあらゆる人々を法華経の教えに導き、その功徳により人々を救う、という意味だそうです。


このお寺で特に神聖な場所である三菩薩堂を参拝。
日蓮聖人、日朗上人、日像上人がお祀りされています。


扁額には「鍾真窟」


三菩薩堂の背後にご真骨堂がありました。
「鍾真窟」の「鍾」はこのお堂の形を表現しているのかな?


鬼子母神堂です。
このお堂だって普通のお寺の本堂くらいあります。


目立たないけどこんな石塔がありましたよ!
「基本金 金参百圓 宮内省」
宮内省は昭和24年まで存在した宮内庁の前身なので、結構昔の300円、相当な額の寄付があったと思われます。


ご首題をお願いしている間に拝観させて頂きました。
客殿を囲んで3つの見事な庭園があります。
当日は快晴・ポカポカ陽気で、しばらく縁側で景色に魅入っていました。
他の拝観者の方もいましたが、みんな静かに庭園を楽しんでいるようでした!


四海唱導の庭には勅使門があります。
貴人を客殿にお迎えするときだけ使う門のようで、菊の御紋が付いています。


庭師の方々が丁寧な仕事をされていました。苔に水をやっているんですね!
ご苦労様です!


光琳曲水の庭です。
江戸時代の大芸術家、尾形光琳は妙顕寺のお檀家さんだったようで、この庭は光琳の絵図をイメージしているそうです。


孟宗竹の壺庭です。
ネスカフェのCMに使われたこともあるそうです。そう言われれば見たことあるような・・・


方丈に戻ると、ご首題が出来上がっていました。
噂には聞いていましたが、波ゆり題目、想像以上に揺れています。


(↑ 画像は鎌倉の海岸)
日蓮聖人に帝都弘通を遺命された経一丸は日像に名を改め、師匠の日朗上人のもとで修行を積みました。
25才の時、冬の鎌倉・由比ヶ浜で、海水に浸かりながら、毎夜百巻の自我偈を誦する修行を自分に課し、百日間ぶっ通しで続けました。
修行の最終日、海面にお題目を描くと、お題目の文字が金色に浮き上がり、波に揺れるように漂ったと言われています。

妙顕寺のご首題はその特徴を継承しているようです。


修行を終えた日像上人は、越後から北陸を通って上洛しました。
その途次でも多くのお寺や人々を教化し、信仰の拠点を作っていきました。


京都での布教は本当に苦しい闘いだったと思われます。
それこそ日蓮聖人が鎌倉で辻説法し始めた時と同じ状況、四面楚歌の中で声をあげたのです。


日像上人が上洛したのが永仁2(1294)年、後醍醐天皇に寺領を賜ったのが元享元(1321)年ですから、実に27年もの間、地道な闘いを続けたわけです。
この27年の間、他宗からの迫害も多かったようです。三回も京都から追放されています。


賜った寺領は「御溝(みかわみぞ)傍今小路」という場所でした。
鎌倉時代の京都の地図を見ても場所が特定できませんが、大内裏の周囲を取り巻くように流れている細い川が「御溝水」と書かれていることから、いわゆる皇居に隣接している治安の良いところに、初めの寺領を賜ったと思われます。


そして妙顕寺建立からさらに13年後、妙顕寺を勅願寺と認める綸旨が下り、日蓮聖人の教えは天下公認のものとなりました。
「綸旨」(りんじ)って普段使わない言葉ですが、天皇が仰った命令を、お仕えする役人が紙に書いた公文書のようです。
なので時代が変わっても引き継がれてゆく大事なものだと思われます。

25才で上洛した日像上人、このとき既に65才。
そしてその9年後、74才で遷化されました。


さらに、後年発生した大干魃に際し、二世の妙実上人が雨乞い祈祷をし雨を降らせた功績により、天皇から日蓮聖人に大菩薩号、日朗、日像上人に菩薩号を賜り、妙顕寺には四海唱導、妙実上人には大覚大僧正の称号を賜りました。

こうして名実ともに確固たる地位を築き、新興宗教ではなくなったと考えられます。


しかしその後はやはり他の京都の法華寺院と同じく、応仁の乱や天文法難、それから天明の大火などの苦難に遭ってきました。
お寺の場所も転々とし、現在の地には豊臣秀吉の時代に移ってきたということです。


わずか14才でとんでもなく大きな宗門の夢を託されてしまった日像上人。
人間は誰しも、何かしらのお役目を持ってこの世に生まれてくるといいますが、日像上人は生涯を賭して、一切ブレずにお祖師様との約束を果たしました。


このブログ、実は今回で100カ所目になります!
100カ所目、宗門にとって、とても大事なご霊跡・妙顕寺を巡り、紹介できて幸せです!

