日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

六浦山上行寺(横浜市金沢区六浦)

2017-07-30 21:09:45 | 旅行
中山法華経寺を開いた富木常忍公
いつから日蓮聖人の壇越として資助をしていたのか、諸説あるようです。
日蓮聖人と富木常忍公とは遠戚関係にあるという説もあり、いろんなご霊跡を巡ってきた僕個人的には、清澄での立教開宗前から活動を支援していたのだと思っています。


ただ、それだと一つ、疑問が生じます。
それまで天台宗の僧侶であった日蓮聖人を支援していたわけですが、建長5(1253)年4月28日を境に、日蓮聖人は声高にお題目を唱え始めてしまった・・・
その事実をあの厳格そうな富木常忍公が容認したとは到底思えません。


この疑問の答えになりそうなご霊跡が横浜の金沢八景にあるそうなので、行ってきました!
この駅、初めて降りました。


駅のすぐそばには海!
たくさんの漁船が係留されている都会の海です。


地元のロータリークラブが作った案内板がありました。


多分江戸時代の金沢八景ですが、昔はもうすぐそこまで海だったんですね!これから目指す上行寺も臨海のお寺。

興味深いのはこの画像の上部に「千葉氏」の表示があることです。
ここ金沢八景は遠い昔から千葉から東京湾を渡ってくる航路があり、そのため下総の千葉氏の領地もあったのではないでしょうか?
(富木常忍公は下総の守護・千葉氏の被官であった)


金沢八景駅から六浦方面に10分ほど歩くと、上行寺はあります。


古そうな法塔があります。


台座には「深信解象」かな?
調べると「深信解の相」といって、分別功徳品第十七にある大事な一節のようです。
仏様の命が永遠に続くと信じれば、いつも仏様と共にあるという自覚を持てる。それは信仰生活の根幹を為すものだということを説いているそうです。
我々信徒が、どんな信仰生活を送るべきか、具体的に書かれているようなので、興味が湧きました。


山門です。
茅葺きの山門はとても珍しいです。海辺の庵って感じでいい雰囲気を出しています。


山号は「六浦山」です。



これは「船繋ぎの松」跡です。
ロータリークラブの案内板にあったように、昔はこのお寺のすぐ前は海、岸壁でした。
いわゆる「もやい」の代わりとして使われていた松が、終戦直後まであったそうです。


日蓮聖人がご一泊されたご霊跡、というのは確かなようです。
立教開宗の翌年、何らかの用事で下総にいた日蓮聖人は、鎌倉に戻る前に、今まで支援してくれた感謝を富木常忍公に伝えようと若宮の邸を訪ねましたが、たまたま富木常忍公は鎌倉に向かう為に二子ヶ浦に向かっていました。
日蓮聖人は急いで富木常忍公を追い、同じ船に乗ることができました。


二子ヶ浦は若宮からほど近くにある船着き場だったようです。幕府の事務官僚だった富木常忍公は、鎌倉との往復に日常的に船を使っていたのかもしれません。

当時、二子ヶ浦から金沢八景までどれくらいの時間を要したのかはわかりませんが、船上で法論を交わしたということです。
そりゃそうですよね、今まで信頼して支援していたお坊さんが、急に、急に法華経を布教しはじめたのですから。


結果、富木常忍公は日蓮聖人に帰伏し、今まで通り支援し続けることを約束したそうです。
厳格な印象の富木常忍公が帰依したことで、日蓮聖人の活動の羅針盤は生涯を通じて一切ブレることがありませんでした。


もともとこのお寺は富木家の祈願所(真言律宗)でありましたが、普識っています。


歴代お上人の御廟を参拝しました。


開基は中山法華経寺の第三世、日祐上人です。
富木家ゆかりの大切なお寺が荒廃しているのを、放っておけなかったのでしょう。
開山はこの界隈の領主を務めた、日荷上人です。


日荷上人は真言律宗であった他寺が所有していた2体の仁王像を背負って、な、何と身延山まで持参した怪力・健脚のお坊さんで有名です。
仁王像ってでかいですよね~!
それも2体!!
めちゃめちゃ異色のお坊さん、気になって仕方ありません。


日荷上人が見た夢に従った末の行動でしたが、勝手に仁王像を持ち出したわけではありません。
当時所有していた称名寺の住職と囲碁対決で2勝1敗で勝ち、持って行ったそうです。


身延山久遠寺のこの三門に安置されている仁王像がその仁王像なんでしょうか?

