前回は、小松原法難後の日蓮聖人が、湯治をされたという伝承がある、那須のご霊跡を紹介しました。
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(小川泰堂著「日蓮大士真実伝(復刻版)」ニチレン出版)
小川泰堂居士の著書「日蓮大士真実伝」によれば、文永2(1265)年の春、下総を発った日蓮聖人は、常陸国を経由して那須に至った、ということでした。
相当な長旅、どこか途中で宿泊された場所はなかったのかな?
あれば日蓮聖人が那須で湯治をされた、という説の根拠にもなるんだけどなぁ…
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調べていたら、日蓮聖人が那須へ向かう途次、しばらくご滞在されたと伝わるご霊跡が見つかりました!
今回は栃木県高根沢町の妙福寺です。
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高根沢町は、宮内庁の御料牧場があることで知られています。
御料牧場は、皇室の方々が口にする食材の多くを生産する場所です。昭和42(1967)年の成田空港建設に伴い、高根沢町に移転してきました。
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広大な牧場は、皇族方の静養場所にもなっています。
昨年、天皇皇后両陛下が「ごっつんこ」された微笑ましい動画は、話題になりましたよね!
高根沢町一帯は、稲作も盛んです。鬼怒川から引いた用水路が整備されているため、水が豊富なんだとか。
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苗がぐんぐん成長しています。
温暖化で米が穫れなくなってきてるといいますが、今年は豊作を期待しましょう!
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鬼怒川の河岸段丘(喜連川丘陵)上には、古道「辰街道」が南北に通っています。
この古道沿いに、妙福寺があります。
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大きな門柱が山門代わりになっています。
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火灯窓が印象的な本堂です。
お堂の天井に天符が貼られているのがチラッと見えました。
御祈祷のお寺なのでしょうね。
山号は「長榮山」です。
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(妙福寺本堂の扁額)
「栄」の旧字は「榮」ですが、池上のように火伏せの目的で土二つを充てたお寺もあるなか、こちらは火二つです。
実はこの「榮」の字、花の美しさとか、温かみのような意味合いもあるようですよ。
お寺に向かう前に電話を入れましたが、ご住職は先約があるそうで、直接お話は伺えませんでした。ちょっと残念!
(境内をゆっくり見させていただく許可はいただきました。)
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はて、日蓮聖人がご滞在されたという逸話について、何か手掛かりはないだろうか・・・
と思っていたら、参道脇に妙福寺の縁起を刻んだ碑がありました。
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昭和7(1932)年、妙福寺42世のお上人代で建立された板碑です。
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碑文によれば、日蓮聖人がこの界隈を訪れたのは「小松原法難の後 那須温泉入湯の途次」だったそうです。
お、つじつまが合うぞ!
日蓮聖人がここからほど近い烏麦村にさしかかった頃には、すっかり暗くなってしまい、お弟子さん達とともに、近くのお堂で一夜を明かすことにしたそうです。
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(旧烏麦村付近にあるお堂:宗祖御一泊のお堂かは不明です…!)
そこは偶然にも、お釈迦様をお祀りするお堂だったといいます。
お堂の中で夜通し法華経を唱えているうちに、空が白んできました。
村人たちが何事かと、集まってきました。
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(旧烏麦村付近の田園風景)
日蓮聖人は村人たちに、わかりやすくお説法をしたそうです。
そして村人たちもその教えをよく理解したのでしょう。
村人たちは、このお坊さんならば!と、悩みを打ち明け始めました。
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烏麦村から隣村に行くには、山道を抜ける必要がありましたが、当時、近くの池には毒蛇が棲んでおり、「屡々(しばしば)村民の危害を被る所となり 其の悲惨な事 例ふべからず」、つまり噛まれて命を失う人が続出していたのです。
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話を聞いた日蓮聖人は、村人に「絹川(鬼怒川)より清浄なる小石数万個を採取」して来させました。
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そして「大聖人も一石一字の経を書写して塚となし 門弟日〇(※)日法の二人と共に祈願大行せられ」ると、
(※)刻字が達筆で読めず。日「興」上人か?
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「忽ち毒蛇を駆除」し、それ以後、毒蛇は現れなくなり、村人は安心して山道を往来できるようになったということです。
いわゆる一字一石経という修法でしょう。
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(石和・鵜飼山遠妙寺境内の説明板)
僕が今まで参拝したご霊跡では、石和の鵜飼山遠妙寺で、似たような逸話がありました。
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(石和遠妙寺境内、済度された鵜飼の霊をお祀りするお堂)
成仏できない鵜飼の亡霊が悪さをし、土地の人が悩んでいたところ、日蓮聖人が法華経の経文を書いた69,384個の小石を川底に沈めて供養、亡霊は成仏できたということでした。
マムシやヤマカガシといった日本の毒蛇は本来、非常に憶病で、近づいてつっついたりしなければ、攻撃してくることはありません。
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(旧烏麦村付近の田園風景)
烏麦村の毒蛇は、鵜飼の亡霊と同様、成仏できない魂が姿を変えて悪さをしていたのかもしれませんね。
日蓮聖人は烏麦村に「数旬之間 留錫(※)」されたと石碑に刻まれています。
(※)行脚中のお坊さんが滞在すること
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一旬が10日間ですから、数十日間はこの界隈(鈴木隠岐の守豊重公の館)に滞在し、「説法、祈願等を親修せられた」のでしょう。
村人は大喜びですよね!