聞法山頂妙寺(京都市左京区大菊町)

2018-03-21 16:47:22 | 旅行
京都での本山めぐり3ケ寺目!

本山頂妙寺です!
すぐ西に鴨川が流れてて、平安神宮や祇園にもほど近い寺町で、観光客もたくさん歩いてる地域です。


この界隈のお寺の案内図が掲示されていました。
50以上あるお寺の中でも、特に広いのは要法寺(日蓮本宗本山)、妙傳寺(日蓮宗本山)、そしてここ頂妙寺です。
いずれも日蓮聖人の流れを汲む寺院であり、古くから法華信徒が行き交っていた場所と思われます。

そしてこの地図で注目して欲しいのが、頂妙寺の南側に走っている通りの名前が「仁王門通り」ということです。


通りの名前のルーツにもなった、仁王門です。
有名な運慶・快慶作と伝えられる仁王尊が安置されています。(昔起きた火災で部分的に焼けてしまい、体躯の部分だけは新しくなっているそうです)
これだけ立派な仁王門ですから、地域のシンボルなんですね!


山号は「聞法山」です。
東山天皇から頂いた山号だそうです。


美しいピンクの桜の向こうは本堂です。


瓦の一枚一枚に「頂」の文字。


祖師堂です。
春の空に映えます。


境内に面して塔頭寺院が並んでいます。全部で8ケ院あるそうです。


日蓮聖人のご尊像に合掌。


左手に立正安国論をお持ちです。お説法中のお祖師様だそうです。


建立の大本願人が中山法華経寺となっています。
遠い千葉の中山法華経寺と結びつきのあるお寺なのでしょうか?


お寺の縁起によると、1473年に中山法華経寺の日祝上人というお坊さんが京都に来て布教した際に開山したそうです。
ちょうど応仁の乱の頃でしょうか?


そうそう、
今回の旅の途中、たまたま道ばたで「応仁の乱勃発地」の碑を見つけましたよ!
もともと室町幕府のお偉いさん同士のいざこざから始まり、全国を巻き込む内戦に発展し、11年も続いたそうです。
京都全域がメチャクチャになってしまったそうで、まさに末法、法華経にすがる庶民は多かったと思われます。


その後、京都の復興とともにお寺は発展しましたが、天文法難や安土宗論により、衰退してしまったそうです。
特に信長の時代は布教を禁じられるなど、相当厳しくやられたようですね。


時は流れ、秀吉が天下を取り、状況は好転してきます。布教禁止を解かれたのです。
↑画像は仁王門に扁額として掲げられている、秀吉からの許状です。
安土宗論に臨んだ頂妙寺三世の日珖上人宛てになっています。


1595年には家康によって、中山法華経寺貫首の輪番が決められたそうです。
堺の妙國寺、京都の本法寺、そして頂妙寺の住持が輪番で担当する、というものだったそうです。
調べてみると中山法華経寺とのご縁アリアリでしたね!

そして、頂妙寺の歴史には信長・秀吉・家康という三大武将が深く関わってきたこともわかりました。


今週の寺猫~!
ニャ~!


あれ?この猫
両目の間の白い部分がウサギの耳の形!

二度おいしいお顔だね!!

