日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

小松原山鏡忍寺(鴨川市広場)

2019-05-28 17:51:24 | 旅行

法難続きであった日蓮聖人のご生涯の中でも、最も凄惨な襲撃事件に遭われた地・小松原を訪問してきました。



鴨川市にある鏡忍寺です。



山門です。門の中に仁王門がピッタリ収まります。



平日の午後、ということもあり、境内は本当に穏やかです。
法難に遭われた場所とは思えないほどです。



仁王門です。
華美な色彩を一切用いていない分、その造りの素晴らしさが引き立ちます。



右に阿行


左に吽形。阿吽の呼吸でお寺を護ってくれています。



本堂です。相当歴史のあるお堂ではないでしょうか?
こういう破風を「唐破風」っていうんですよね!



伊豆配流をご赦免になられた翌年の夏、日蓮聖人は久しぶりに故郷・安房小湊に戻られました。
容体が芳しくなかったお母様を見舞うためだったそうです。

日蓮聖人が祈祷をすることでお母様の病は癒え、寿命が延びたといいます。



この数年間、松葉ケ谷のご草庵焼き討ち、捕らえられて伊東に流されたりと逆境続きだった日蓮聖人にとって、お母様の状態は気が気でなかったはずです。
回復されたお母様と対面されてどれほど安心したことでしょう。孝養を尽くされたと思います。


さらに11月10日には花房の蓮華寺でお師匠の道善房に再会されました。

花房の蓮華寺は鏡忍寺から北西に1kmほどの場所にあります。現在、宗門史跡になっています。

日蓮聖人は立教開宗の日、東条景信はじめ憤った暴徒達に清澄寺を追放されてしまいましたが、このとき道善房の機転により裏山を伝って蓮華寺に避難できたのだそうです。
懐かしい場所でお師匠と信仰のことのみならず、昔ばなしに花が咲いたことでしょう。



ちょうどその頃、以前から日蓮聖人の教えに帰依していた武士・工藤吉隆公から先祖の供養をして欲しいという依頼もあり、11月11日の夕方、日蓮聖人一行は工藤邸(現日澄寺)に向けて花房蓮華寺を発ちました。



一方、以前から日蓮聖人に恨みを抱いていたこの地の地頭・東条景信にしてみれば、久々に日蓮聖人が帰郷したのを襲撃の好機と思っていたようです。
密かにつけ狙い、辺りが夕闇に包まれた頃、花房蓮華寺からわずかしか離れていないこの東条の松原で、いよいよ東条景信率いる武装集団が日蓮聖人に襲いかかりました。



11月中旬の申酉の時(夕方5時)と言ったらもう真っ暗、闇に紛れての急襲だったようです。

本当に多勢に無勢、日蓮聖人は景信の太刀により眉間に三寸の傷を受けた上に左腕を折られてしまいました。
お弟子さんの鏡忍坊と救援に駆けつけた工藤吉隆公が必死で防戦したものの殉死、他にも同行していたお弟子さんが重傷を負ってしまいました。



鏡忍寺の境内にある巨大な槇の木は「降神の槇」というそうです。樹齢は千年以上と書いてありました。



景信が日蓮聖人にとどめを刺そうとした瞬間、槇の木に鬼子母神様が現れ、景信はこれに目がくらんで馬から落ち逃亡、理不尽で壮絶な襲撃事件は幕を閉じました。
景信はのちにこの落馬が原因で死亡したといわれています。



比較的新しいお堂は祖師堂です。



扁額には「刀杖難趾」。生々しい扁額ですね。
多くのお寺で目にする日蓮聖人のご尊像が綿帽子を被られているのは、この時に負った眉間の傷が寒くなると痛むからといわれています。



ちなみに先ほどの花房蓮華寺のすぐ目の前には、お祖師様が傷を洗われたと伝わる井戸があります。



歴代お上人の御廟を参拝。
奇跡的に命を永らえた日蓮聖人は、殉死された鏡忍房と工藤吉隆公を手篤く弔ったといいます。
特に工藤吉隆公については妙隆院日玉上人という、出家したお上人と同様な法号を授けられました。


工藤吉隆公は絶命する直前、現在自分の妻が身ごもっており、生まれ来る子供は是非、日蓮聖人の弟子にして頂きたい・・・という言葉を遺したといわれています。
生まれたのは男の子で、吉隆公の遺命に従って出家、日隆と号しました。日隆上人はのちにこの地にお寺を開きました。
日蓮聖人ご入滅の前年のことでした。

宗祖を護って息絶えた二人の偉人の菩提を末永く弔いたいという思いは、日蓮聖人も日隆上人も同じだったに違いありません。当時二人の法号に因み妙隆山鏡忍寺と名付けたといいます。

二祖を日暁上人(鏡忍房)、三祖を日玉上人と仰ぎ・・・



日隆上人自らは四世となっています。



のちに法難の地名から、山号を「小松原山」と改めたそうです。



境内に御法難堂があります。



日蓮聖人は鏡忍房の墓標として松をお植えになったんですね。
松は明治35年に倒れましたが、その松で日蓮聖人のご尊像を刻み、ここにお祀りされているようです。



小松原で起きた襲撃事件のような理不尽な「難」は、実は法華経の中で預言されているそうなのです。
法華経を広めようとする者には、一般の民衆のみならず、仏門にある人や権力者までが迫害を加えてくるというものです。
日蓮聖人はこれを十分理解した上で法難というものを覚悟していたのでしょうが・・・小松原の法難のむごさは聞けば聞くほど、背筋が寒くなります。



