日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

波木井山円実寺(身延町波木井)

2017-10-18 20:21:07 | 旅行
10月13日は日蓮聖人の736遠忌でした。
この日を中心にして全国各地の日蓮宗寺院でお会式が執り行われます。

日蓮聖人のご入滅といえば、このブログでも貴重な資料として使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)
ここにお祖師様を物心両面で支えた大壇越・波木井(南部)實長公も描かれています。
實長公だけでなく、奥様や子供達もご入滅の場に臨んでいたようです。
家族みんながお祖師様とご縁が深かったんですね!


弘安5(1282)年の秋、体調がすぐれない日蓮聖人は身延山を下り、湯治のために常陸に向かいましたが、多摩川を越える頃にはいよいよ衰弱が激しくなり、旧知の弟子・池上宗仲邸(現在の大坊本行寺↑)に身を寄せました。


結果的にご入滅の地となったこの邸で、日蓮聖人はまず最初に、8年以上の長きに渡って身延のお山で献身的に給仕してくれた南部實長公に、お礼の手紙を書かれたそうです。
(↑画像は池上・大坊本行寺の御硯井戸)


お祖師様の大恩人、南部實長公ゆかりのお寺が身延にあります。
お山を背負ったお寺、円実寺です。


大きな法塔がたくさん!


虹川という小川を渡ると・・・


わ~!立派なお寺です。


この方が日蓮聖人を身延山に招き、長きにわたって日蓮聖人に供養し続けた壇越・南部實長公です。
久遠寺の三門近くにも、同じ胡坐姿のご尊像があります。
立派な髭と大きな耳が印象的!


山門です。
日蓮聖人700遠忌に合わせて、まる2年をかけて作られたそうです。
左右に仁王像がにらみを利かせています。
右が口を開いた「阿形」(あぎょう)、左が口を閉じた「吽形」(うんぎょう)で、二人が呼吸を合わせて行動することから「阿吽の呼吸」って言葉ができたみたい。


山号は「波木井山」です。
この界隈は古くから波木井という地名で、南部實長公はこの地の領主だったことから、通称で「波木井實長」と呼ばれていたようです。
お祖師様も實長公のことをお手紙で「波木井殿」と書いています。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。
このご尊像は遠くから拝めるように配置されており、石垣ギリギリに建てられているので、真下からは見上げるようです。


本堂です。
向拝部分だけでも、そこそこのお堂くらいのサイズがあります。
層状になった屋根もカッコいい!
宮大工が腕を振るって完成させたであろう傑作です。


瓦の一枚一枚に寺紋・・・珍しい紋ですね。JALのマークみたい。


そういえばお寺に至る参道入り口に、こんな石碑がありましたよ。
「日蓮大上人御留錫霊場」
「波木井公日圓上人舊地」

「留錫」は「りゅうしゃく」と読み、お坊さんが行脚中に一時、ひとところに滞在することを言うみたい。
「舊」はご霊跡ではよく見かける漢字ですよね!「旧」の旧字です。


日蓮聖人が身延山に入られて最初に住まわれたご草庵は「三間四面」という造りでした。
「三間四面」は間口が三間つまり約5.4mで四方に庇(ひさし)が廻っている造り


てことは
ご草庵跡の近くにある法界堂のようだったと思われます。


このご草庵が完成するまでの一か月間、日蓮聖人は富士川を望むここ南部實長公の館を拠点にして、甲州を布教して歩いたそうです。
これが「御留錫霊場」の由縁でしょう。


南部實長公はこの場所を、法華経を広めるためのお堂にしました。日蓮聖人じきじきに「波木井山円実寺」と名付けたそうですよ。


のちに南部實長公は出家し、法寂院日圓上人になりました。


日蓮聖人が池上宗仲邸に着いてすぐに南部實長公に向けて書いたお礼の手紙「波木井殿御報」が、石碑に刻まれていました。
右側には日蓮聖人最後の旅の姿が、絵になって刻まれています。


身延山で日蓮聖人の最もお近くにいた南部實長公ですから、日蓮聖人の余命が長くないことは・・・感じていたでしょう。

身延山を下りて常陸に向けて旅立つお祖師様を、どんな気持ちで見送ったのか、そして自分に宛てた最後の手紙を、どんな気持ちで読んだのか、想像すると胸がいっぱいになります。


ウチの菩提寺ではまさにこのブログを書いている今日、お会式法要でした。
各地のご霊跡を巡るようになって初めてのお会式でしたが、お祖師様とお祖師様を支える多くの先師先哲の逸話が思い出されて、感慨深かったです。


円実寺の参拝を終えて帰ろうとしたら、庫裏からおばあちゃんが出てきて、「お茶でも飲んでいきなさいよ~」と言ってくれました。

波木井山の焼印が押されたおまんじゅう、美味しかった!!