具足山立本寺(京都市上京区一番町)

2018-03-20 23:21:52 | 旅行
日蓮宗本山・立本寺を訪問しました。
お天神さんで有名な北野天満宮から目と鼻の先に位置します。

日蓮宗ポータルサイトによると、宗門には本山が57ケ寺あり、そのうち京都市内には8ケ寺存在するようです。


山門です。
右に松、左に桜が配置され、いい雰囲気です。


境内には老人ホームもあります。
桜の多いこの境内だったらお年寄り、喜びそうです。


本堂です。屋根が見事!鳥肌モンです!!
建立からゆうに250年は経っています。


こちらのお寺では瓦に「立」の文字。


立本寺は妙覺寺と同じく、日像上人が創建した妙顕寺がルーツだと言われています。
これら3ケ寺は山号を同じくし、「具足山」といいます。
つまり3ケ寺で仏前を飾る三具足(香・華・灯)を表現しているようです。


本堂よりももっと歴史があり、334年前(!)に完成したといわれている祖師堂は現在、修理中でした。
長年の雨や風、地震に耐えてきたんです。しっかりメンテナンスして、いつか姿を見せて下さい。


刹堂です。
日像上人が開眼した鬼子母神、十羅刹女をお祀りしてあるそうです。
「北野の鬼子母神様」として有名だそうですよ!


立本寺は京都の他の日蓮宗寺院と同様、幾多の困難に遭ってきました。


1387年に妙顕寺は比叡山僧徒により破却されてしまい、京都を離れざるを得ない事態になりました。
ちょうど南北朝統一前の政情不安な時代で、京都全体も混迷していたと思われます。
1392年、明徳の和約をもって南北朝が統一されると、足利義満は荒廃した京都の寺領を整備し、その翌年、日実上人がもともと妙顕寺があった場所にお寺を再建したのが立本寺の始まり、ともいわれていますが、諸説あり残念ながら確証はないようです。


その後も法難は続いて移転を繰り返し、火災にも遭ってきたため、お寺のルーツを記録しているものが消失してしまったのかもしれません。
いかに京都の法華寺院が苦闘してきたかを感じます。


境内にある無数の桜の蕾ももう開花直前!
これが満開になったら素晴らしいんだろうな~


桜の季節が過ぎてしばらくしたら蓮の季節になって・・・
またその季節に訪れてみたいお寺です!

慧日山東福寺(京都市東山区本町)

2018-03-19 18:25:04 | 旅行
32才で立教開宗をするまで、日蓮聖人は「是聖坊蓮長」という名の天台僧でした。
仏法の全てを知りたいという使命感から、鎌倉遊学だけでなく、仏教の中心地であった近畿地方の名だたるお寺を巡って、徹底的に勉強したといいます。

蓮長は京都の東福寺にも遊学していたそうです。
東福寺は臨済宗東福寺派の大本山です。


巨刹らしく、お寺の名前の駅があります。
JR奈良線と京阪電車が停まります。


東福寺への道中には
関東ではなかなか見ない「飛び出し坊や」!
いろんな飛び出し坊やがいて、見ていて飽きません。


東福寺境内に至る門はいくつもあるようです。
中門から境内に入りました!


入ってすぐに経蔵を見つけました。
仏教寺院であると同時に、教育機関でもあることがわかります。


これ、すごくないですか?
屋根のある橋「臥雲橋」です。


臥雲橋からはもう一つの屋根付きの橋「通天橋」が見えます。
この風景はなかなか、趣があります。


巨大な山門です。
勅使門から通じている門であり、普段は門としての役割はなさそうです。


そしてその山門と法堂(仏殿)の間に、ひっそりと石碑が建っています。


「日蓮柱之碑」と刻まれています。
東福寺のホームページによると、東福寺は当時の摂政・九條道家が、円爾弁円(えんにべんえん)というお坊さんを開山に迎え、1236年から1255年までの19年を費やして創建したそうです。

お祖師様の年齢でいうと14才~33才の間、建築していたことになります。ちょうど近畿のお寺を遊学していた時と合致します。


一方、円爾弁円は三井園城寺で学問を究めた、元天台僧でした。
禅戒を受けたあと宋に渡って勉強し、帰国後に東福寺を開いたそうです。

計算してみるとお祖師様よりも21才も年上になりますが、東福寺遊学時にお祖師様に良くしてくれたのかもしれません。
東福寺を造るときにお祖師様は柱を一本、寄進されたようです。
学僧だった蓮長にとって、巨堂の柱一本はあまりに負担が大きかったでしょうが、それがお祖師様の気持ちだったのだと思います。


現在もこの法堂(仏殿)に日蓮柱があるそうです。


お・・・?


