日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

発星山本妙寺(熊本市花園)

2019-12-13 10:06:43 | 旅行
火の国・熊本の宗門寺院を訪問してきました!

かつては仕事で何度か訪れた熊本。平成28(2016)年の大地震の時は、心配でニュースを食い入るように見ていました。
大地震以来、初めての訪問だったので、期待と心配でいっぱいでした。


お寺に行く前に、加藤清正公が築いた熊本城を訪問。
鉄骨の支えや大きなクレーンが据えられ、大手術のまっただ中という感じです。


あわわわ・・・あの美しかった石垣が見るも無惨に崩落してる・・・言葉が出ない・・・。


ニュース等で聞いてはいましたが、ホント、ギリギリのところで櫓が落ちずにいるのがわかります。
これ以上の余震が来ないことを祈るのみです。


完成時期を急がず、将来の災害にも耐えうる熊本城に生まれ変わらせて欲しいものです。


熊本城の北西の丘から熊本市内を眺めました。
人口74万人、九州では福岡、北九州に次ぐ第3の大都市です。


この景色が眺められる丘に、加藤清正公の御廟を擁する本妙寺があります。
巨大な仁王門が迎えてくれます。


扁額には山号の「發星山」。
星が現れる、みたいな意味でしょうか。


北九州・小倉で土木建設業を営んでいた小林徳一郎氏が、大正時代に自ら建設・寄進したそうです。
実は出雲大社の大鳥居も、小林徳一郎氏の寄進だそうで、神仏への崇敬の深さが窺えます。


ただ悲しいことに、大地震で相当傷んでしまったようです。


二次災害を防ぐために、仁王門は立ち入り禁止になっていました。


仁王門を過ぎると真っ直ぐな参道が境内の奥に続いています。



塔頭寺院がたくさんあります。


幼稚園もあります!


ひときわ立派な山門がありました。


扁額には「勅願道場」の文字。東郷平八郎元帥の揮毫のようです。
「勅願」ですから、時の天皇の指示で国の安泰を祈願した、いわば天皇公認のお寺ってことでしょう。


山門をくぐると巨大なお堂に至ります。本妙寺の本堂です。
屋根の広がりが見事です。
もともと本妙寺は、加藤清正公が父の菩提を弔う為に大阪に創建された瑞竜院というお寺がルーツだそうです。
お父様である加藤清忠公は、尾張名古屋の刀鍛冶職人だったといわれています。


のちに清正公が肥後国に入るのに伴い、瑞竜院は熊本城内に移され、その際に寺名を本妙寺に改称したといいます。
慶長16(1611)年に清正公が亡くなり、遺言により中尾山の中腹に御廟が設けられました。
その3年後に熊本城内の本妙寺が焼失してしまったのを機に、現在の御廟の場所に落ち着いたようです。


明治10(1877)年に勃発した西南戦争で、熊本は最激戦地となってしまいました。
このとき本妙寺の本堂も焼失してしまったそうで、現在の本堂は明治17(1884)年に再建されたといいます。


本堂の脇にひっそりと建っているのは、寛政の津波で犠牲になった方々を供養する宝塔です。


寛政4(1792)年に起きた有明海対岸の雲仙山系・眉山の山体崩壊で、海に押し寄せた土砂が10mもの津波を引き起こし、肥後を襲ったそうです。
更には肥後にぶつかって跳ね返った津波が再び島原を襲い、両岸合計で15000人以上が犠牲になったといいます。
海の向こうで起きた災害のとばっちりを受けたということで、「島原大変 肥後迷惑」と呼ばれていますが、ホント、世の中何が起きるかわからないですよね・・・。


それにしてもこの寛政津波の供養塔、何か足りないと思いませんか?
そう、最上部の相輪が失われているんです。恐らく熊本地震で折れてしまったと思われます。
古くから熊本が自然災害に翻弄されてきたことを、これほど如実に物語っている宝塔はないでしょう。


本堂を過ぎると参道は清正公の御廟に続く長~い石段になります。
胸を突くような石段、ということで「胸突雁木」と呼ばれています。


御廟を護る狛犬は・・・ん?虎?


しっぽの形といい、清正公に因んで虎を配置しているのかもしれません。


地元熊本の暮らしを支える九州産交の社名も刻まれています。


通常、胸突雁木の中央部には沢山の石灯籠が並んでいるようなのですが・・・
地震により、ことごとく倒れていました。あまりの惨状に声も出ません。
法華信仰の証として、あるいはお祖師様や清正公への報恩の誠を捧げるために、全国の篤信者たちが寄進した、ひとつひとつに想いの詰まった石灯籠です。
本当にやるせない気持ちになりました。


胸突雁木を登り切ると、いよいよ御廟域に入ります。
中門は、何となく大陸の雰囲気が漂います。


清正公のお墓は「浄池廟」といいます。


浄池廟の拝殿です。
この拝殿の奥に・・・


本殿がある造りです。
お寺の縁起によると、本殿全体が清正公のお墓になっており、建物の真下に清正公が葬られているそうです。
ここは自身が築かれた熊本城の天守と同じ高さ。意味のある場所なんですね!
九州はもちろん、日本全国に信仰の種を播いてくれた清正公に感謝し、合掌唱題しました。