鏡忍房と工藤吉隆公が命を賭して日蓮聖人をお守りしてくれたお陰で、今日我々は日蓮宗を信仰できているわけです。
殉死された両上人に素直に感謝したいと思います。

いつまでも鏡忍寺が清められ、両上人の菩提が信徒達に弔われ続けますように。安らかに。












自昌山國前寺(広島市東区)

2019-05-09 23:19:57 | 旅行
広島に日像上人開山のお寺があると聞き、訪問してきました!


広島は大都会!人口は120万人、文句なく中四国最大の大都市です。


広島駅から歩いて10分の山裾に、そのお寺はありました。


國前寺です。
江戸時代建築、三間入母屋造りの山門が偉容を誇ります。



仁王門になっており、阿行と


吽形によって護られています。
ちょっとユニークな表情ですね~!



山号は「自昌山」です。



本堂です。
二重屋根と白い漆喰が特徴的で、お城の櫓を彷彿とさせますね!
棟札から江戸初期の建築だということが判明しているそうですよ。



妻入造りの庫裏も立派!
庫裏も本堂と同時期に建築されたと推測されています。



國前寺は原爆の爆心地からわずか2.6kmしか離れていませんでした。当然、激烈な爆風を受け、伽藍群は爆心地と反対側に傾いてしまいましたが、辛うじて倒壊は免れたそうです。相当に堅牢な造りだということが窺えます。
傾いているがそれでも建物はあるということで、夥しい被爆者の救護がまさにここで、なされたそうです。



戦後、部分的な修復のみであった本堂他の建造物は、平成になってから本格的な修理がなされ、今日に至るそうです。



「龍華樹院」という扁額が掛かっています。日像上人の院号ですね。
わずか13才、まだ経一丸だった頃にご入滅直前の日蓮聖人から帝都弘通のご遺命を受けた日像上人は、大変な苦労をされて京都に妙顕寺を建立しました。のちに後醍醐天皇から法華宗号の綸旨を賜り、妙顕寺は勅願寺となったのです。このとき日像上人はすでに65才になっていました。



上洛する直前、若き日像上人は真冬の鎌倉・由比ヶ浜で波をかぶりながら毎夜、自我偈を百回読誦するという荒行を百日間続け、今後予想される迫害に耐えうる精神を養いました。



百日目の満願の日に、日像上人が海にお題目を書くと、その字が実際に水面に浮かび上がり、波にゆられたということです。
昨年参拝した妙顕寺のご首題↑には、特徴的な波ゆり題目が記されていました。



1340年、日像上人は71才、当時としては相当高齢のお体で当地を訪れ、厳島に渡ろうとされていたそうです。
厳島は海の神様であり、若き日の由比ヶ浜で波ゆり題目を感得された日像上人にとっては特別な場所だったのかもしれません。



当時、お寺のすぐ目前まで海だったそうです。
厳島に渡ろうとしたが強風に遭い、船を繋いだと伝わる松が、國前寺の山門前にあります。



國前寺歴代お上人の御廟を参拝。



松に船を繋ぎ、日像上人が避難したのは真言宗のお寺でした。
日像上人はお寺の暁忍上人を教化・改宗させたそうです。



開山を日像上人、二祖に暁忍上人として自昌山暁忍寺を開いたのがルーツだそうです。

この石塔には三祖として大覚大僧正の名も刻まれています。大覚大僧正は日像上人が上洛して辻説法をしている時代に帰依した日像上人のお弟子さんで、岡山県や広島県に開山したお寺が沢山あります。備前地方で法華信仰が篤いのは大覚大僧正のお陰だといわれています。



境内には信仰を守護して下さる護法大明神や



裏山に至る道の先には


七面山のお社が整備されています。
これからも広島の宗門、信徒さん達をお護り下さい、と参拝しました。



これは江戸後期・文政年間の境内想像図だそうです。
広島二代藩主・浅野光晟公と夫人である満姫が帰依したことにより1656年より伽藍群が整備され、寺名も改められました。
お寺の縁起によると、浅野家菩提寺・國泰寺の「國」と、満姫生家・前田家の「前」を取って「國前寺」と名付けられたということです。
また満姫の院号は自昌院であり、山号の「自昌山」はそこからきていると思われます。



今、思い出したのですが、昨年、石川県の妙成寺を参拝した際、熱心な法華信者であった寿福院の御廟にも手を合わせました。
寿福院は加賀前田家三代藩主・利常公の生母であり、満姫にとっては祖母に当たる方です。
妙成寺が日像上人開山のお寺だというのは、時代を超えた不思議な縁なのかもしれませんね。



それにしても原爆の被害からよくここまで境内を整備したものだと感服します。
お上人方やお檀家さん達の尽力に深く感謝します。


そういえば本堂にこんな樽がありました。

昨夏の豪雨で、相当な被害を受けた広島県内の宗門寺院があるようです。
一日も早い復興を心より祈念します。