あるある!日蓮柱だ!
当日はゆるい風が吹いており、偶然にも外から日蓮柱を拝むことができました!


この法堂(仏殿)を含む東福寺の多くの建物は、明治14年の火事で焼失してしまったそうですが、その後17年をかけて再建されたそうです。
その際、日蓮宗の信徒が法堂(仏殿)の柱を一本、寄進したそうです。
「日蓮柱之碑」はその記念にどなたかが建てたのだと思われます。


若き日蓮聖人を育ててくれた東福寺。
そしてそのお礼として一材を寄進したお祖師様。
さらに東福寺がピンチの時に再び一材を寄進した700年後の信徒達・・・。
とても良いものを見た気分です。京都に来て良かったと、改めて思いました。

最後に、宗派の垣根を越えて、日蓮柱を堂々と明示して下さっている東福寺に、心から感謝します。

大光山本圀寺(京都市山科区御陵大岩町)

2018-03-18 17:34:59 | 旅行
春寒がようやく緩んできた3月、2泊3日の日程で京都を旅してきました!
桜もいろんな種類があり、完全に蕾状態の木もあれば、満開の木もあります。京都は本当に桜が多いですね~!


初めて訪問しました、山科。
山科は、京都と大津のちょうど中間点にあります。


山科駅から京阪電車で一つ目の「御陵」で下車。
「ごりょう」と読んでしまいがちですが、「みささぎ」です。
大化の改新で有名な天智天皇のお墓が近くにあります。


スマホのグーグルマップを使いながら住宅街を抜けて行きます。


大きな用水路に出ました。琵琶湖疎水です。
琵琶湖の水を京都に引くために、明治時代に造られた水路です。
水道の目的よりもむしろ発電や水運で重宝されたようです。
100年以上の時間を経て、現在は観光名所にもなりつつあるようですよ。


高貴な方の御車でも通りそうな赤い橋を渡ります。


新しい題目法塔

大本山・本圀寺です。
日蓮宗ポータルサイトによると、本圀寺の他に、宗門に大本山は6ケ寺(誕生寺、清澄寺、中山法華経寺、北山本門寺、池上本門寺、妙顕寺)あるそうです。


総門です。
手前には「日蓮宗教院」の石柱。お坊さんの学校としての役割もある場所なのでしょうか。


開運門というそうです。
法華の篤信者だった加藤清正の寄進によるそうで、約20年前に修復・復元したそうです。
お題目を唱えながらくぐると運が開けると言われるそうで、もちろん実践!!


山号は「大光山」です。


大きなお祖師様のご尊像に合掌。


大光山本圀寺はもともと鎌倉・松葉ケ谷にありました。
日蓮聖人は伊豆法難がご赦免になったあと、鎌倉武士・石井長勝公の邸内に草庵(法華堂)を結び、しばらく過ごされたといいます。
この法華堂が大光山本圀寺のルーツです。


(↑ 画像は鎌倉松葉ケ谷・長勝寺の法塔)
京都本圀寺の成り立ちは、歴史に疎い僕にはちょっと理解が難しいんですが、いろんな資料を読んだ上での僕なりの解釈を書いてみます。


日蓮聖人がご入滅されてしばらく後に鎌倉幕府が滅亡し、足利尊氏が室町幕府を作り、政治の中心は京都に移りました。
当時の京都では法華信者が増えて一大勢力になっていました。
京都には法華の勅願寺として、既に妙顕寺がありましたが、妙顕寺は南北朝で対立した後醍醐天皇が綸旨を下してできたお寺であり、法華勢力の支持を得るには尊氏自身がもう一つ、核となる法華の勅願寺を作る必要があったと思われます。


そこで尊氏は、日蓮聖人が鎌倉で住まわれた庵である法華堂を京都に移し、当時の光厳天皇が勅命を出す形で、本圀寺は鎌倉から京都に移ってきた・・・そんな感じの理解で良いでしょうか。


↑ 話は逸れますが、昨年訪問した松葉ケ谷の妙法寺には、後醍醐天皇の息子さんの護良親王のお墓がありました。
ともに倒幕に努めたのに、のちにソリが合わず尊氏政権に殺されてしまった護良親王のお墓が松葉ケ谷にあるのも、何か因縁めいているなと、つい思い出してしまいました。


