日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

妙喜山法華寺(京都市上京区下堅町)

2022-11-01 14:53:29 | 旅行
この9月はじめ、コロナ7波も下火になり、入国制限も解かれていない今だ!と思って、4年ぶりに京都に行ってきました。

修学旅行シーズンでもなかったせいか、大した混雑もなく、また天気にも恵まれ、有意義な1泊2日でした。
何ヶ所かの宗門寺院にも参拝できましたよ!

今回はそのうち、上京区の法華寺を紹介させていただきます。


僕は4年前、京都八本山の一つ、立本寺を参拝させていただいています。
(↑具足山立本寺)
その時は確かレンタサイクルで巡っていたのですが、立本寺からほど近い道端に、立派なお題目の法塔を見かけました。
「あぁ、ここにも日蓮宗のお寺があるんだ~」と特段気にも留めず、次の目的地・妙顕寺に向けて自転車を走らせた記憶があります。

今思えば、それが法華寺だったんですね・・・。


(↑岡山・仏住山蓮昌寺)
のちに岡山県のお寺にもお参りさせていただく機会がありました。
備前法華の祖・大覚大僧正についていろいろと調べてゆくと、京都の法華寺は、大覚大僧正を語る上で欠かせないご霊跡であることがわかりました。

あの時、ちゃんと参拝すれば良かった・・・としばらく悔やんでいた、ちょっぴり因縁のお寺なんです。


法華寺参拝の前に、菅原道真公をお祀りする天神様の総本社、北野天満宮をお参りさせていただきました。
(↑北野天満宮本殿)
実は、僕が生まれ育った小田原市国府津にも、鎮守様として菅原神社があります。僕は天神様に見守られながら育ったという自覚があり、いつか北野天満宮をお参りさせていただきたいと思っていたので、願いが叶いました!


法華寺のご住職がお寺にいらっしゃる時間までまだ少しあったので、北野天満宮の隣にある花街・上七軒を見学。
お茶屋さんの街並みにうっとり。
でも僕には一生ご縁がなさそう・・・笑



一軒の洋食屋さんでランチ!
煮込みハンバーグが革命的に美味かったです。


その洋食屋さんの奥様から、和楽(10・11月号)という雑誌に、そのお店が紹介されたと教えてもらいました。
(小学館・和楽10・11月号:京ことば都がたり)
何と!記事を書かれているのは三笠宮の長女・彬子(あきこ)女王ではないですか!
和楽にご自分の担当ページを持たれており、意外とさばけた文章で読みやすいです。
実は彬子様、北野のお近くにお住まいだそうで、その洋食屋さんにはたびたびお食事にいらっしゃるのだとか。(もちろんSPさんも一緒みたいです。)
さすが京都、今も昔も皇室の方が身近なんですね!



法華寺は北野天満宮から一本道、5分ほど南に歩きます。
周辺は昔ながらの町屋とお寺が混在していて、ぶらぶらしているだけでも和みます。


改めて地図で見てみると、法華寺は立本寺の西、ほんの2ブロック位しか離れていません。

4年前に見たのはこの題目碑だ!独特の字体ですよね。
重厚な山門をくぐって境内に入ります。



山号は妙喜山です。


聡明そうなご住職にご首題をお願いし、本堂を参拝。

内陣の中央に日蓮大菩薩、向かって右側に日朗、日像菩薩、左側に大覚大僧正と中興の日進上人の、それぞれのお像がお祀りされていました。
よく清められた御宝前で、気持ちよくお経をあげさせていただきました。


庫裡で麦茶をいただきながら、ご住職にお寺の歴史をうかがいました。
(当日はなかなかの残暑、冷たい麦茶がめっちゃ美味かったです!)

法華寺のある場所は、2つの重要な出来事の、由緒地であるそうです。


一つ目は、上洛した日像上人が、たびたび辻説法されていた場所であること、そしてもう一つは、大覚大僧正が改宗するきっかけになった場所だということです。
(↑法華寺境内にある題目塔)
日蓮聖人のご遺命を受け、永仁2(1294)年に上洛した日像上人ですが、京都には知っている人も頼るあてもない、まさにゼロからのスタートでした。
とにかくどこかで布教を始めなければいけない、ならば京都でいちばん賑わっている所でやろうじゃないか、ということで、日像上人が狙いを定めたのは、北野天満宮でした。



北野天満宮から南へ延びる道は「御前通り(おんまえどおり)」といいます。「北野天満宮の御前の通り」がその由来だそうです。


(↑御前通り)
洛中一のパワースポット、そのご利益にあやかろうと、当時はそれは多くの人でごった返していたことでしょう。
日像上人はこの御前通り沿いで、辻説法を始めたのです。