お寺の沿革が石に刻まれていました。


もともとは「法性山」という山号だったようですが、本妙寺開山の日真上人の夢に従って文字を変え(発音は同じ)、「発星山(ほっしょうざん)」と改称した旨が刻まれていました。


本殿を囲むように、清正公ゆかりの方々のお墓やお堂が並びます。
金宦(きんかん)さんのお墓です。
金宦さん(良甫鑑)は清正公により日本に連れてこられた朝鮮の方だそうです。
二百石を与えられ、日本人と結婚して子供にも恵まれましたが、清正公が没すると後を追うように自刃しています。
もともと捕虜だった侍が、これだけ手厚くそれも御廟域に葬られているのですから、清正公とは相当強い信頼関係があったのでしょうね。


栗毛堂です。
清正公の愛馬をお祀りしています。その名も帝釈栗毛。法華信仰の篤い清正公らしいネーミングです。

「江戸の往来で、ならずものにぶつかったとしても、帝釈栗毛だけは避けて通れ」という意味だそうです。

見た目かわいいんだけどなぁ・・・荒くれの馬だったんですね。


筆を持ったお猿を模った、論語猿です。
ある日、論語を読んでいた清正公が部屋を中座した隙に、飼っていた猿が清正公をまねて、朱墨のついた筆を持って論語の書物を塗りつぶしてしまいました。
これを見ていた清正公は叱るどころか、勉強のまねごとをする姿に感心し、猿をほめてやったということです。

軍神とまでいわれた清正公ですから、もちろん武勇伝には事欠きませんが、一方で「部下を褒めた」逸話も沢山残る戦国武将です。
上から押さえつけるのではなく、良いところを見つけて伸ばす上司だったのでしょう。
善政で肥後を治めた清正公の人柄は、この論語猿に象徴されているのかもしれません。


これ、何だかわかりますか?

お百度参りのカウント用の板なんだって!
お百度石は宗門寺院でも時々見るけど、カウンターが常備されてるお寺は初めて!
それだけ「困ったときの清正公」が浸透してるんですね。


御廟域を過ぎ、更に上りの山道を歩きます。
胸突雁木どころじゃない、心臓破りの300段の石段を休み休み登ります。


石段を登り切ると、整備された広場に出ます。
正面に加藤清正公の銅像がそびえ立っています。
清正公は槍の達人、それこそ賤ヶ岳の戦いでは「賤ヶ岳の七本槍」として勇名を轟かせたくらいですから、槍を手にした立像は迫力満点です!
長崎平和祈念像の作者として有名な、北村西望氏の制作だそうです。


加藤清正公はまだ幼少の時分にお父様を亡くし、伊都さんというお母様に女手一つで育てられました。
このお母様が熱心な法華信者であったことと、子供時代に学び舎として通った法華のお寺のお上人の感化により、清正公の法華信仰は培われていったといわれています。
豊臣秀吉の生母と伊都さんが従姉妹であった縁から、清正公は秀吉に仕えたようです。


秀吉の家臣として武功を挙げ続け、豊臣政権の重臣にまで上り詰めましたが、石田三成とソリが合わず、関ヶ原の戦いで東軍の武将として活躍したのは有名な話です。
のちに家康から肥後国を与えられ、熊本城の改築をはじめ、領内の治水、農業振興など善政を行ったといわれています。


清正公が50才でこの世を去り、遺言に則りこの地に浄池廟が設けられました。
しかし三男・忠広公が跡を継いだのもつかの間、加藤家は改易されてしまいます。
一説には、「豊臣家と血縁関係のある元重臣」を、徳川家が警戒したから、ともいわれています。


浄池廟の門前に、忠広公が亡き父を偲んで建立した常夜燈があります。
常夜燈に火を灯すと、遠く熊本城からも浄池廟の場所がわかるそうで、忠広公は朝に晩に、こちらに向かって手を合わせていたといいます。
また、加藤家に替わって入封した細川忠利は律儀な方で、亡き清正公に最大限の敬意を払い、やはり浄池廟に向かって拝礼していたとか。
こうした行いが庶民にまで伝播し、現在まで続く「清正公信仰」となったのかもしれません。


それにしても、熊本地震の影響が広大な境内の隅々にまで及んでいたことに、本当に心が痛みました。
数百年かけてコツコツ築いてきたものが、いとも簡単に崩れてしまうことに、空しさすら覚えます。
しかし明日、自分が住む場所で起きることかもしれません。


地震とか津波などは、どんなに科学が進歩しようとも、人の力で止めようがないでしょう。
そういった意味では、やはり天変地異に翻弄されていた日蓮聖人の時代と、何ら変わらないのかもしれません。
本当の意味で心の拠り所が求められている時、だと思います。



熊本地震の被害に遭われた多くの方々に、謹んでお見舞い申し上げます。