日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

具足山妙覺寺(京都市上京区下清蔵口町)

2018-03-29 22:46:38 | 旅行
京都8ケ本山を巡る旅、トリは妙覺寺です。

↑具足山妙顕寺・・・


↑具足山立本寺とともに、三具足山を形成するのが、具足山妙覺寺です。


南北朝時代の終わり頃に、妙顕寺から枝分かれしたようです。
妙顕寺の系譜は開山日像上人、二祖大覚妙実上人、三祖朗源上人と続きますが、朗源上人が遷化されたのち、四世の選考を巡って日実上人と日成上人の兄弟が妙顕寺を離れることになります。
そして篤信者であった小野妙覺尼の外護のもと、永和4(1378)年、兄弟は四条大宮の地に妙覺寺を開創しました。
兄の日実上人は、開創を見届けると備前に下り、当地で遷化されます。
一方、弟の日成上人は自門の信仰指針として「妙覺寺方式」を制定、不受不施制を意識したスタイルで、妙顕寺とは一線を画したようです。
後年、妙覺寺が不受不施派の祖・日奥上人を輩出した源流は、このあたりにあるのかもしれませんね。


山門です。
祖師堂まで遮る建物がないため、遠近感と相まってグっとくる画像です。


山門には足下に太い横柱が渡されています。
境内に入るには必ず一回、立ち止まらなくてはなりませんし、信心ある方はここで合掌することでしょう。


祖師堂です。
三具足山とも屋根の偉容が見事です~!
この日は祖師堂内で、狩野派の画家が手がけた大涅槃図が公開されていました。
実は妙覺寺は狩野一族の菩提寺なのだそうです。


境内に、天文法難の殉教碑がありました。
今回訪問したいずれの日蓮宗寺院も、南北朝~室町時代に苦労して開山し、法華経布教の拠点として発展しはじめた頃に、天文法難に遭っています。
仏教宗派間の衝突ですが、比叡山のような大きなお寺は昔は沢山の「僧兵」を抱えていたそうで、それこそ武装集団に徹底的にやられ、数千~一万人の法華信者が殺されたといいます。

お釈迦様の教え、じゃないですよね・・・。もう二度とこういった紛争が起きないことを祈ります。


ちょっと驚いたんですが、戦国武将・斉藤道三は幼い頃、ここ妙覺寺で得度したそうで、もとはお坊さんだったみたいです。
のちに油商人から武将になったわけですから、文字通り下克上大名ですよね!


道三の息子さんがやはり僧侶で、妙覺寺19世だったことから、あの織田信長が宿として使ったそうです。
信長の京都の宿、といえば本能寺を連想しますが、実は妙覺寺の方が6倍も宿泊数が多かったそうで、タイミングさえ違っていたら「敵は妙覺寺にあり!」となっていたのかもしれないと、学生ボランティアのお兄ちゃんが言っていました!


個人的に興味をそそられたのは
「高祖親刻華芳塔奉安」の文字!
お祖師様が彫られた・・・華芳塔、かほうとう・・・?


本堂の裏側に、その華芳塔(かほうとう)はありました。↑ のお堂に安置されています。
このお堂の中に、それはそれは見事な彫刻が施された、う~ん、2m位?の高さの宝塔があり、さらにその内側に・・・ありました!

お祖師様が比叡山時代、書写した法華経を石塔に納めて密かに立教開宗を祈ったそうですが、その石塔は信長の比叡山焼き討ちで行方不明になってしまっていました。
のちに山本さんという方が焼けただれた石塔を土の中から掘り出し、妙覺寺に奉納したそうです。

石塔のカタチは・・・おっきなキノコみたいで、表面は焼けた感じがわかりました。
もちろん法華経は既に焼失してしまっているそうですが、お祖師様が遺した実物を目にすることができて嬉しかったです。


妙覺寺にはこの他にも、静岡・本覚寺開山の日位上人のお祖母様に宛てて日蓮聖人が書いた「盂蘭盆御書」や、鎌倉・光則寺の土牢に幽閉された弟子宛に日蓮聖人が書いた「五人土籠御書」など、僕が今まで訪ねたご霊跡にゆかりのご真筆が格護されているそうです。

かけがえのない宗宝を護ってゆくのは責任の重い仕事です。感謝の気持ちも込めて合掌し、お寺をあとにしました。
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