日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

妙雲山飯高寺(匝瑳市飯高)

2023-04-01 15:19:51 | 旅行
立正大学の始まりの地である、飯高檀林跡を見学してきました。
檀林は仏教の学校、お坊さんの養成所のことで、昔は特定のお寺の中に、その機能があったようです。
飯高檀林は、かつて飯高寺内に存在した、日蓮宗門の最高学府です。


千葉県北東部に匝瑳市があります。
「匝瑳(そうさ)」…難解地名ですよね~!読めます?書けます?
この辺り、昔は良質の麻(布佐)がとれたらしく、「総(ふさ)」と呼ばれました(上総、下総の由来)。
「総」に接頭語「さ」がくっついて「さふさ」→「そうさ」になったんだって!



匝瑳市の内陸部、いい感じの里山エリアが飯高です。
飯を盛ったような小高い地形が、地名の由来だそうです。



自然散策道があるようです。
それまで降っていた雨もあがったので、ゆっくり歩いてみました。



田園風景、和む~。
訪問したのが晩秋、すでに刈り取りは終わり、その後に出てきた孫生え(ひこばえ)が、黄金色に輝いています。 



ほどよく起伏のある道を行くと、丘の上に山門が現れました。
飯高寺の総門です。



控え柱の上に、小さい屋根が乗っている門を「高麗門」というそうです。
一部は修復されていますが、部材はかなり年季が入っています。



巨木に囲まれた表参道を歩いてゆきます。
森に包まれているようで、心地よいです。



おおっ!
参道の奥に、巨大なお堂が姿を現します。


飯高寺本堂、旧飯高檀林の講堂です。
今でいう大学院クラスの教室が、ここに設けられていたそうです。

間口がめっちゃ広く、いわゆるお寺のシルエットとは違います。
沢山の学僧が勉強するのに機能的な形なんでしょう。



もう一つ特徴的なのは、装飾らしいものが見当たらないということ。
仏教教育の場ですからね、質素を旨としていたのかもしれません。



僕はお寺を参拝する際、そのお寺の歴代お上人の御廟をお参りするようにしていますが、檀林って歴代御廟はあるのかな?


ありました!

表参道から少し逸れた森の中に、墓石が整然と並んでいます。
数えきれない学僧を育て上げ、宗門の隆盛を支えた先師達に、深く感謝します。


飯高檀林は、比叡山で勉学を修めた要行院日統上人が、地元の飯塚(飯高から南東に3km位)で学室を開いたのが起源といわれています。
(↑境内の説明板より)
天正元(1573)年といいます。信長が足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡した、動乱の時代です。

今こそ日蓮聖人の精神を、教育という手段で広め、荒廃した世の中に貢献する人材を育てたい・・・。


そんな思いに感応したのでしょう、向学心に燃えるお坊さんが次々に入学し、飯塚の学室は大盛況、主宰する日統上人は多忙を極めていました。
(↑飯高寺本堂・妻側より)
誰か信頼できる人に手伝ってもらいたい、ということで、比叡山で同学の後輩だった教蔵院日生上人に、白羽の矢が立ちました。


教蔵院日生上人は天正2(1574)年、既に京都で松ヶ崎檀林を開いていた「宗門檀林の鼻祖」といわれるお坊さんです。
(↑松ヶ崎檀林旧跡・涌泉寺)
比叡山の先輩のヘルプとあらば!と、天正5(1577)年、飯塚に赴きました。
間もなく日統上人は遷化してしまいますが、日生上人はこれまた比叡山同学の蓮成院日尊上人の助けも借り、学室の運営に尽力しました。


数年後、日生上人に転機が訪れます。
あるとき飯高の妙福寺で、日生上人が「法華玄義」を講じる機会がありました。
(↑妙見山妙福寺)
これを聴講していた地元の豪族・平山刑部少輔常時公は、心に響くものがあったのでしょう、日生上人に帰依を誓ったのです!
下総に縁のなかった日生上人にとって、何より心強い協力者を得たと思われます。