妙栄山大蓮寺(横浜市保土ケ谷区神戸町)

2017-10-11 19:34:17 | 旅行
横浜・保土ケ谷
正月の箱根駅伝は、この国道1号線を疾走してゆきます。
ちょうどここは花の2区、難所の権太坂を目前にした勝負どころです!


少し歩くと江戸時代の本陣跡!
歴史の香りがプンプンします。


江戸城に参勤交代に来た大名が宿泊したところみたい。


東海道線をはさんで北側には、旧東海道があります。


東海道五十三次で4番目の宿場、「保土ケ谷宿」です。


いやに人通りが多いな~と思ったら、当日は宿場まつりでした!


山側に少し歩くと・・・


大蓮寺があります。
山の斜面に作られたお寺のようです。


わ~、古そうな法塔!


台座には講中がいっぱい!


山門です。
当日はお会式の直前で、境内に植木屋さんが入って作業の真っ最中!
ご苦労様です!


門扉や板塀は昔のまま。歴史を感じます。


まずは祖師堂に参拝。
お祖師様と鬼子母神がお祀りされていました。


庫裏の中にもお万灯が飾られ、お会式気分が高まります!


祖師堂の裏側に、もうひとつ立派なお堂が!
こちらが本堂です。


山号は「妙栄山」です。


瓦の一枚一枚に「大」の字。


境内にこぢんまりとしたお堂
釈迦堂です。
実はこのお寺、日蓮聖人がまだ「日蓮」でなかった若い頃に宿泊されたご霊跡で、釈迦像にまつわる逸話が残されているようです。


日蓮聖人が21才(というと立教開宗の10年も前ですね!)、まだ名前が「蓮長」で、各地を遊学していた頃の話です。
千葉の清澄から比叡山に向かう途中に、ここ(昔は帷子:かたびらと言われていたようです)にあった、浄土宗を信仰していた民家に宿泊しました。


その際、この家の子供達が釈迦像をおもちゃにして遊んでいるのを目にし、蓮長法師はその誤りを指摘したそうです。
そのときの状況を描いた絵が祖師堂に掲示されていました。
お寺の奥様に許可を得て撮影させて頂きました。中央下側の、犬だか猫だかの脇にある白っぽいものが「釈迦像」です。左端の蓮長法師が家人を諭しています


日蓮聖人はこの釈迦像を開眼感得したそうです。
おそらくこの家の主人はこの時すでに、当時の蓮長というほぼ無名の僧に、深く帰依したと思われます。


その約10年後、日蓮聖人が清澄で立教開宗したと同時に、この家の主人は改宗、自宅を「法華堂」にして例の釈迦像を安置したのが、このお寺のルーツです。
立教開宗とともにスタートしたお寺なわけですから、文字通り日蓮宗最古、ほんとうに長い間、横浜の宗門を支えてきたのでしょう。


わ~、柘榴(ざくろ)だ~!
おっきい木ですね~!


徳川家康の側室・養珠院お萬様がお手植えした柘榴だそうです。


よく熟れてるな~!
そういえば祖師堂に鬼子母神がお祀りされていましたが、関係ありそうですね!


鬼子母神は安産とか子供の健やかな成長のご利益があると言われています。
このお寺と日蓮聖人のそもそものご縁は、無邪気に釈迦像で遊ぶ子供でした。
↑は祖師堂の扁額ですが、次の世代が平和で穏やかな世の中で暮らせるようにとの「願」を立てているのかもしれませんね!


ん?掲示板に何か・・・
港北区のお寺で、寺フェス、あるそうです!こぞうくんも来るそうです。
第二会場の「水行体験」、ちょっと興味あったりして・・・。