日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

吉祥山日朝寺(米沢市相生町)

2019-03-19 17:36:29 | 旅行

昨年訪問した上越高田の日朝寺


佐渡の配流がご赦免になった日蓮聖人が鎌倉への帰途、子供に姿を変えた毘沙門天がここで日蓮聖人をお出迎えしたという逸話が残るお寺です。


時代は流れ戦国時代、毘沙門天伝説のある日朝寺は領主・上杉氏の庇護を受けました。
特に上杉謙信公の毘沙門天信仰はすさまじく、居城・春日山城には毘沙門堂を建立し、軍旗に「毘」の文字を顕したのは有名な話です。


会津に移封された上杉氏は、ちょうど関ヶ原の戦いの頃に徳川氏と敵対していたため、のちに米沢藩に減封されてしまいます。

120万石の会津藩から30万石の米沢藩への大幅減封ですから、財政的にも大変だったはずです。
また、当時の米沢は城下町の整備もなされておらず、それこそ上杉氏最大のピンチだったことでしょう。


当時の藩主・上杉景勝公はまず、養父・謙信公が高田で厚く庇護した日朝寺を米沢に移したといいます。


謙信公をお祀りしている上杉神社からほど近い東寺町という場所には、会津から移ったお寺を中心に、かつて22ヶ寺が存在したそうです。



現在17ヶ寺あります。どのお寺も広大な境内を擁します。



こちらが米沢の日朝寺です。



高田と同じく、泥足毘沙門天をお祀りしているようです。



日蓮聖人のご尊像に合掌。
冬場は豪雪の米沢だけあって、お祖師様の雪対策は万全です!



山門です。
落雪注意の表示がリアルですね。





仁王門だと思われます。
少し高床式になっているのがわかります。これも雪対策の知恵なのかもしれません。



山号は吉祥山です。
上越高田に現在ある吉祥山日朝寺は、米沢に移転したため廃寺になってしまった事を憂いた越後の村田妙法寺20世・日鋭上人が、尽力して再建したお寺です。なので現在、宗門には吉祥山日朝寺が2ヶ寺あります。



本堂です。
冬場も壇信徒が参拝できるよう、二重扉になっています。



境内にはもう一つ、立派なお堂があります。



鰐口には「泥足毘沙門講」「鬼子母尊神講」とあります。
泥足毘沙門天、鬼子母神がお祀りされていると思われます。



毎月18日に縁日、4月10日には大祭が催され、ご祈祷が行われるそうですよ。



上杉家に代々仕えた重臣・千坂家の菩提寺でもあります。
謙信、景勝と苦楽を共にした千坂景親をはじめ、江戸家老や奉行など要職を務めた歴代の墓が並んでいます。



日朝寺を訪問したのは11月中旬、紅葉もピークを過ぎ、そろそろ最低気温が氷点下になる頃でした。



とめどなく落ち葉が降ってきますが、境内は本当にキレイ!



お檀家さん達が一生懸命、境内を掃き清めていました。自分達のお寺を当たり前のように自分達で清めているのです。



現代人はとにかく個人主義、自分さえ良ければ満足、という傾向が強くなってきていると思います。
これは信仰にも言えることで、「当家の卒塔婆」「当家のお墓」「当家の祈願」などで完結している(それも大切なことですが)ように思います。裏を返せば、当家以外は関知しない、余計なことはしたくない、と世間がトゲトゲしてくる・・・これって実は末法、いや法滅なのかもしれません。

日蓮聖人の教えは、万民の幸せがなければ個人の幸せはない、というところからスタートしているはずです。



黙々と作業する日朝寺のお檀家さんの後ろ姿を見ていて、これぞ人が幸せになれる本来の信仰なんじゃないかと、ストンと落ちるものがありました。



境内の石灯籠をはじめ・・・



押し潰されそうな植栽には木材で覆いをしてありました。「雪囲い」というそうです。



家庭用の除雪機もあるんですね~!