お寺は最初、日朗上人の孫弟子にあたる日静上人が六条堀川に土地を賜り、建てられたことから、本圀寺の流れを汲む宗派を六条門流というそうです。
対して妙顕寺の流れを汲む宗派は四条門流といい、それぞれが京都での宗門の中心的役割を果たしてきたようです。
旧末寺の一覧が庫裏に掲示されていました。
こ、こんなにたくさん・・・!!
江戸時代には黄門様・徳川光圀公の外護などもあり、相当隆盛していたんでしょうね。

そうそう、本圀寺の「圀」の字は、光圀公から戴いているそうですよ!(もともとは本國寺だったとか。)


仁王門です。
阿行、吽行が睨みを利かせてます。


扁額には「正嫡付法」の文字。
今まで聞いたことのなかった言葉ですが、直系とか、正統とか、そんな意味でしょうか。


お祖師様が日朗上人に宛てた「正嫡付法の譲状」の内容が掲示されていました。
「立像釈迦仏一体」「立正安国論一巻」「御免状」を、布教の為に大国阿闍梨(日朗上人)に与える、という内容です。
いずれも信徒にしてみれば一度は拝見してみたい貴重な宗宝です。


本堂です。
メリハリのきいた色彩の、存在感あるお堂です。


瓦の一枚一枚に・・・ん?何の紋だろう?
楓紋なのかな?


歴代お上人の御廟を参拝。
開山は松葉ケ谷時代まで遡るので日蓮聖人、譲状とともに霊宝を授けられた日朗上人が二祖、日朗上人のお弟子さんの日印上人が三祖です。

日印上人は高齢の日朗上人のピンチヒッターで鎌倉殿中問答に臨み、他宗を論破したことで有名です。
この問答での完全勝利を境に、法華経を鎌倉で布教することが公認されたといわれています。


経蔵です。
中を拝見できませんでしたが、池上本門寺にあったような八角形の回転式の輪蔵に、高麗版の一切経が収められているそうです。


庫裏にご挨拶すると、ご住職が各堂宇を案内して下さいました。


そして・・・!
拝ませて頂きましたよ!立像釈迦仏!!


海上山佛光寺のところでも紹介させて頂きましたが、このブログの資料として活用させて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。

お祖師様は伊豆法難の際に授けられたこの立像釈迦仏を、生涯肌身離さず持ち続けたそうです。
小松原で殺されかけた時も、雪深い佐渡で寒さに凍える時も、幕府に諫暁する時も、お祖師様を守り続けた立像なんだな~、と思うと、胸が熱くなりました。


本圀寺は火事や天台信徒による焼き討ちなど多くの苦難を経て、今から47年前に現在の山科の地に移転したそうです。
古くから護ってきた宗宝に比べ、堂宇や石塔などが新しく、アンバランスさは否めませんが、僕のような信徒が参拝しやすいように努めているのがわかりました。
貫首様はじめご住職方や檀家さんが奮闘されているのでしょうね。


京都、というと「お寺」を連想しますし、京都のお寺は多くの檀那に外護されて安泰なんじゃないか?という先入観を持っていました。

今回、京都に着いて最初に訪問した日蓮宗寺院が大本山の本圀寺でしたが、見事にその先入観が打ち砕かれました。

観光気分、て感じじゃなさそうだな。さて、次はどちらのお寺を参拝しようか。

千葉山蓮華寺(小田原市千代)

2018-03-13 17:30:12 | 旅行
日蓮聖人のご霊跡を調べるにあたって、僕が基本で参考にさせて頂いているのが
市川智康先生著「日蓮聖人の歩まれた道」(水書房)という本です。
ご霊跡がエリアごとに分けられて紹介されているんですが、各ご霊跡の逸話が詳しく書かれており、本当に助かります。


また最近、身延山久遠寺境内の売店で購入したのが
望月真澄先生著「身延山参詣道を歩く」(せいしん刊)という本です。
各地の法華信者たちが、古くから身延山に詣でるために辿った経路を主に紹介していますが、お祖師様の身延入山の経路を敢えて歩く方も多いようで、そちらについても詳細に書かれています。