「法華玄義」、僕なりに調べてみたのですが、内容については難しくて1ミリもわかりません(笑)。

天台宗の開祖・智顗(ちぎ)上人が講じた、法華経を理解するための、ありがたいお話だそうで、天台教学を学ぶ上では避けて通れないものだといいます。
これを、いわば素人の平山氏に解らせたのですから、日生上人の有能さが窺えます。


(↑飯高寺本堂)
天正8(1580)年、平山氏は城内に一寺を建立し、日生上人を招いて学問所を開きました。妙雲山法輪寺と称したそうです。
飯高檀林の歴史はここから始まります。


最高の学び舎を開いた日生上人は、間もなく後任を蓮成院日尊上人に委ね、飯高を離れます。
(↑松ケ崎涌泉寺境内にある生師廟)
京都に戻って松ケ崎檀林の経営に努め、人を育てるという側面から、京都宗門再興の礎を築きました。



飯高檀林歴代御廟の中心には、ルーツとなった教蔵院日生上人の供養塔があります。



日生上人から初代化主(学長)を任された蓮成院日尊上人、供養塔には「開山」と刻まれていますね。

※なお、そもそもの端緒・飯塚の学室を開いた要行院日統上人の供養塔は、見つけることができませんでした。しかし日統上人は飯高檀林の「遠祖」として、永く学僧達に尊崇されていたということです。


(↑平山氏が城主だったといわれる飯高砦跡:丘の上には飯高神社があります)
ところで、武士である平山氏は、この戦国真っ只中の時代を、小田原北条氏に仕えて生き抜いていましたが、天正18(1590)年に秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると、平山氏は武士を辞めて帰農したそうです。
てことは、飯高檀林の後ろ盾がなくなってしまう・・・ピンチ!


しかしそんな心配は杞憂だったようです。

飯高檀林の教育レベルの高さは、正当に評価されていたのでしょうね、天正19(1591)年、徳川家は飯高檀林を日蓮宗門の根本檀林として公認し、檀林の境内は朱印地として安堵されました。
このとき妙雲山飯高寺と公称したと思われます。


慶長4(1599)年には、第3代化主として心性院日遠上人が迎えられます。
慶長宗論の始末として、家康に処刑を命じられた逸話が殊に有名なお上人ですが、檀林の経営者として抜群のセンスがあったようです。
(↑日遠上人開山の大野山本遠寺)
この時代、飯高檀林はハード、ソフト両面にわたり充実し、学僧も急増、のちに門下生達が関東、関西の檀林をリードする存在になります。



境内の説明板には、檀林の発展に関し、日遠上人に深く帰依した養珠院お萬様の外護が大きかった旨、書いてありました。


特に地理的に近いということもあり、お萬様の次男・頼房公をルーツとする水戸徳川家との関係は深かったようです。
(↑黄門桜)
檀林近くには徳川光圀公(第2代水戸藩主:頼房の三男)が参拝時に設えられた道や、お手植えの桜が現存しています。


ちなみに日遠上人の後、第4代化主を務めたのは、わずか11才の頃から飯高檀林で学んできた慧雲院日圓上人でした。
(↑飯高にある日圓上人塚)
慧雲院日圓上人はのちに、飯高とは別に中村檀林を開創したお坊さんです。
中村檀林については、別の機会に紹介させていただきますね。


ところで、江戸時代の檀林って、どんな感じだったのかな?
立正大学開校120年記念誌(平成4年刊)から、当時の学僧生活を探ってみましょう。

飯高檀林は2期制、春期(2~5月)と秋期(8~11月)があり、夏の間は学僧達は出身のお寺で寺務を手伝って、学費を捻出していたそうです。
大学生のバイトって感じですよね!



期が始まると、出席数が1つでも足らないと進級できないし、口論など風紀を乱す学僧には、罰金、謹慎、退学など厳しい処分が下されたといいます。
蹴鞠(けまり)すら罰金だったんだって。きつ~!