(↑御前通り)
こんな感じの道端でやられていたのかな・・・。
京都は街並みがクラシックなので、当時のお姿を想像しやすいです。


お上人に懇願して、本堂にお祀りされているお像の画像を撮らせていただきました。
これは日像上人の辻説法姿を刻した、珍しいお像だそうです。
(↑日像上人坐像)
なんか、カゴ的なものに座られていますよね!
日像上人は草刈り籠に腰掛けて、道行く人々に法華経の教えを説いていた、と伝えられています。
日蓮聖人のいわゆる「獅子吼」スタイルと比べると、なかなかフランクなお姿ですよね。それこそギターでも抱えたら路上ライブでも始めそうな・・・辻説法もある意味、路上ライブでしょうけど!


日像上人は、とにかく弁の立つお坊さんだったようです。
(↑北野天満宮・一の鳥居)
天神様の門前ですから、不安がある人、願いがある人も歩いていたのでしょう。
一人二人と歩みを止め、しばしお説法に聞き入りました。



入信者は徐々に増えてゆきました。特に職人さんなど商工業に従事する方が多かった、といいます。
(中には大商家の主人などもおり、のちに京都日蓮教団を支える有力な檀越となったようです。)


当時十代だった妙実上人(のちの大覚大僧正)も、辻説法から入信した一人です。

(↑法華寺山門前の石碑)
嵯峨大覚寺に仕える真言僧だった妙実上人は正和2(1313)年、日像上人のお説法をこの場所で七日間にわたって聴聞し、納得するものがあったのでしょう、このとき改宗されたそうです。



今回、北野白梅町から嵐電に乗って、嵯峨の大覚寺も訪問させていただきました。


平安時代に嵯峨天皇が造営した離宮をルーツとする大覚寺は、皇室や公家の人々が出家して住職を務める、いわゆる門跡寺院です。(真言宗大覚寺派)
(↑嵯峨山大覚寺の石舞台、勅使門)
妙実上人の出自は諸説ありますが、いずれの説も公家出身です。
なかでも近衛家の生まれであろう、という説が有力のようです。


これは日像上人の辻説法に聞き入る妙実上人を描いた絵ですが、輿に乗っているのが、妙実上人です。優雅ですね~!
(↑第650遠忌記念「大覚大僧正」京都像門本山会刊より引用)
当時は身分の違いがはっきりしていたでしょうから、この優雅さはわからないでもありませんが・・・う~ん、吉備国であれだけ沢山のお寺を苦労して築き、京都がピンチの時は西国信徒から供養された金品を必死で送って妙顕寺を支えた、あの大覚大僧正と同一人物だとは、にわかに信じ難いです。


(↑法華寺本堂の寺紋提灯:近衛家と同じく牡丹!)
それだけ信仰が妙実上人を、芯から変えたのだと思います。
一方で師匠日像上人の度重なる逆境のなか、むしろ公家、近衛家出身という肩書が、大きなアドバンテージとなっていたと思います。


元享元(1321)年、ついに日像上人が朝廷から寺地を下賜され、京都に妙顕寺を開創、建武元(1334)年には後醍醐天皇により妙顕寺を勅願寺とするという綸旨を賜ります。
(↑具足山妙顕寺山門の表札)
北野の辻説法から始まった日像上人の活動は、実に40年の時を経て、実を結んだのです。

康永元(1342)年、日像上人は後継者を妙実上人に定め、74才の生涯を閉じられました。


妙実上人が妙顕寺二世を担っていた約20年間は、それそのまま南北朝の動乱の時期と重なります。
(↑法華寺境内にある題目塔)
妙実上人は朝廷や幕府から依頼を受け、四海静謐、疫病平癒、天下泰平などの祈祷を、度々行っていたそうです。
このうちの一回が、旱魃時の祈雨でした。


他宗では全く効果が現れなかった末の勅命で、妙実上人はお弟子さんとともに桂川の畔で法華経を読むや、すぐに豪雨となりました。
(↑第650遠忌記念「大覚大僧正」京都像門本山会刊:表紙の絵は桂川畔で祈雨をされる妙実上人)
時の後光厳天皇は非常に喜ばれ、この時に日蓮聖人に「大菩薩」、日朗上人、日像上人に「菩薩」の号を賜りました。
妙実上人は「大覚」という法号と、お坊さんの最高位「大僧正」(※)の僧綱(そうごう)を賜ったといいます。
※正確には、祈雨の功績で「僧正」を賜った翌年、再び大祈祷を成し遂げ、「大僧正」に昇叙されたようです。