この本では、日蓮聖人の身延入山経路として、鎌倉を発った晩に酒匂にお泊まりになり、その翌日、そこから少し北上した場所にもお立ち寄りになった、と書いてあります。
(↑の画像は酒匂のご霊跡に開かれた済度山法船寺)

そこでは多くの住民が日蓮聖人に教化され、現在、千代という場所に「蓮華寺」というお寺がある、とありました。



千代を訪問してきました!曽我の梅林が近いです。もう梅の花はピークを過ぎたかな?
実は千代は僕の生まれ育った国府津の隣に位置しており、馴染みありすぎの場所です。


蓮華寺の山門です。
右側の堅牢な建物は?


このお寺のすぐ隣に小学校があるのです!
休み時間になると子供の声がワイワイ!!
それだけで境内の雰囲気が明るくなります。


山門にお猿発見!
お祖師様のピンチを何度も救ってくれた、偉大な守護者です。


大きな題目法塔。


願主として蓮正寺村と永塚村の講中が刻まれています。
現在も蓮華寺のすぐ近くに永塚という地名が残っています。
また、蓮正寺という地名は現在、酒匂川の対岸にあります。
暴れ川として有名な酒匂川のことですから、その昔、蓮正寺はこっち岸にあったのかもしれませんね。


本堂です。
このお寺のシンボルプランツ、ソテツがいい感じでフレームインしてきます。


寺紋は桔梗ですね~。
以前は中山法華経寺の末寺だったそうで、その名残りで桔梗紋なのだそうです。


てことは・・・
山号の千葉山も千葉氏由来?
ご住職によると、提婆達多品の経文にある「千葉の蓮華」が山号の由来なのだそうです。花びら千枚の蓮の花、って感じでしょうか。キレイな山号ですね!


千葉山蓮華寺らしく蓮がたくさん!
ご住職が一生懸命手入れしていました。


歴代お上人の御廟を参拝。
日蓮聖人は身延入山の際にも下山して池上に向かう時にも、この付近を通ったと言われているそうです。
千代の北側、東大友にあった天台宗寺院がその際に改宗した、というのがルーツです。


その後、日蓮聖人に付き添っていた日弁上人が開山しました。
現在のお寺の場所にはもともと武家屋敷があり、約400年前に信徒の方の寄進を得て移転したようです。


この石板には四十六世のお上人まで刻まれています。
千代での法華信仰の拠点を、守り続けてきたお上人達に感謝しながら、合掌しました。


応対して下さったお上人は、現在の四十七世のお上人のもとで仕事をされている副住職でした。
僕がご霊跡めぐりをしていると話すと、平成23年~26年にわたって神奈川第三宗務所で行われた「日蓮聖人の道を辿る足跡ウォーク」の冊子を下さいました。
実際に歩いて得た生きた情報、それもつい最近の情報が沢山載っていて、ご霊跡めぐりの資料としては出来過ぎです!今後フル活用させて頂きます!!


山門脇に「ゆったり寺ヨガ」の案内が出ていましたよ~
毎週火曜日にヨガの先生を招いて行っているそうです!

お寺の本堂って、もっともっと利用しやすくすればいいのに・・・って思います。
ヨガもそうだし、ボイストレーニングやアコースティックギターなんかも、お寺と相性良さそう。

いい意味で、お寺の敷居を低くしようと頑張っているんだな~と感心しながら、千代のお寺をあとにしました。

青龍山本覚寺(静岡市駿河区池田)

2018-03-02 21:07:41 | 旅行
日蓮聖人は38才の時に念仏衆や幕府の反感を買い、伊豆に流されてしまいました。
↑画像は伊東・佛現寺の毘沙門堂跡
日蓮聖人の伊東滞在中の生活はどんなものだったのか興味があるところですが、いろいろなご霊跡を見てゆくと、当時表向き罪人扱いだったとはいえ、援助していた方がチラホラと見えて来ます。


静岡の本覚寺を訪問した時にも、陰ながら応援されていた方がいた事を知りました。
本覚寺には巨大なクスノキがあり、遠くからでもココだよ!とわかります。
樹齢700年以上、全方向に枝を伸ばした美しい樹形です。


時代劇でもできそうな長~い白壁!
瓦も全て宗紋が付いてます。


山門です。
この画像を見る限り、本当に時代劇を撮れそうです!


