日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

日蓮銅像護持教会(福岡市博多区東公園)

2020-03-01 09:01:23 | 旅行
日蓮聖人が身延山に入山されたその年の秋、元寇が起きています。
文永11(1274)年、日本侵攻を目論む元軍は対馬、壱岐を制圧し、博多湾に上陸しました。
元軍は火薬を用いた武器で猛攻をかけてきましたが、いいタイミングで風雨が吹き荒れ、元軍は退散していったと歴史の授業で習いました。

福岡に行く機会があったので、元寇の地・博多にある宗門施設を訪問してきました。

博多といえば昔から那珂川沿いの風景を連想しますが、



最近は再開発で随分、様変わりしたようです。
とにもかくにも相変わらずパワフルな街です!


地下鉄の九大病院前駅から少し歩くと・・・

東公園の一画に、大寺院とおぼしき、堂々たる山門があります!



傍らには「元寇紀念 日蓮上人銅像道」の石柱。
なんか、すごそうだぞ!


山門をくぐってビックリ

うおっっ!!でかいっ!!
ほんとに巨大なお祖師様のご尊像がそびえ立っています。



驚きながら、まずは合掌。
高さが10.55mらしいですが、台座部分がまた結構高いから、地面からの比高は20mくらいありそうです。



右手にお数珠、左手に経巻を握ったスタイルは他でも見たことがありますが、何せ巨大なので残像が目に、脳に、残ります。
ていうか夢に出てきそうです(笑)。



日蓮宗はその教団名からもわかる通り、他宗と比べて特に、宗祖信仰が強い宗派であると思います。
強烈なカリスマであるがゆえ、実に多くの宗門施設で銅像が建立されているのは確かです。
しかしなぜ、この場所に、これほどまでの巨大銅像があるのでしょうか?



台座部分に嵌め込まれたレリーフを見ながら、その理由を探してみたいと思います。
ちなみにレリーフの制作は矢田一嘨氏によります。
矢田氏は明治時代に活躍した洋画家で、パノラマ画を得意としたそうです。



立教開宗後、当時の政治の中心であった鎌倉に渡った日蓮聖人は、法華経を世に広めるため、街頭に出て辻説法を始めました。
時代はちょうど天変地異や疫病蔓延が相次いでいた頃でした。


この末法の世を救うのは法華経しかない、という自らの精神を込めた「立正安国論」を著しました。

文応元(1260)年、宿谷入道や大学三郎を介して、北条時頼に立正安国論を献上しました。
この立正安国論の中で、このまま国主や国民が信仰を改めなければ、更に多くの災難が起きることを日蓮聖人は預言していました。
特に「他国侵逼難」は、それから14年後に現実に起きた元寇を、見事に言い当てていたのです。


立正安国論の献上は、あっという間に鎌倉じゅうに知れ渡り、日頃から日蓮聖人を疎ましく思っている人々は、ますます憎しみを強くしました。

松葉ヶ谷、伊豆、小松原と法難は相次ぎ、ついには文永8(1271)年、龍ノ口の刑場に連行されてしまいました。この時、日蓮聖人は平頼綱に対し二度目の諫暁をしています。
真夜中の斬首刑の執行は不思議な閃光により中止され、佐渡に流されることになりました。
当時の佐渡は政治犯、思想犯が多く流される島で、一度流されたら生きて帰る者はありませんでした。


その頃、幕府内では内乱が起き、また元国からの圧力も始まっていました。まさに14年も前に、立正安国論の中で警告した通りの動向に幕府中枢は驚き、文永11(1274)年、日蓮聖人を異例の赦免としました。

鎌倉に戻り、幕府に召し出された日蓮聖人は三度目の諫暁をしましたが、受け容れられることはありませんでした。
日蓮聖人はやむなく鎌倉を離れ、身延山に入ることにしました。


その年の秋、元軍襲来が現実のものとなりました。(文永の役)

九州防衛の最前線・対馬や壱岐では多勢に無勢、多くの島民が惨殺されたり捕虜にされたりしたそうです。


元軍はとうとう九州本土に上陸してきました。博多湾沿岸全体が戦場となりました。
現在、日蓮聖人の大銅像が建っている場所は、まさに当時の最激戦地であったようです。

レリーフに描かれているのは、九州防衛の将軍・少貳景資が、敵将の劉復了を矢で射貫いたところのようですが、戦況は元軍優勢だったようです。
ところが夜を明かすため一旦船に戻った元軍は、急に吹き荒れた暴風雨により壊滅、撤退していった、と歴史の授業で習いました。


レリーフには、その数ヶ月後にやってきた七回目の元国使節団のことも描かれています。

日本が元国に従属しなければ、より強力な軍勢で再侵攻するぞ!という国書を携えた、杜世忠を代表とした使節団5名を、鎌倉幕府は龍ノ口で斬首刑に処しました。
弘安4(1281)年、元軍は前回の3倍もの大軍勢を率いて再度侵攻してきましたが、またもや台風が襲来し、元軍は撤退していきました。(弘安の役)