境内には鐘楼や鼓楼がありますが、檀林当時はチャイム代わりだったのかもしれませんね。



日々学ぶのは、日蓮系の天台宗学。
初等教育から始まって、徐々に専門過程に進んでいくところは今の大学と似ていますが、全過程を修了するのには、驚きの20年以上!!(※)
※期間については諸説あり、なんと36年!という記述もありました。


そのため在学中に、志半ばで遷化された学僧も多かったようです。
彼らは「所化塚」に葬られ、手厚く供養されてきました。

飯高寺の西2km位にある所化塚には、夥しい数の墓石が並んでいます。
彼らの無念に思いを馳せ、静かに合掌しました。

なんか、いろいろカルチャーショックを受けるなぁ・・・。


所化塚の脇を通る道は、かつて檀林と江戸を結ぶ主要道でした。

向学心に燃え、意気揚々と歩いてくる学僧もいれば、進級できず肩を落として故郷へ帰る学僧もいたことでしょう。
周辺が開発されていないため、往時に想いを巡らすことができます。


飯高檀林は各学寮を中心として中台谷、城下谷、松和田谷の三谷(さく)に分かれており、研究を競い合ったようです。

思い返してみると、比叡山には東塔、西塔、横川の三塔、昨年訪問した仙波檀林跡にも中院、北院、南院の三院が存在していました。
巨大な教育機関は、三つのエリアに分けて互いを拮抗させるというのが、成功のポイントなのかもしれません。


寛延3(1750)年、江戸幕府は「身延山の法主は、飯高檀林の化主(学長)を務めた僧があたる」という通達を出します。
(↑飯高檀林歴代御廟)
宗門トップの選考方法をお上が決めるわけで、当時いかに仏教各派への統制が強かったのかが窺えます。
しかしこの通達により、飯高檀林は名実ともに、宗門の最高学府と公認されたことになります。
一方、時に激しいエリート養成競争の側面を帯びることもあったようです。


身延山史には、身延山法主を飯高檀林三谷(さく)のどこから輩出するのかを巡り、「紛擾(ふんじょう)起れり」と記されているくらいです。
(基本、三谷から輪次で晋山していたようですね)
(↑身延山歴代御廟)
ちなみに僕が調べた限りでは、身延山30世日通上人から74世日鑑上人まで(化主までいかなくても)例外なく、飯高檀林で学んだり教えたりされています。(※)
飯高檀林が宗門の羅針盤であったことは、疑いようがありません。
(※)30世以前にも、19世日道上人、22世日遠上人、24世日要上人が在籍されています(身延山史より)。


時代は下り明治維新期、新政府が神道を推し進める中、檀林はその役割を終えます。
(↑芝二本榎の長祐山承教寺)
飯高檀林にあった宗門最高学府の機能は、東京芝二本榎の承教寺内に移され、宗教界、教育界の目まぐるしい変化に対応していたようです。


(↑立正大学大崎キャンパス)
明治37(1904)年、大崎に日蓮宗大学林が開学、その3年後には日蓮宗大学と改称し、現在の立正大学に至るのです。
本当に大変な仕事をやり抜かれた、この時代のお上人方には、ただただ頭が下がります。



立正大学は今や9学部、1万人超の学生数を誇る、都会の大学です。
卒業生は仏教界だけでなく、あらゆる分野で活躍しています。
今から四百数十年も昔に、要行院日統上人が思い描いた未来、なのかもしれませんね。


飯高寺境内、霧に煙る杉木立の中、凛と立つ石碑が印象的でした。

平成2年に建立された「立正大学発祥之地」碑です。
どんなに時代が変わろうとも、立正大学の源流は間違いなく、ここ飯高檀林にあること。
将来の日本の柱、日本の眼目、日本の大船となる人材の活躍を夢見て 、困難に立ち向かった沢山の先師達がいたこと。
僕は卒業生ではありませんが、石碑に対面し、深い感慨を覚えました。


最後にひとつ。

飯高寺は現在、無住です。
しかし「飯高檀林跡を守る会」という地元有志の方々によって、本当に丁寧に境内の維持がなされており、気持ちよく参拝することができました。
彼らの善行に、心から感謝致します。
一人ひとりが節度ある参拝を心掛け、このご霊跡が永く護持されることを願っています。
(御首題授与は南駐車場の案内所で受け付けています。)


※今春、立正大学を卒業された菩提寺のお上人に、このブログを贈りたいと思います。
南無妙法蓮華経。