確かこの三門の仁王像は健脚の功徳があるとか書かれていたような記憶があります。
上行寺の記述には、三門の仁王像脇に日荷上人のご尊像が安置されていると書かれていました。
次回、身延山に参拝に行った時、調べてみようと思います!


境内にはひときわでかい榧(かや)の木が!!ご神木のようです。
この巨木は日荷上人が身延山から持ち帰った枝が根付いたものだそうです。

実は身延山に墓参と参拝に行く途中、相又峡のあたりで「榧の木」という地名を毎回見ているので、僕はとてもしっくりきましたね~!
何かとても身近な、なつかしい、やさしい木に会えたような気がして嬉しくなりました。


いや~、富木常忍公の信仰の行方を追いたくて訪問した金沢八景・・・
なかなか濃ゆいキャラのお上人を発見できました。

富士山経ケ嶽(富士吉田市上吉田)

2017-07-19 18:58:53 | 旅行
念願の富士山、行ってきました!

今年は7月1日~9月10日が登山道開通期間です。
目的地は頂上ではなく、5合5勺なんですが、普段はゲートの向こう側にあるので、夏の70日余りの間しか行くことができません。


当日は快晴!登山日和です。


登山道開通期間はマイカー規制されているため、バス、タクシー、電気自動車以外は上がれません。
富士北麓公園からシャトルバスで5合目まで行きます。


約45分で5合目に到着~!
雲の中に入っているのでひんやり!下界の猛暑がウソのようです。
しかし外国人率、異常~に高し。


5合目~5合5勺の道のりですが、念には念を入れて完全装備~!


ここから登山道です。
開通期間以外はここに鉄の門が堅く閉じられています。


1km弱かな?歩いて「泉ケ滝」の分岐に来ました。
斜め上の道を行くと整備された新しい登山道(ほとんどの人はこちらを利用)、左に行くと麓の浅間大社から続く、昔からの登山道に行き着きます。

迷わず左に!!


火山岩のお山ですからね、そこかしこで斜面の崩落が起きてます。


昔はこのあたりに小御嶽神社の鳥居があったようです。


佐藤小屋を左に見て・・・


星観荘を通り過ぎると・・・


小刻みに曲がる登山道!
古くから富士講の方々が信仰登山に使ってきた道のようです。
日蓮聖人もこの道を登ったのかな?


ほどなくして到着!
宗門最高地点のご霊跡、富士山経ケ嶽です。
七面山の頂上が確か標高1989m、ここ経ケ嶽は標高2400m前後じゃないかと思います。


まずは日蓮聖人像に合掌。


右手人差し指を立てているご尊像は珍しいです。
また表情も、他のご尊像とは趣を異にしていると思います。
もともと神戸市布引滝山上に建てられていたご尊像を、豊中の篤信者の方が寄進したのだそうです。


文永5(1268)年、天変地異続きで国内の混乱も冷めやらぬときに、当時大陸でイケイケの勢いだった蒙古から国書が届きました。

「おい、日本国!言うこと聞かね~と襲っちゃうからな!覚悟しとけよ!!」


幕府は「ヤバいよヤバいよ」と大混乱!
早急に西日本の国防を強化するよう指令を出したり、お寺や神社に祈祷を依頼したりと、てんやわんやになりました。


日蓮聖人にしてみれば、もう8年も前に献上した「立正安国論」で預言していたこと、「だから言わんこっちゃない・・・」という心境だったでしょう。

そしてその翌年、日蓮聖人は国家安泰を祈念するべく、富士山に登ったのです。


富士の信仰登山には御師の協力が必要でした。(↑画像は世界遺産の構成資産のひとつ、旧外川家住宅)
日蓮聖人は富士吉田の御師・塩谷平内左衛門公の案内で富士山を登ったそうです。


富士吉田の御師町の地図に、塩谷平内左衛門宅も示されています。(旧外川家住宅内の掲示物より)


のちに塩谷家は身延山別院・吉祥山上行寺の礎を築きました。


八角堂です。
昭和28年に立教開宗700年事業で建てられた「常経殿」というそうです。
風雪にも耐えられるよう、鉄筋でできています。
毎年7月にここで法要が営まれるらしく、今年も7月6日に執り行われたそうですよ!


