毎日、ウクライナから悲しいニュースが発信されています。
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強大な権力と武力によって、市民の平和な日常が、こんなにも易々と、無残に壊されてゆくのかと、暗澹たる気持ちになります。
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実はつい先日、身延山を参拝してきました。
戦争が一日も早く終結するように、人々に平穏な時間が訪れるようにと、朝勤で一心に祈りました。
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その日、祖師堂でのお経は「常不敬菩薩品第二十」でした。
「たとえあなたがどんな人であっても、あなたは仏になりうる人だから、私はあなたを敬います」と、常不敬菩薩は分け隔てなく、合掌礼拝し続けたそうです。
それこそが法華経なのだと、お祖師様はご遺文に書かれています。
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僕はお経を唱えながら、今、仮にロシアのプーチン大統領が目の前にいたとして、同じように合掌礼拝できるだろうか?と考えました。
・・・今の僕にはどう考えてもできない、できるわけない。それは僕が凡夫だからなのか???
こんなに悶々としながら身延山を後にしたのは、初めてでした。
僕と同じように、多くの人がやり場のない悲しみ、怒り、不安を抱いていることでしょう。それこそ鎌倉時代を生きた庶民達と、何ら変わりありません。
今、法華経から学ぶこと、宗門としてできること、宗門だからできること、何でしょうか?
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みんなでお題目を唱える、確かに大事なことだと思います。
しかしもっと心にストンと落ちる何かを今、人々は求めているのだと思います。
宗門の、仏教の、存在意義が問われているような気がしてなりません。
・・・すみません、変な入り方をしてしまいました。
前回は、日蓮聖人が天台慧心流の「伝法灌頂」を受けた、という逸話について書かせていただきました。
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中院の山門前に建つ石碑↑によると、日蓮聖人は建長5年4月28日、立教開宗をすると直ちに、師僧である尊海上人のもとを訪ねて「伝法灌頂」を受戒、衆生を教導できる阿闍梨位を得たということです。
世間的には全く無名な日蓮聖人が、これから一宗派を開くにあたって「伝法灌頂」を受けに、わざわざ川越まで訪ねて行かれた・・・。
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これには何か特別な理由があったのではないか?実はご自分の法縁、法脈を確認しておくために、必要不可欠な儀式だったのではないか?・・・なんて勝手に憶測を巡らせました。
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ところでこの石碑の存在、伝法灌頂の事実は、世間的にはあまり知られていないように思います。僕も石碑を見つけたのは偶然でした。
日蓮聖人が実際に川越を訪れたという証拠が欲しい、と思って調べてみると・・・
こんなお寺がありましたよ!
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中院からみて北西に2km位でしょうか、末広町という所にある日蓮宗寺院・妙養寺です。
大きな空襲を受けなかったせいでしょうか、川越は古い町割りがそのまま残っています。
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妙養寺の前の道も、結構細くて一方通行になってます。おまけに平日の朝は歩行者専用になるのでご注意!
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特徴的な山門ですね!なかなかお目にかかれないタイプの・・・こういうのを冠木門っていうのかな?
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本堂です。
ベースの造りは剛健でありながら、唐破風から屋根に続く曲線が華やかです。腕のいい職人さんの仕事を感じます。
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境内の東側に小さなお堂が二つ、並んでいます。
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左側は七面様をお祀りしていると思われます。
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右側は…九曜紋、妙見様ですね。
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小さなお堂でも、建立や護持は大変なことです。川越法華衆の信仰に護られてきたきたのでしょうね。
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山門横に建つ題目法塔
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台座には「身延日楹上人 六十七代」と刻まれています。
身延山六十七世に智鏡院日楹(にちえい)上人という方がいます。
江戸末期、嘉永~安政年間に法主様でおられた方の揮毫のようです。
注目は右側面の刻字です。
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「宗祖大菩薩 去文永十一年戌三月中浣 一七日之間御逗留之霊場」
最初の部分と最後の部分を抜粋すれば、日蓮聖人が1×7=7日間、お泊りになられたご霊跡、ということで間違いないでしょう。
ただ、気になるのはご逗留された時期です。
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「去(いぬる)文永11年3月中浣」(←はじめこれを「中院」のことかと思いました。昔はひと月を3分割して上浣・中浣・下浣と呼んでいたそうなんです。今の上旬・中旬・下旬のようなものでしょう。)
文永11(1274)年といえば、日蓮聖人52才、佐渡で三度目の正月を迎えた年です。
2月14日付で幕府から赦免状が出され、3月8日に赦免状が佐渡に到着します。
3月13日に佐渡を出港し、26日に鎌倉に帰られた・・・とお祖師様のご遺文に書かれています。
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3月中浣(中旬)、佐渡からの帰路ですから、川越付近も歩かれたのかもしれませんが・・・う~ん、52才のお祖師様が海を越え、山を越え、懸命に鎌倉を目指している状況で、一週間のご逗留をされたとは・・・僕は考えにくいですが、真相はどうなんでしょう???
