日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

龍口山常立寺(藤沢市片瀬)

2017-09-28 10:52:09 | 旅行
片瀬・龍ノ口
日蓮聖人の生涯最大の危機ともいうべき龍ノ口の法難があった場所です。


日蓮聖人が首を斬られそうになった場所には現在、題目法塔が建っています。
鎌倉時代、ここは刑場だったそうです。


(画像は鎌倉松葉ケ谷の安国論寺の扁額)
龍ノ口の法難は、日蓮聖人が著した「立正安国論」を幕府に提出したことが、日蓮を疎ましく思っていた侍所・平頼綱の怒りを買い、起きたとも言われています。
日蓮聖人は立正安国論の中で、近いうちに外国による侵略があることを予言されています。


この予言は的中し、立正安国論献上から14年後の文永11(1274)年、元軍が九州に来襲しました。(文永の役)
このとき「神風」が吹き、元軍は敗走したと、歴史の授業で習ったような記憶があります。

この元寇に関わった元国の使者が弔われている日蓮宗のお寺が近くにあるというので、訪問しました。


江ノ島モノレールの駅があります。
工事中なのかな?


もうすこし山側に入ると何やら石碑が


道標(みちしるべ)の石碑のようです。


「右に行くと江ノ島」「左に行くと龍ノ口」っていう案内です。
昔は参詣者が多く歩いた道だったことが窺えます。


緑の多いお寺がありました。


龍口山常立寺です。


山門です。
堅牢な造りです。


何気なく建っている法塔


実は五百遠忌、ゆうに200年以上経過している古いものです。


六地蔵が並んでいました。
お地蔵さんといえば赤い頭巾と前掛けですよね!
とても身近な菩薩様です。


ゴトゴトゴト・・・
あ、モノレール


落ち着きのある本堂です。
もともとここは真言宗のお寺だったそうですが、室町時代に日蓮宗に改宗したそうです。
このお寺の紋は「丸に橘」なんですね!


本堂脇の石灯籠には葵の紋


有章院殿の奉献されたもののようです。
徳川七代将軍・家継公が関係しているみたいです。


ひときわ大きな題目碑があります。


「誰姿森」
たがすのもり、って読むみたい。
昔、刑場があったこの一帯の地名なのかな?
刑場で処刑された人を弔う題目碑のようです。


香炉には「誰姿森」の下に「元使塚」という漢字があります。
文永の役の翌年、フビライ・ハンは日本に対し、「降伏しないと次は本気で襲っちゃうぞ!」という国書を寄こしました。脅しをかけたわけですね。
その国書を持参したのが杜世忠を代表とした使節団でした。


記録によると、使節団は今で言うモンゴル、中国、韓国、そしてウイグル人から成っていたそうです。いかに元がでかい国だったか想像できます。
当時の執権である北条時宗は、使者5人を捕らえ、龍ノ口の刑場で処刑しました。


誰姿森の題目法塔の前にある五輪塔は「伝元使塚」といって、処刑された元の使者を弔うための石塔だそうです。
モンゴルでは青い布は英雄に贈られるそうで、5柱の五輪塔ひとつひとつに丁寧に巻かれていました。
朝青龍関や白鵬関といった大相撲のモンゴル力士が、代々藤沢巡業の折に巻き直してきたそうです。
※前夜の強風でお塔婆が傾いてました。何となく元寇を連想しちゃいました!


使節団の辞世の句が刻まれた石碑がありました。
これは代表の杜世忠のもの。
出発の時に寒さを凌ぐための衣を贈ってくれた妻子に想いを馳せる句です。
漢字だけでしたがおおよそ意味は想像でき、胸が熱くなりました。


別の使者の方の辞世の句にも「寒」という漢字がありました。
調べると使節団が来たのが2月。寒さがいっそう身に凍みたのでしょう。

恐怖の国書を手渡される幕府側も命懸けですが、手渡しに行かされる使節団も命と引き換えの悲しい大仕事だったのですね・・・。


その後、2度目の元寇(弘安の役)があり、大艦隊を率いて九州を襲うも、またも元軍が嵐に遭って壊滅的な被害を被り、撤退しました。

福岡周辺には元寇の戦争遺構が今も沢山残されているようで、いつか訪問してみたいものです。


今回、いろいろ調べ物をしてゆくと、元寇の前に何度も元からの使節が来ていたことがわかりました。
幕府内にも焦りがあったのでしょうか、日蓮聖人が佐渡から帰還後、まもなく幕府に3度目の諌暁に上がった時に、日蓮聖人は平頼綱から元寇の予見を聞かれたそうです。