傍らの題目法塔は、ここ池田村の若者達が寄進したもののようです。


山号は「青龍山」です。


日蓮聖人の思想の根幹をなす、立正安国論が大きな碑に刻まれていました。


突き当たりに見えるのが本堂です。
参道は杉の大木に囲まれ、空気が変わります。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


お祖師様がお若い頃ですね!お寺の説明には清澄・旭ケ森で立教開宗の唱題をされたときのお姿、と書かれていました。


本覚寺は日持上人のお弟子さん・日位上人の開山です。
この日位上人のお祖母様である妙位日禅尼は、宗門ではよく知られた方なのだそうです。
(僕は今まで知りませんでした・・・)


本覚寺境内に、妙位日禅尼の墓所がありました。
本当に古い墓石だと思われます。小さくて角のない、やさしいおばあちゃんのような墓石です。
妙位日禅尼は、御遺文にもよく出てくる上野殿(南条氏)の家系で、かなり早い頃から日蓮聖人の教えに帰依していた古参の信徒です。


日蓮聖人が伊豆に流された時にも、当時5才だった日位上人を連れて伊東を訪れていたようです。
四面楚歌の日蓮聖人にとって、どんなに心強かったことでしょう。


妙位日禅尼は日蓮聖人が身延山に入られてからも、しばしば米とか瓜や茄子などの野菜を持って、登詣したようです。
お祖師様は日禅尼の供養へのお礼として、盂蘭盆御書とお曼荼羅を授けました。
妙行日課にも盂蘭盆御書の一節が載っているので、馴染みがあります。


お曼荼羅は「十界曼荼羅己心本覚本尊」というもので、寺名はこちらから来ているようです。


本覚寺の守護神・金比羅明王をお祀りするお堂です。
海の近くのお寺だけあって、海上安全の霊験もあるそうですよ!


本仏堂です。
近くの海中から出現したお釈迦様のご尊像がお祀りされているようです。
南北朝時代のお堂だって!
手を加えながら、古いものをきちんと残しているさまが見て取れます。


この鐘楼といい、境内の建物はおおよそ黒と朱色に統一されています。
センスの良さを感じます。



お?葵の御紋だ!
養珠院お萬様は本覚寺も支援していたようです。女性の活躍が目立ちますね!!


日蓮聖人がご入滅してから6年後、つまり七回忌が済んだあと、それまで身延山の輪番に勤しんでいた日位上人は、富士川沿いの岩淵という所に自分の庵を作りました。

岩淵は日持上人の出身地・松野のほど近くにあります。いずれも實相寺のある岩本の富士川対岸です。
古くから宗門と縁の深い土地なんですね。


日位上人は51才の時、有度山(山頂は「日本平」として有名)の西麓・池田村の土地を譲り受け、本覚寺を開山しました。
以来、法華経信仰の拠点として、ここ静岡の宗門を支え続けてきました。
のちに身延山法主様となられた杉田日布上人は、明治から大正に渡って本覚寺の住職を務められました。
杉田上人は石橋湛山氏(第55代首相、立正大学学長)のお父さんとしても有名な方です。




ご首題を書いて頂いている間、奥様がお茶を入れて下さいました。
冷えた身体に滲みました~


これ、檀家さんが種を取ったあとの蓮の花に布を詰めて作ったらしいです。
茶色に枯れちゃった花も、手を加えることでまた我々の目を楽しませてくれるんですね!!

開創700年以上の古刹をキレイに護持してくれている本覚寺の皆さんに感謝です!!

琉球山法華経寺(那覇市安里)

2018-03-01 19:26:23 | 旅行
大学進学のため3月末には九州へ行ってしまう娘と、親子三人で沖縄旅行をしてきました!