ちなみにこの僧綱というお坊さんの位は、飛鳥時代の律令制度をルーツにしており、古くは朝廷が管理していたようです。
明治維新後に廃止され、現在は各宗派ごとに僧階が定められています。


(↑綱脇龍妙上人:ニチレン出版「綱脇龍妙上人」尾谷卓一著より引用)
例えばハンセン病救済に生涯を尽くした身延深敬園の綱脇龍妙上人は、確か80才を過ぎてから日蓮宗大僧正に昇叙されたと記憶しています。
僧侶としての業績や年数なども考慮されるのでしょうね。


いずれにせよ、妙実上人が日蓮宗では最初の「大僧正」だそうですよ。
(↑大覚大僧正妙実上人坐像)
妙実上人改め、大覚大僧正は自らの僧綱よりも、今は亡き先師達に菩薩号を贈ることができたという事実が、何より嬉しかったと考えられます。
これを記念して、日像上人が辻説法をしていた、そして自らが改宗した北野・御前通りの一画に、大覚大僧正は法華堂を建立されました。
現在の妙喜山法華寺のルーツです。



貞治3(1364)年4月3日、大覚大僧正は68才で化を遷されました。
以後200年以上、北野の法華堂についての記録は全く認められないそうです。



ご住職によると、室町幕府の政争や度重なる一揆で、京都は相当荒廃していたようですし、天文5(1536)年に起きた天文法難では、京都の法華寺院はことごとく焼かれたといいますから、北野の法華堂も例外ではなかったでしょう。


江戸時代になり、乾性院日進上人というお坊さんが、かつて法華堂があった場所に、お堂を再建されました。
当時、文書が残っていたのか、あるいは口伝なのかわかりませんが、御前通りが仁和寺通りに交わる辺りが、京都宗門の由緒地だと伝えられていたのでしょうね。
(↑乾性院日進上人坐像)
↑こちらは法華寺本堂にお祀りされている日進上人のご尊像です。
泰然とした表情、それこそどんな問答を挑んでもさらっと答えてくれそうな雰囲気です!



宗門を天下公認にしてくれた日像上人、西国布教の偉人・大覚大僧正の大切なご霊跡、まさにその地を、今日こうして参拝できている・・・。
これは再興してくれた日進上人はじめ、護持してくれた歴代のお上人方のおかげ。
深い感謝を込めて、御宝前に合掌しました。



法華寺の境内には、妙見堂があります。
お堂に上がらせてもらい、ご住職にお像を見せていただきました。


お堂には鬼子母神様や七面様などもお祀りされていますが、やはり妙見様が目を引きます。

右手に受け太刀、そして左手でピースサインをした憤怒像。
いつ勧請されたのかはわからないようですが、この場所に妙見様が祀られるのには、意味があるのでしょう。


日像上人が辻説法をされていた時代、大内裏(京都御所)は現在の京都御所よりもずっと西、今の二条城の方にあったようです。
そして大内裏の北西、つまり戌亥(いぬい)の方角に、北野天満宮はあります。
(↓地図にある「大極殿」は大内裏の正殿、だと思います)
(↑北野天満宮の説明板)
古来、天皇は、天空の中心にある北極星を守護神として尊崇してきました。
そして戌亥の方角というのは天門、北極星への入口と考えられていたため、当時の北野天満宮は国家的にもすご~く重要な、パワーに満ちた地であったのでしょう。



また、法華寺から2~3分歩いたところには、大将軍八神社があります。
大将軍も星神様で、方角や方位を護る存在として、大内裏造営の際に、その北西に祀られたそうです。


妙見様も北極星を神格化した存在なわけで、ここ北野の法華寺境内に祀られているのは、実はごく自然なことだと思います。
(↑法華寺妙見堂前の水盤)
ご住職によると、法華寺の妙見菩薩像は、大将軍八神社にお祀りされている大将軍神像によ~く似ているそうです!
僕たちの知らないところで、いろんなことが密接に関係しあっているんですね。
調べ始めたら深みにハマりそうなので、やめておきます(笑)。


いや~、北野の法華寺、数年がかりの念願でしたが、京都宗門のルーツでもある大切な地、やっぱり参拝に来て良かったな!
応対してくださったご住職は、数年前に法華寺の法灯を継がれたとお話しされていました。(先代ご住職は昨年10月に遷化されたそうです。合掌。)
妙顕寺の役職も兼ねておられるようで大変でしょうが、そう感じさせない雰囲気に、僕も元気をいただきました。

応援しています!