日蓮聖人は、年内に起こりうることを示唆して幕府評定所をあとにしたそうです。
そのわずか半年後、日蓮聖人がその14年も前に立正安国論の中で予言した「他国侵逼難」(たこくしんぴつのなん)は、二度の元寇という形で現実のものとなりました。


それにしても元の使者が弔われているお寺が、のちに日蓮宗のお寺になったというのは、巡り合わせなのでしょうか。


敵の勇者を今も手厚く供養し続ける常立寺。
ごく自然に手が合わさる、温かみを感じたお寺でした。

桑ケ谷療養所跡(鎌倉市長谷)

2017-09-17 21:31:48 | 旅行
四條金吾頼基公
先祖は藤原氏といわれています。
父・頼員は北条一族である江間氏の家臣をしており、頼基公も父の仕事を継いだようです。


北条氏に仕える武士でありながら、若くして日蓮聖人の教えに帰依しました。
日蓮聖人にとっては最古参の門徒であり、信頼は絶大だったようです。


文永8(1271)年9月12日の深夜、龍ノ口の刑場まで引き回され連行される日蓮聖人にお供し、日蓮聖人の首が切られるのなら自分も切腹しようと、決意を固めていたといいます。


その後、日蓮聖人は佐渡配流の苦難を耐え、やっと鎌倉に帰還して幕府に3回目の諫暁を行うも聞き入れられず、身延に入山しました。


日蓮聖人が身延に入られてから3年後の建治3(1277)年、日蓮聖人のお弟子さんの三位房日行上人が、天台僧・龍象房と問答、論破してしまいました。
四条金吾公も問答の場に居合わせたようです。


問答は現在の鎌倉能舞台の付近、以前は「桑ケ谷」(くわがやつ)といわれていた場所で行われたため、「桑ケ谷問答」と言われています。
このあたりかな?


この道筋は、地形的に谷間になっており、桑が谷といわれていました。
現在は閑静な住宅街です。
京都からやってきた龍象房は、ここ桑が谷を拠点に説法をしていました。
達者な弁舌で、多くの聴衆を惹きつけていたようです。


桑ケ谷には、良観房忍性が開いた療養所があり、その跡には小さな石碑が建っています。
療養所は弘安10(1287)年に設けられたようですが、それ以前からこの界隈は忍性に縁のある場所だったのかもしれませんね。。


忍性は極楽寺を開山したお坊さんで、日蓮聖人の法敵のイメージが強い方ですが、一方で病気や貧困に苦しむ庶民を救う活動を積極的にされていたそうです。
特に癩病、今のハンセン病の患者さんの救済を、すでに鎌倉時代に実践されていたという業績は、素直に頭の下がる思いです。
(↑画像は国立ハンセン病資料館2014年刊:一遍聖絵・極楽寺絵図にみるハンセン病患者p7より)


桑が谷問答からしばらく後になり、問答の際、武士の四條金吾公が力で威嚇したような讒言(ざんげん)が流れました。
これを聞いた主君の江間氏は激怒し、四條金吾公に法華経への信仰を捨てるよう、迫ったといいます。
一時、四條金吾公の領地は没収されてしまいました。

※讒言とは、人のことを貶める目的で、事実を曲げたり、ありもしない事をでっちあげたりして、その人を悪く「目上の人」にチクるということです。
目上の人・・・幕府のお偉いさん方でしょう。


実は、問答に敗れた龍象房は、忍性に近いお坊さんだったと言われています。
(画像は雨乞い祈祷が行われたといわれる七里ヶ浜・霊光寺前にある田辺ケ池)
忍性は雨乞い対決などでもよく名前が出てくる日蓮聖人のライバル、かつ幕府に近い真言律宗の僧・・・何やら裏事情が見えて来ましたね・・・。
しかし四条金吾公、かわいそう(泣)


しかしのちに江間氏が難病にかかった時に、四條金吾公は優れた医術で主君の命を救ったことから、江間氏の信頼を取り戻したそうです。
日蓮聖人ご入滅の数年前には、身延の東谷に端場房(はばのぼう)を開き、日蓮聖人の給仕に身を捧げました。

晩年は、江間氏から拝領した領地である内船(うつぶな)に隠棲し、当地で亡くなられたそうです。
内船は身延に近い南部町の一角にあり、四条金吾公夫妻のお墓もあるそうです。
是非、お参りしたいと思います。

吉祥山上行寺(富士吉田市上吉田)

2017-09-17 12:26:00 | 旅行
日蓮聖人が国家安泰を祈念して行った富士登山
五合五勺の経ケ嶽に百日間籠って法華経を読誦し、写経した法華経を埋経したといわれています。

この登山において日蓮聖人の案内役を務めた塩谷平内左衛門公のお寺が富士吉田にあるというので、訪問してきました!

