日本仏教の歴史を見てみると、仏教が日本に伝来したのは6世紀はじめ、飛鳥時代の頃ですが、当初は権力層が信仰する宗教だったようです。
仏教が庶民に浸透し始めるのは、都が京都に移された平安時代以降だったと言われています。
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まず、多くの日本仏教の源流となった天台宗、高野山の真言宗が、権力からの自立を図りました。
鎌倉時代になると天台宗比叡山から派生した浄土宗、臨済宗、浄土真宗、曹洞宗などが民衆の間に広まりました。
お祖師様が清澄でお題目を唱え立教開宗したのは、これらよりも後で、当時はいち「新興宗教」に過ぎなかったはずです。
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(↑ 画像は鎌倉・小町大路の辻説法跡)
当時の武家政治の中心、鎌倉で日蓮聖人は布教に奮闘し、徐々に弟子信徒を増やしていきましたが、それでもやはり「新興宗教」だったのでしょう。
新興宗教のレッテルを外し、天下公認の仏教としてやっていくためには、天皇が国のために祈願をするお寺「勅願寺」を作ること、そのためには当時天皇が暮らしていた京都で実績を作ることが必須でした。
若い頃に京都にも遊学していた日蓮聖人は、それを痛いほど感じていたのでしょう。
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(↑ 画像は池上・大坊本行寺の御臨終の間)
弘安5(1282)年10月11日、日蓮聖人は孫弟子の経一丸を枕元に呼び、帝都(京都)弘通を遺言されました。
その2日後、日蓮聖人はご入滅されました。
経一丸はのちに日像上人となり、大変な苦労を重ね、元享元(1321)年、京都に初めて開いたお寺が大本山妙顕寺です。
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西日本で最初の法華寺院でもあります。
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妙顕寺は建武元(1334)年に勅願寺として認められました。
まさに日蓮聖人の悲願が果たされたお寺であり、信徒である僕も特別な想いで山門をくぐらせて頂きました。
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境内は奥に広くなっています。
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境内を囲むように9つの塔頭寺院が並んでいます。
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正面に本堂。息を飲むような圧倒的な存在感です。
あとで本堂内で巨大な金丸(ゴォ~ンてやつ)を使ってお勤めさせて頂きました!
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扁額には「四海唱導」の文字。
世界中のあらゆる人々を法華経の教えに導き、その功徳により人々を救う、という意味だそうです。
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このお寺で特に神聖な場所である三菩薩堂を参拝。
日蓮聖人、日朗上人、日像上人がお祀りされています。
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扁額には「鍾真窟」
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三菩薩堂の背後にご真骨堂がありました。
「鍾真窟」の「鍾」はこのお堂の形を表現しているのかな?
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鬼子母神堂です。
このお堂だって普通のお寺の本堂くらいあります。
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目立たないけどこんな石塔がありましたよ!
「基本金 金参百圓 宮内省」
宮内省は昭和24年まで存在した宮内庁の前身なので、結構昔の300円、相当な額の寄付があったと思われます。
ご首題をお願いしている間に拝観させて頂きました。
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客殿を囲んで3つの見事な庭園があります。
当日は快晴・ポカポカ陽気で、しばらく縁側で景色に魅入っていました。
他の拝観者の方もいましたが、みんな静かに庭園を楽しんでいるようでした!
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四海唱導の庭には勅使門があります。
貴人を客殿にお迎えするときだけ使う門のようで、菊の御紋が付いています。
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庭師の方々が丁寧な仕事をされていました。苔に水をやっているんですね!
ご苦労様です!
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光琳曲水の庭です。
江戸時代の大芸術家、尾形光琳は妙顕寺のお檀家さんだったようで、この庭は光琳の絵図をイメージしているそうです。
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孟宗竹の壺庭です。
ネスカフェのCMに使われたこともあるそうです。そう言われれば見たことあるような・・・
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方丈に戻ると、ご首題が出来上がっていました。
噂には聞いていましたが、波ゆり題目、想像以上に揺れています。
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(↑ 画像は鎌倉の海岸)
日蓮聖人に帝都弘通を遺命された経一丸は日像に名を改め、師匠の日朗上人のもとで修行を積みました。
25才の時、冬の鎌倉・由比ヶ浜で、海水に浸かりながら、毎夜百巻の自我偈を誦する修行を自分に課し、百日間ぶっ通しで続けました。
修行の最終日、海面にお題目を描くと、お題目の文字が金色に浮き上がり、波に揺れるように漂ったと言われています。
妙顕寺のご首題はその特徴を継承しているようです。
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修行を終えた日像上人は、越後から北陸を通って上洛しました。
その途次でも多くのお寺や人々を教化し、信仰の拠点を作っていきました。
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京都での布教は本当に苦しい闘いだったと思われます。
それこそ日蓮聖人が鎌倉で辻説法し始めた時と同じ状況、四面楚歌の中で声をあげたのです。
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日像上人が上洛したのが永仁2(1294)年、後醍醐天皇に寺領を賜ったのが元享元(1321)年ですから、実に27年もの間、地道な闘いを続けたわけです。
この27年の間、他宗からの迫害も多かったようです。三回も京都から追放されています。
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賜った寺領は「御溝(みかわみぞ)傍今小路」という場所でした。
鎌倉時代の京都の地図を見ても場所が特定できませんが、大内裏の周囲を取り巻くように流れている細い川が「御溝水」と書かれていることから、いわゆる皇居に隣接している治安の良いところに、初めの寺領を賜ったと思われます。
そして妙顕寺建立からさらに13年後、妙顕寺を勅願寺と認める綸旨が下り、日蓮聖人の教えは天下公認のものとなりました。
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「綸旨」(りんじ)って普段使わない言葉ですが、天皇が仰った命令を、お仕えする役人が紙に書いた公文書のようです。
なので時代が変わっても引き継がれてゆく大事なものだと思われます。
25才で上洛した日像上人、このとき既に65才。
そしてその9年後、74才で遷化されました。
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さらに、後年発生した大干魃に際し、二世の妙実上人が雨乞い祈祷をし雨を降らせた功績により、天皇から日蓮聖人に大菩薩号、日朗、日像上人に菩薩号を賜り、妙顕寺には四海唱導、妙実上人には大覚大僧正の称号を賜りました。
こうして名実ともに確固たる地位を築き、新興宗教ではなくなったと考えられます。
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しかしその後はやはり他の京都の法華寺院と同じく、応仁の乱や天文法難、それから天明の大火などの苦難に遭ってきました。
お寺の場所も転々とし、現在の地には豊臣秀吉の時代に移ってきたということです。
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わずか14才でとんでもなく大きな宗門の夢を託されてしまった日像上人。
人間は誰しも、何かしらのお役目を持ってこの世に生まれてくるといいますが、日像上人は生涯を賭して、一切ブレずにお祖師様との約束を果たしました。
このブログ、実は今回で100カ所目になります!
100カ所目、宗門にとって、とても大事なご霊跡・妙顕寺を巡り、紹介できて幸せです!