常経殿の先に何か・・・


「日蓮聖人御旧跡 姥ケ懐(うばがふところ)入口」
行ってみましょう


けもの道くらいの細~い道を下ると・・・


庵?


姥ケ懐です。
実際は岩窟のようで、その前にお堂を建ててあるようです。
この岩窟に、日蓮聖人は100日間籠もり、国家安泰を祈念して法華経を読誦し続けました。


そして書経した法華経を、この付近に埋経したそうです。


文明の発達した現代に生きる僕には・・・標高2400mの地で100日間祈祷し続けるなんて、ちょっと想像がつきません。

「本当にすげえ人だ、日蓮聖人」


この祈祷の甲斐あってか、その後の二度の元寇は失敗に終わりました。
しかし元寇が起きた頃の日蓮聖人の境遇といったら、やっと佐渡配流を赦免され、鎌倉に戻り幕府に3回目の諫暁を行うも聞き入れられず、身延のお山に入るという・・・う~ん・・・何ともやるせない。
だからこそ、現代の我々の心にも刺さるのかもしれません。


常経殿の少し上に宝塔がありました。


1983年に立正大学の法華経文化研究所が、ここに法華経を埋めたそうです。


埋経といっても実際にはこの奥に、安置したのだと思います。
一千年遠忌に開封して欲しい、と刻まれていました。
2282年・・・日蓮聖人の教えは脈々と受け継がれているのかな?・・・なんて考えながら、ご霊跡・経ケ嶽をあとにしました。



その昔、富士山は神道や仏教が入り混じった山岳信仰の聖地で、山の各所に仏像がお祀りされていました。それが明治の神仏習合禁止により、破壊や撤去をされてしまったそうです。(廃仏毀釈、っていうそうです)
神道を国教とする動きの中で、仏教は邪魔な存在だったのでしょう・・・実に、実に残念な話です。


しかし先日訪問した裾野の車返し霊場
この祖師堂内に安置されている日蓮聖人像が、かつて富士山頂に安置されていたものだということが判明しているそうです!
どなたかが必死にお守りしたのだと思います。感謝します。


いつか拝んでみたいですね!

江川家住宅(伊豆の国市韮山)

2017-07-15 22:15:02 | 旅行
伊豆配流中に、当地の地頭・伊東八郎左衛門祐光公の熱病を、祈祷により治癒させた日蓮聖人
↑画像は伊東の佛光寺

伊東家の鬼門除けである毘沙門堂が、当面の住まいとなりました。

地頭の原因不明の難病を平癒させ、命を救ったわけですから、日蓮聖人の噂は伊豆の各地に広まったに違いありません。
そのお坊さんに何とか来て頂けないか、という要望が出てきてもおかしくはないでしょう。


韮山の名家・江川家の16代英親公は、まさにその一人でした。
ということで来ちゃいました、韮山!!


江川家の屋敷は、国の重要文化財みたい


おお~!
ちょっとしたお城の気分!


江戸の初期に建てられた表門をくぐると・・・


母屋があります。この建物自体は室町時代の建築らしいです。
室町時代の部材を残しながら、キレイに修復を重ねられてきたのでしょう。


ちょうど日蓮聖人が毘沙門堂に住まわれている時に、当時の江川家の家屋の修築を行っていました。


やはり、木造家屋ですからね・・・火災やらなんやらが恐かったのでしょうね。もし、その日蓮というお坊さんが韮山に来て、江川家と家屋の安泰を祈祷してくれるなら是非是非!!!って気持ちだったのでしょうね。


江川英親公の要請に応じ、日蓮聖人はここ韮山に赴き、棟札をお書きになりました。
↑はその棟札の写しらしいです。「日蓮」の記名のあるお曼荼羅ですね!


棟札が納められている箱がこの屋根裏の一番高いところにあるそうです。
手ブレ&デジカメの性能が悪くて写ってない・・・

僕は見えましたけどね~!