富士山の北口の起点、浅間神社からほど近くにある日蓮宗のお寺


身延山別院・上行寺です。
別院ってときどき目にしますが、何なんだろう?


大きな題目碑
側面には「柴庵霊地」と刻んであります。

調べると「柴の庵」とは、良く言えば質素な家、悪く言えば粗末な家、のことのようです。
日蓮聖人よりもはるか昔、奈良時代に、奈良の大仏の造営にも携わったお坊さん・行基が富士山を登った際にこの地に作った「柴の庵」がルーツのようです。
大昔から富士の信仰登山はされていたようですね!


車がバンバン走る国道から、一本入っただけとは思えない、落ち着きのある境内です。


本堂です。
一面の格子窓がキレイですね!


日蓮聖人のご尊像に合掌。


日蓮聖人が富士山に籠られたのが文永6(1269)年、というと日蓮聖人47才の時ですね。
その頃のお姿なのでしょうか。


このお寺には銅でできた如来形立像が安置されているそうです。
奈良時代のもののようで、京都を転々としたのち、江戸時代に富士山にもたらされ、上行寺に落ち着いたようです。


境内をゆっくり散策していると、塀のすぐそばにお社が。
昔は塀もなく、境内にお社が続いていたんでしょうね!

富士山周辺はホントにお寺と神社の敷居が低く、互いに自然な存在になっています。


富士の信仰登山のお手伝いをした「御師」は、ここ富士吉田にも沢山いました。
御師は、信仰登山をする方に宿や食事の提供をするだけでなく、祈祷も行う神職の面もありました。


富士吉田の御師町の地図に、「塩谷平内左衛門」の名前がみられます。
(画像は、世界遺産の構成資産のひとつ、御師・外川家住宅内の掲示物より)


塩谷平内左衛門公は、日蓮聖人の富士登山のお世話をする際に法華経に帰依したと思われます。
(またはそれ以前に教化されていて、その縁で富士登山のお世話をしたのかもしれません)


「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも「富士社主」の肩書きでいらっしゃいます。
※ちょっと名前の文字が違うようですが、塩谷平内左衛門公その人だと思います。


神職の方が法華経に帰依・・・というと一般的には違和感があるのかもしれません。
しかし富士山周辺のご霊跡や神社を巡っていると、あんまり違和感・・・感じないんだな、これが。


思えば以前に訪れた河口湖の御師宿のひとつ、梅谷の主人である采女さんも、神職でありながら日蓮聖人の教えに影響され、教化されたと聞きました。


そうそう、北口本宮冨士浅間神社の境内には、いたる所に「卍」が刻まれていました。
神社にも仏教の影響が、お寺にも神道の影響が色濃く入り込み、独特の雰囲気を作り出しているのがここ、富士山なのです。


日蓮聖人は富士登山前に、塩谷平内左衛門邸で法華経全巻を書経したそうです。これを富士山経ケ嶽に埋経したといわれています。


ちょっと話は反れますが、先日熱海の伊豆山神社に参拝に行った際、境内の郷土資料館にこんな展示物がありました。
神社の裏山に平安時代の大規模な経塚が発見され、埋経のあとがあったそうです。
お経は↑のような銅製の「経筒」に入れて埋められていたそうです。

僕はてっきり埋経って紙のお経をそのまま土に埋めると思っていたのですが、ちゃんとケースに入れてたんですね!
恐らく日蓮聖人もそうされていたのでしょう。


話を元に戻します。
塩谷平内左衛門公はのちに自分の屋敷を法華経の布教道場とし、これが上行寺の基礎となりました。


開山は日蓮聖人、塩谷平内左衛門公は出家し、二祖・日仙上人となったそうです。

吉祥山上行寺。
仏教と神道が自然に融合していた富士山の麓の、象徴的なお寺でした!



今週の寺犬~!!!
もこもこの毛布が置いてあると思ったら、ぐーぐーといびきが聞こえ、ようやくわんちゃんが寝そべっていることに気づきました。

呼んでも近づいても微動だにせず・・・ぐーぐー。

モップのような前髪。見えてるのかな?(笑)