ただ、日蓮聖人の本来の目的地は、那須温泉です。
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烏麦村を去ろうとすると、村人が別れを惜しむので、随従していた弟子の日法上人(宗門屈指の仏師)に日蓮聖人のご尊像を刻ませ自らが開眼、当地に遺していったといいます。
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(妙福寺境内にある柘榴の木)
烏麦村の住民たちは、祖師像をさぞ大切にしたでしょうし、またこの村を中心として独自に法華信仰が護られ、少しずつ広まっていったと考えられます。
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(小松原法難翌年の日蓮聖人の推定足跡)
これだけの逸話があるわけですからね~!
日蓮聖人が那須温泉に湯治に行かれたという伝承は、さらに真実味を帯びてきました。
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妙福寺歴代お上人の御廟を参拝。
宗祖直々のご霊跡を、今日まで護持してくださった先師達に、心から感謝致します。
墓誌には44世までのお上人が刻まれています。
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開山は…日什大聖師、すなわち室町時代の傑僧・玄妙阿闍梨日什上人です!
日什上人は、ここからそう遠くない会津の出身、もともとは「玄妙」という天台僧でした。
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(日什上人画像:磐田玄妙寺縁起より引用)
相当頭が切れる方だったようで、比叡山のトップ・学頭にまで上り詰めました。
のちに比叡山を下り、故郷会津に近い羽黒山で活動されていたようです。
のちに比叡山を下り、故郷会津に近い羽黒山で活動されていたようです。
66才の時、ひょんなことから「開目抄」「如説修行抄」を読んで衝撃を受け、改宗して法名を「日什」と改めました。
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(日什上人生誕・遷化の地である会津妙國寺の日什上人御廟)
日什上人のすごいところは、高齢にもかかわらず何度も上洛し、遂には天皇に上奏、一派を導き(※)公武にわたって法華経を弘めたことでしょう。
日蓮聖人滅後100年が過ぎ、宗門各流派が本家争いに明け暮れる中、日什上人は純粋に宗祖のスタイルを貫き、とにかく布教活動に力を尽くしたのです。
(※)現在の顕本法華宗の淵源
古希間近になっても気力は衰えず、各地に多くのお寺を開山しています。
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(飯田本興寺の題目碑「開山日什大聖人」)
ちなみに、僕が以前参拝した横浜市飯田の本興寺は、弘和2(1382)年、日什上人69才の時に開山(※)していますし、
(※)もともと宗祖鎌倉辻説法の霊地に直弟子の天目上人が開創したが、天目上人は迹門不読を是としており、のちに住持となった日什上人が、事実上の開山上人とされる。
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(磐田玄妙寺の日什大正師頌徳碑)
磐田市の玄妙寺は元中2(1385)年、日什上人72才での開創でした。
妙福寺も恐らくその頃に、日什上人が正式なお寺として開いた、と考えられます。
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先ほどの石碑には、「日什大聖師 京都より会津へ往還の節」烏麦村を通りがかり、村人に「再三親教し 化導成満」したと刻まれています。
それより100年以上も昔、この地に宗祖直々の逸話があり、今も法華信仰が息づいていることに、日什上人は驚いたことでしょう。
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その100年以上の「空白の期間」、村人がどうやって信仰を継続していたのか、そもそもお坊さんがいたのかとか、僕も非常に興味があります。
そのヒントとなりそうなのが、このお寺の説明板です。
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妙福寺には寺宝として、近くで発見された題目板碑が2基、格護されている旨が書かれています。
板碑は板状の石を加工して造立される供養塔で、14世紀に全国で流行したといいます。
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以前訪れた東秩父の浄蓮寺では、地元の緑泥石片岩を加工した石塔婆↑が沢山ありました。
妙福寺の題目板碑も、こんな感じかもしれません。
日蓮聖人が去り日什上人が訪れるまでの時代に、2基の板碑は造立されたようですから、その「空白の期間」、村人達は何か深い想いを込めた板碑建立を、共通の目標としてお題目修行していた、そう推測します。
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(妙福寺の題目板碑は、高根沢町の有形文化財となっている)
本当に純粋な信仰だったのだと思いますし、それがまた日什上人のスタイルとよく合ったのでしょうね。
最後に、今回のブログを書くにあたって調べた高根沢町の郷土資料集に、興味深い記述があったので、引用させていただきます。
「栃木県内の寺院を宗派別に見ると、真言宗が圧倒的に多く 次いで曹洞宗、天台宗、浄土宗と続く。」
「高根沢町には、真言宗が五カ寺、日蓮宗が四カ寺、曹洞宗と真宗が各二カ寺である。」
「県内で日蓮宗の最も多いのが宇都宮市の五カ寺、次いで高根沢町の四カ寺、鹿沼市と大田原市、矢板市の三カ寺である。寺院数や人口との比率から見れば高根沢町の四カ寺が最も多く、主に県北地方に教線の広がっていることがわかる。」
(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム 町史コラム「高根沢と日蓮宗」より引用)
お祖師様が直々に蒔いた信仰の種が、村人の丹精によって芽を出し、日什上人の導きでゆっくりと成長し、根を張り、見事に花を咲かせた…。
高根沢町は間違いなく、下野国における法華の聖地なのでしょう。
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妙福寺を訪問したのが4月初旬、境内の巨大な枝垂れ桜が満開でした!
(参考文献)
・「高根沢町史」(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム)
・「高根沢町郷土誌」(高根沢町)
・「高根沢町史」(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム)
・「高根沢町郷土誌」(高根沢町)