湘南では寒さの底の2月中旬ですが、沖縄はもう、初夏の陽気!
先週あたりで桜のピークも過ぎたようです。


今回の旅のメインは美ら海水族館
巨大水槽でジンベエザメが泳ぐ姿は圧巻でした。


そんな沖縄には日蓮宗寺院があるのかな?と素朴に思い、日蓮宗ポータルサイトを開いてみると、2ケ寺だけ、ありました。
今回、日程の関係でうち1ケ寺、那覇の寺院を訪問しました。

那覇市内には沖縄唯一の鉄道・ゆいレールが走っています。


今回のお寺は「おもろまち」駅が最寄り駅です。
おもろい町、じゃないようで、琉球の神職が唄っていた歌「おもろ」がルーツだそうです。


駅前には巨大な免税店がドーン!
もともとこの場所は、「シュガーローフ」と呼ばれた要塞化された丘を争奪するために攻防し、日米両軍ともにおびただしい犠牲者を出した沖縄戦の最激戦地だそうです。
戦後、米軍住宅が建設され、のちに返還された跡地が「那覇新都心」として整備されているそうです。


駅から歩いて5分程度のところに、ありました。法華経寺です。
日蓮宗ののぼりや赤提灯、それに6尺いや、もっとあるな、お祖師様736遠忌の卒塔婆が配置されています。


お寺の入り口脇に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節がありました。


山号は「琉球山」です。
合掌、唱題していると、お寺の方が本堂を開けて下さいました。
沖縄のお寺といえども、お堂の中は我々が普段目にするお寺と変わりませんが、団扇太鼓がたくさん置いてあり、信徒さんが使っている雰囲気がありました。


庫裏でお茶を頂きながら、ご住職のお話を聞けました。
琉球山法華経寺は昭和56年に先代住職(故人)が開山したお寺で、お話を伺ったお上人は2世になります。


沖縄の日蓮宗寺院は、大正2年に瑞国山妙徳寺が開山されたのが始まりだそうです。
しかしその後に起きた太平洋戦争、そして、地獄戦とまで言われた沖縄戦で徹底的に攻撃され、沖縄全土が焼土と化しました。
戦争が終わっても実に27年間、この島はアメリカだったわけで、もはや仏教云々という話ではなかったのが現実のようです。

ただ沖縄が返還される以前も、日蓮宗からたびたび戦没者の慰霊巡拝団や唱題行脚隊が派遣されていたそうです。


昭和50年に先代住職が単身沖縄に渡り、浦添に沖縄布教所を開設したのがこのお寺のルーツです。


沖縄には元来、檀家制度という概念がありませんでした。
そして、人々は「ニライカナイ」という神様を崇拝し、また祖先を神様のように信仰するのが普通でした。

沖縄を旅するとわかりますが、いたる所に現役の「御嶽(ウタキ)」という遙拝する場所があります。
また子供くらいなら住めそうな石の家がホントに道路脇にいっぱいあって、これが沖縄のお墓とわかってびっくりしました。


本土の宗教概念が通用しないこの島で、先代のご住職は本当に苦労されたようです。
仏教に興味のある人、修行をしたい人だけでなく、人生に行き詰まった人や悩みを抱える人、社会から問題児のレッテルが貼られた子供など、来る者は拒まず受け容れ、共同生活を送りながら数え切れないくらい多くの人達を、再び世の中に送り出していったそうです。そして、現在各方面で皆さん活躍されているということです。

時には関係各所から疎まれたり睨まれたりする事もあったようですが、遷化されるまでそのスタイルを貫き、現在のご住職がそのまま引き継いでいるそうです。


現在のお寺は、ここで共同生活をしていた子の親から寄進を受けた土地に建っているそうですよ!

僕は一昨年より日蓮聖人のご霊跡を少しずつ巡っています。
鎌倉時代、なにも無いところから苦労を重ねて信仰の拠点を築き上げた先師達の偉業を、各地で見聞きしています。
ご住職のお話を聞きながら、何かそういった先師達と重なるところがあり、感謝の念が深まりました。


↑このお寺のマスコット「合掌シーサー」です。ご首題の印も合掌シーサーなんですよ~!

現在のご住職は立正大学を卒業後、神奈川県のお寺で修行し、沖縄に来たそうで、僕が神奈川県から来たことをお話すると、タレ目の目尻をさらに下げて喜んで下さいました。
ご出身が岩手県ということで、宮沢賢治の詩がとても好きだそうです。


入り口の「雨ニモマケズ」、先代と現在のご住職そのものに思えてきました。お世辞でなく。