日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

琉球山法華経寺(那覇市安里)

2018-03-01 19:26:23 | 旅行
大学進学のため3月末には九州へ行ってしまう娘と、親子三人で沖縄旅行をしてきました!


湘南では寒さの底の2月中旬ですが、沖縄はもう、初夏の陽気!
先週あたりで桜のピークも過ぎたようです。


今回の旅のメインは美ら海水族館
巨大水槽でジンベエザメが泳ぐ姿は圧巻でした。


そんな沖縄には日蓮宗寺院があるのかな?と素朴に思い、日蓮宗ポータルサイトを開いてみると、2ケ寺だけ、ありました。
今回、日程の関係でうち1ケ寺、那覇の寺院を訪問しました。

那覇市内には沖縄唯一の鉄道・ゆいレールが走っています。


今回のお寺は「おもろまち」駅が最寄り駅です。
おもろい町、じゃないようで、琉球の神職が唄っていた歌「おもろ」がルーツだそうです。


駅前には巨大な免税店がドーン!
もともとこの場所は、「シュガーローフ」と呼ばれた要塞化された丘を争奪するために攻防し、日米両軍ともにおびただしい犠牲者を出した沖縄戦の最激戦地だそうです。
戦後、米軍住宅が建設され、のちに返還された跡地が「那覇新都心」として整備されているそうです。


駅から歩いて5分程度のところに、ありました。法華経寺です。
日蓮宗ののぼりや赤提灯、それに6尺いや、もっとあるな、お祖師様736遠忌の卒塔婆が配置されています。


お寺の入り口脇に、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節がありました。


山号は「琉球山」です。
合掌、唱題していると、お寺の方が本堂を開けて下さいました。
沖縄のお寺といえども、お堂の中は我々が普段目にするお寺と変わりませんが、団扇太鼓がたくさん置いてあり、信徒さんが使っている雰囲気がありました。


庫裏でお茶を頂きながら、ご住職のお話を聞けました。
琉球山法華経寺は昭和56年に先代住職(故人)が開山したお寺で、お話を伺ったお上人は2世になります。


沖縄の日蓮宗寺院は、大正2年に瑞国山妙徳寺が開山されたのが始まりだそうです。
しかしその後に起きた太平洋戦争、そして、地獄戦とまで言われた沖縄戦で徹底的に攻撃され、沖縄全土が焼土と化しました。
戦争が終わっても実に27年間、この島はアメリカだったわけで、もはや仏教云々という話ではなかったのが現実のようです。

ただ沖縄が返還される以前も、日蓮宗からたびたび戦没者の慰霊巡拝団や唱題行脚隊が派遣されていたそうです。


昭和50年に先代住職が単身沖縄に渡り、浦添に沖縄布教所を開設したのがこのお寺のルーツです。


沖縄には元来、檀家制度という概念がありませんでした。
そして、人々は「ニライカナイ」という神様を崇拝し、また祖先を神様のように信仰するのが普通でした。

沖縄を旅するとわかりますが、いたる所に現役の「御嶽(ウタキ)」という遙拝する場所があります。
また子供くらいなら住めそうな石の家がホントに道路脇にいっぱいあって、これが沖縄のお墓とわかってびっくりしました。


本土の宗教概念が通用しないこの島で、先代のご住職は本当に苦労されたようです。
仏教に興味のある人、修行をしたい人だけでなく、人生に行き詰まった人や悩みを抱える人、社会から問題児のレッテルが貼られた子供など、来る者は拒まず受け容れ、共同生活を送りながら数え切れないくらい多くの人達を、再び世の中に送り出していったそうです。そして、現在各方面で皆さん活躍されているということです。

時には関係各所から疎まれたり睨まれたりする事もあったようですが、遷化されるまでそのスタイルを貫き、現在のご住職がそのまま引き継いでいるそうです。


現在のお寺は、ここで共同生活をしていた子の親から寄進を受けた土地に建っているそうですよ!

僕は一昨年より日蓮聖人のご霊跡を少しずつ巡っています。
鎌倉時代、なにも無いところから苦労を重ねて信仰の拠点を築き上げた先師達の偉業を、各地で見聞きしています。
ご住職のお話を聞きながら、何かそういった先師達と重なるところがあり、感謝の念が深まりました。


↑このお寺のマスコット「合掌シーサー」です。ご首題の印も合掌シーサーなんですよ~!

現在のご住職は立正大学を卒業後、神奈川県のお寺で修行し、沖縄に来たそうで、僕が神奈川県から来たことをお話すると、タレ目の目尻をさらに下げて喜んで下さいました。
ご出身が岩手県ということで、宮沢賢治の詩がとても好きだそうです。


入り口の「雨ニモマケズ」、先代と現在のご住職そのものに思えてきました。お世辞でなく。
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