日朝寺を訪問した翌週、米沢に初雪が降りました。










成就山妙福寺(南房総市富浦町)

2019-03-17 00:17:57 | 旅行

1253年4月28日、清澄山旭が森で立教開宗の第一声となる「南無妙法蓮華経」を唱えられた日蓮聖人。
(↑画像は清澄寺の日蓮聖人銅像)

当時の清澄寺は天台宗。日蓮聖人の突然の第一声で人々は驚き、地頭の東条景信公に至っては激怒したといいます。
日蓮聖人は山を下りなければなりませんでした。



清澄山を下りた日蓮聖人は、当時の政治の中心地・鎌倉を目指すために房総半島西岸の富浦へやってきました。
ここから船で、対岸の三浦半島に渡るためです。



この船出の地にあるご霊跡が、妙福寺です。



お山を背負ったお寺ですね~!



本堂です。
古い庵、って感じがグッときます!



彫刻が見事!



祖師堂です。
火灯窓がシックな外観にピッタリ合っています。



屋根の下側が赤く塗られているのが特徴的ですね。



日蓮聖人が富浦に到着した当初、風波が激しく船が出せない状況だったといいます。



風雨に打たれ、びしょ濡れになってしまった日蓮聖人は、この岬で松に法衣を掛けてお題目を唱え、海上安全の祈願をされたそうです。
すると風波はピタリと収まり、海上は凪いだといいます。



この奇瑞を目の当たりにした富浦の住民・泉沢権頭(ごんのかみ)太郎は、裸のお坊さんをただ者ではないと直感したのでしょう、早速自宅に招き入れ、自身と二人の弟、そしてお母様とともに日蓮聖人の教えに帰依し、お題目を唱えたのです。
鎌倉での教化より前に、本当の一般人というか、市井のいち市民がお題目を唱えていたのは驚きです。



妙福寺から歩いてすぐの場所には、泉沢権頭太郎のお母様が、びしょびしょに濡れてしまった日蓮聖人の法衣を洗ったと伝えられる井戸が残っています。お母様はその時既にご高齢だったそうですが、ここで一生懸命洗って差し上げている後ろ姿が想像できます。

日蓮聖人は富浦を出船する前に、心優しいお母様に対して「妙福」という法号をお授けになったそうです。僕の祖母もそうですが、女性信徒の法号に「妙」の字が入るようになったのは、これが初めてだそうですよ!



妙福寺の背後のお山、この辺りは地質が岩盤なのでしょう、岩を削ったやぐらの中に泉沢権頭太郎のお母様のお墓があります。まるでご霊跡全体を優しく見守っているような場所です。
当時は全く無名の、素性も知れないお坊さんだったお祖師様を、献身的に供養して下さった心優しいビッグマザーに、感謝の気持ちで合掌しました。



泉沢権頭太郎は1279年に身延山に日蓮聖人を訪ねているようです。
日蓮聖人にとっての一番最初の信徒が、あれからずっと信仰を持ち続け、遠く身延山まで訪ねてくれたこと、どんなに嬉しかったことでしょう。
そして富浦の岬で裸で読経・唱題したこと、そしてお母様が法衣を洗って下さったことが強い印象として残っていたのでしょうね、日蓮聖人は、宗門最高の仏師である日法上人に「裸の祖師像」を彫らせ、泉沢権頭太郎にお授けになったといいます。



歴代お上人の御廟を参拝。
今日まで大切なご霊跡を護って下さり、感謝の気持ちでいっぱいです。



身延山から戻った泉沢権頭太郎が「裸の祖師像」をお祀りするお堂を建立し、日頂上人のお弟子さんの日念上人がこの地に赴いてお寺になったようです。
山号の成就山は恐らく日念上人の院号「成就院」を、寺名は泉沢権頭太郎のお母様の法号「妙福」をルーツとしているのでしょう。



ちなみにこの付近の地名を「南無谷(なむや)」といいます。
古くから信仰が根付いていたことが窺えます。



爽やか系のお上人に、妙福寺の東側に七面山があることを教えて頂きました。
行ってみましょう!



お寺のすぐ後ろを走る内房線の線路をくぐり・・・



線路沿いを富浦駅方面に少し歩き、山側に折れます。
細道には数軒の民家があり、200mくらい歩くと・・・



やがて灯籠が見えて来ます。



富浦の七面山です!
説明看板の最後に和泉沢さんという方のお名前があります。泉沢権頭太郎の子孫の方でしょうか。



階段を上ってゆきます。想像より結構高いぞ~!