いろいろ資料を漁っていると、興味深い記述を二つ、見つけました。
一つは大正10年に出版された「日蓮上人一代圖會」です。
要点を抜粋し、現代語に訳します。
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「比叡山遊学を終えた蓮長(日蓮聖人)は、伊勢大廟での祈願を済ませ、安房へ帰る途中、少し迂回して川越を訪問した。川越には蓮長の父・貫名重忠の旧友が暮らしていたからである。
高齢の夫婦は蓮長の来訪をそれはそれは歓待してくれた。また(蓮長の)両親の健在を知り、とても喜んでくれた。
蓮長が滞在中、夫婦はその教えに深く帰依、『ここに住んでお寺を開き、教えを弘めて欲しい』と懇請した。
夫婦の志に胸を打たれた蓮長は、夫に「蓮信」、妻に「妙養」の法名を授けた。」
何となくこっちの方が、整合性がありますね!
もう一つは、明治17年に内務省地理局が刊行した「新編 武蔵風土記稿 入間郡之七」に書かれていた当時の妙養寺梵鐘の銘文です。()内は僕の下手な訳文です。参考までに。
「武州川越 蓮信山妙養寺相傳 高祖遊學之處 居士蓮信 其妻妙養 篤奉三寶 遂帰我祖 捨宅爲寺」【抜粋】
(妙養寺に伝わることには 蓮長法師ご遊学の地 夫婦は深く帰依 蓮長法師が帰る際 住まいを寺と為す)
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訳はともかく、昔の梵鐘には「高祖遊學之處」と刻まれていたようですね!
僕はこう考えます。
一宗一派を開く前に、蓮長法師は尊海僧正に会わなければならなかった。
そのため川越の仙波檀林(中院)を訪問することになった。
川越といえば、父親の旧友が暮らしていると聞いたことがある。
できればそのお宅に寄宿させてもらい、尊海僧正のもとに通いたい…。
そんなことで蓮長法師は夫婦を訪ねたのではないでしょうか。
時は巡り室町時代、日在上人がお寺を再興、夫婦の法名から「蓮信山妙養寺」としました。
歴代お上人の御廟を参拝。
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川越では最初の法華道場、というより、宗門でも相当初期のお寺です。
これまで法灯を継いでくれた先師たちに深く感謝致します。
開山上人として日在上人が刻まれていました。
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院号は琢性院です。
「琢」という字は訓で「みがく」と読み、玉を磨く的な意味があるそうです。宗祖ご逗留の霊跡を再興させることで、日在上人は自分の内側にある仏性を高めたのかもしれませんね。
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妙養寺への参拝ついでに、川越市立博物館を見学!
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江戸時代の川越市街を模したジオラマがあり、釘づけになりました。
妙養寺はA地点になります。
こう見ると門前の道には軒が連なっていますね!当時は門前町がある大寺だったのかもしれませんね。
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ちなみに中院がB地点あたりです。A~B間は1kmもないでしょう。
妙養寺(A)を川越滞在中の宿舎とするには、うってつけです!
日蓮聖人が尊海僧正に会うために中院を訪れた、その時に寄宿したのがこの場所、というストーリーを勝手に描きましたが・・・真相はどうなんでしょう。
まぁ、これもご霊跡めぐりの面白いところで、諦めかけていた頃に、思いがけずヒントが見つかることもあります。
ご霊跡めぐりの旅、まだまだ続きそうです!