話は少し脱線しますが、4年前に訪問した片瀬龍ノ口の常立寺

このお寺には処刑された杜世忠以下の使節団5名を、手篤く弔う元使塚がありました。



元使塚の傍らには使節団の辞世の句が刻まれた石碑もありました。
使命とはいえ、異国で絶命せざるをえなかった彼らの無念を想い、胸が熱くなった記憶があります。
この元使塚を護る常立寺が宗門寺院であるというのは、決して偶然ではないと思います。


話を戻しましょう。

福岡に銅像建立の機運が高まったのは、明治時代でした。

当時、帝国主義化した欧米の列強が、東アジアの多くの国を植民地化し始めていました。
これは我が国も例外ではなく、他国の軍艦がこれ見よがしに日本に近づいたり、わざと寄港させ、狼藉者の水兵を上陸させたりして、挑発を繰り返していました。
そう、まさに600年前の元寇前夜と酷似した状況だったのです。


そんな中、元寇の史実を正しく後世に遺すべく、宗祖像建立の為の全国行脚を始めた日蓮宗僧侶がいました。

日管上人という方です。



境内には、日管上人の頌徳碑もあります。


田中智學師が日管上人の業績を紹介した漢文を寄せられています。

「大聖の巨像を此の地に営み、以て立正安国の祖猷(そゆう)を光揚せんことを期す」

祖猷(そゆう)って意味、わからなかったんですが、日蓮聖人の構想、考えみたいなものじゃないかな?と自分なりに解釈しました。
「やはり動乱の今だからこそ、正しい法を以て国家国民を安定させようではないか!そのきっかけとしてここに大銅像を建立するのだ!」という日管上人の強い意志だったのでしょう。


ところでこの漢文、「佐野前励師 略事蹟」となっています。

ん??佐野前励師?
聞いたことある・・・・・・

以前訪問した福岡県うきは市にある鎮西身延山本佛寺



このお寺の守護神「永遠大明王」を感得されたのが本佛寺第五世の佐野前励日管上人でした。
本佛寺中興の祖、という感じのお上人だと思います。



本佛寺は明治17(1884)年、神仏分離から続く、仏教への風当たりの強い時代に創建されました。
更に宗門自体がまだ閉鎖的だったという当時、九州における法華信仰の拠点を新たに造るというのはチャレンジ、本当に大変だったようです。
それだけに本佛寺開山は、宗門改革に尽くした日蓮宗初代管長・新居日薩上人の悲願でもあったでしょう。



日管上人は池上で新居日薩上人に学んでおり、宗門改革の精神を受け継ぎました。
現在の日蓮宗は、こういった不惜身命の先師達によって築かれたことを忘れてはなりません。


日蓮聖人大銅像についても、いろんな事情があって一筋縄ではゆかなかったそうですが・・・明治37(1904)年、とうとう建立を果たしました!

大きさもさることながら、細部まで精気が漲っているご尊像です。
制作は岡倉天心氏。ちょうど日管上人と同じ時代に活躍した芸術家で、東京芸術学校(今の東京芸大)の基礎を作った方としても有名です。


ちなみに、同じ博多東公園内、日蓮聖人大銅像から200mほど西に歩いた辺りには、亀山上皇の大銅像があります。
日蓮聖人大銅像とは、その建立経緯を巡って、驚くほど深い関係にあります。
お時間のある方は、僕のブログをご覧下さい。



大銅像の近くには元寇史料館があります。
先ほどの「佐野前励師 略事蹟」によると、この史料館の設立にも日管上人が関わっているようですよ。
(見学には事前予約が必要です。有料)



鳩のいる風景は和みますね~。



大銅像の隣にはひときわ立派な建物



大銅像を護持してくれているのは教会組織なんですね~!
大銅像が建つ境内は本当によく清められており、気持ちよく参拝ができました。
心から感謝いたします。



こちらが教会のお堂にあたる建物でしょうか。



身延山別院の肩書きもあるようです。
僕が今まで抱いていた「日蓮宗教会」のイメージが変わりました。



むしろ福岡県宗門の中心的施設なのかもしれませんね!


最後にひとつ、嬉しいことがありました!

平成16(2004)年に銅像創立百年をお祝いする催しがあったようなんですが、寄進者名に義父の名前を見つけました。
亡くなってからもう5年経つ義父は、東京近郊の町なかの、小さな日蓮宗教会の教師をしていました。
慎ましいお堂で、信者さんに日蓮聖人の教えをわかりやすく説明したり、困っている人の相談に乗ったり・・・と、地味ですが地に足のついた、尊敬できるお上人でした。

遠く福岡にあるお祖師様の大銅像が、義父に会わせてくれたような気がして、改めて大銅像に合掌しました。