お堂がありました。本当に、本当に立派です。



縁起によると、江戸時代、身延山33世・日亨上人が勧請した七面大天女をお祀りしているそうです。



そういえば昨夏、山梨の七面山を登詣する途中、2丁目に「神力坊」というお堂があり、この坊の名付け親が日亨上人でした。
日亨上人は七面山とご縁がとても深い法主様だったのでしょうね。



富浦の七面山、驚くことに更に上に行く階段があります。



恐らくこのお堂が奥ノ院でしょう。
う~ん・・・すごいなぁ!



七面山の上から見る景色は最高!
三浦半島を正面に見て、鎌倉、富士山、そして恐らくその奥に身延山や七面山を望む位置にあります。



交通手段がない遠い昔、身延山や七面山を参詣することは、庶民にとってあまりにハードルが高かったはずです。
そこで特に江戸時代、各地にこうした「うつし霊場」が造られ、住民達が協力して清め、崇めてきたと思われます。



本場と比べて規模が小さいことは仕方ありませんが、それでもこうした階段の一段一段にさえ、本物を造ろうと必死で努力した先人達の息吹が感じられて敬服してしまいます。
これからも各地のお寺を訪れる際には、見過ごしがちな「うつし霊場」に努めて足を運ぼうと思います。




泉沢権頭太郎家族の供養を受けた日蓮聖人は、このあと船に乗り、対岸の三浦半島・米ヶ浜に到着しました。
米ヶ浜に伝わる話からすると、生半可な航海ではなかったようですが・・・。





























太子堂(身延町身延)

2019-03-10 12:35:15 | 旅行
身延山久遠寺の三門。
総本山の玄関口に相応しい偉容を誇っています。


この三門をくぐってすぐ左側に・・・


ひっそりと小さなお堂があります。
太子堂です。
文字通り、聖徳太子をお祀りするお堂です。



聖徳太子は今から1400年以上昔、仏教を中心に据えた国家作りをされた方ですが、同時に多くの寺院や仏像を造立されたことから、民間信仰では大工さんの神様として尊崇されています。



もちろん身延山の諸堂も、宮大工さんはじめ多くの職人さん達によって建築、維持されています。
彼らは「太子講」を結成し、聖徳太子のご命日(2月22日)に、一年の仕事の無事を祈ってきたようです。


現在の太子堂は、三門工事に関わった宮大工さん達によって、大正時代に建立されたものだそうです。
宮大工さんの神様としての太子堂、と言ってしまえばそれまでですが、身延山に太子堂がある意味、実はもっと深いような気もします。


比叡山の学僧だった蓮長法師(のちの日蓮聖人)は、さらに様々な仏教の教学を学ぶため、南都、四天王寺、高野山など多くのお寺を巡りました。
(↑画像は叡福寺・聖徳太子御廟)
そののち建長2(1250)年、叡福寺を訪れ、聖徳太子の御廟を参詣されたそうです。



(↑画像は叡福寺・日蓮聖人御参籠借跡)
蓮長法師は七日間、叡福寺に参籠して今まで自分が学んできたこと、そして究極の教えは法華経であることを聖徳太子にお伝えしたといいます。


聖徳太子の著書に「法華義疏(ぎしょ)」という法華経の注釈書があるそうですから、いかに聖徳太子が法華経を仏教の根本経典と位置づけていたかが想像できます。
(↑画像は叡福寺・日蓮聖人御参籠借跡)
いろいろわかってくると、日蓮聖人が聖徳太子の御廟を参拝されたというのは至極自然なことだな~、と思いますし、同時に身延山に太子堂が存在する意味の深さを、感じます。


身延山の太子堂には、聖徳太子だけでなく、法華経を守護する妙力善神もお祀りされているようです。
これからも法華経を、そして身延山をお護りください。


三門をくぐってすぐ左、ほんとうにすぐそこです!

身延山に参詣の際は、ぜひ立ち止まって合掌し、感謝の気持ちを伝えて欲しいと思います。