ちょうどこの奥あたりにあるようです。
この棟札のご利益で、江川家は700年以上にわたって無事に保たれてきたそうです。

僕も往時の日蓮聖人を思い浮かべながら、ゆっくり手を合わせました。


ちょっと話は逸れますが、中山法華経寺・聖教殿の建設を推し進めた法学者・山田三良博士の奥様は、江川家のお嬢さんだったと日蓮宗ポータルサイトに載っていました。

結婚当時は勉学一筋で信仰のなかった山田博士は、奥様の影響で法華経信仰を篤くしていったそうです。
激動の大正・昭和初期に、山田博士は宗宝の格護を強く訴え、聖教殿は完成しました。
この偉業により、国宝を含む多くの宗宝は守られ、平成の今日にあっても、チャンスがあれば我々も拝むことができるわけです。


日蓮聖人は数日間、江川家に滞在し、供養を受けたそうですよ。
もちろん英親公は法華経に帰依しました。
のちに身延山に日蓮聖人を訪ね、在家のまま「日久」の法名を授けられたそうです。


このご縁がきっかけで、のちに江川家住宅のすぐ近くに本立寺ができました。現在も江川家の菩提寺です。
山門と本堂、わかるかな?
日蓮宗ポータルサイトによると、本立寺は「由緒寺院」のひとつです。

日蓮宗は当時、マイナーな新興宗教だったのでしょうが、やはり江川家のような名家が信仰し始めると、信用の後ろ盾ができます。
この伊豆での布教に、どれだけ追い風となったのか、想像に難くありません。
江川家は伊豆の宗門にとって、とても大事な礎なのかもしれませんね。


高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図(大坊・本行寺で購入)にも江川太郎左衛門公は描かれています。
肩書きが「豆州日久男」となっているので、英親公の子かもしれませんね。


ところで日蓮聖人が日蓮宗の「宗祖」であるのに対し、江川家には「パン祖」がいます!
江戸時代に生きた36代・英龍公は、兵隊の携行する保存食として乾パンを製造したそうです。
江戸時代ですからね・・・パンは画期的だったようで、後年、業界から「パン祖」の称号を与えられたそうですよ!

あ~小腹が空いてきた

正中山奥之院(市川市若宮)

2017-07-09 14:17:36 | 旅行
大本山・正中山法華経寺
このお寺のルーツのひとつは、かつて中山のとなり町・若宮にあった法華堂でした。


法華堂はもともと、日蓮聖人の大壇越である富木常忍公の邸(若宮館)にあったそうです。


現在、その地に法華経寺の奥之院があるというので訪問しました。
山号は法華経寺と同じ「正中山」のようです。
なので正確には「正中山奥之院」です。


本堂です。
屋根の中央に桔梗の紋が掲げられています。
法華経寺にも桔梗紋があったな~。富木家の家紋なんでしょうか?


富木常忍公(のちに出家して日常上人になる)のご尊像がありました。
富木常忍公は日蓮聖人の6才年上で、この地域の役人をしていた方のようです。


結構お年を召された頃のお姿でしょうか。
富木常忍公ご自身は82、3才までご存命だったようです。
当時としては長寿ですよね~!!


富木常忍公が66才の時に、日蓮聖人がご入滅されています。
「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。
富木常忍夫妻の隣には、友人の太田乗明夫妻がいるのがわかります。


松葉ケ谷で念仏衆の焼き討ちに遭って一時避難したのも、小松原で東条景信に襲われたあとに身を寄せたのも、厳密にいえば中山でなくこの若宮の地でした。

日蓮聖人はこの地で合計百回にも及ぶお説法をした結果、多くの住民がその教えに帰依したようです。
ここ奥之院は「初転法輪の地」とも言われています。


富木常忍公の御廟も、この奥之院にあります。


この六角堂「常修堂」が御廟と思われます。
日蓮聖人の布教活動を支え続けた富木常忍公。
日蓮聖人ご入滅後に出家して日常上人になってからも生涯、宗門を支え続けました。
見返りを求めず、与え続けることに徹した・・・「布施」を体現した方だと思います。


だからでしょうか、本堂でこんな紙を下さいました。
「無財の七施」
ついつい「我」を優先させてしまいがちな毎日ですが・・・
いつも「施」を心掛けようと思います。
これならすぐにできそうですよね!

大切な、当たり前の事を気付かせてくれた奥之院、富木常忍公に感謝です。

柳久根(富士河口湖町小立)

2017-07-06 18:01:21 | 旅行
文永6(1269)年、日蓮聖人が47才の時に、政情不安な国家安泰を祈願するために富士登山をし、5合目付近で法華経を読誦、書経した法華経を土に埋めました。


富士山から下山した日蓮聖人は、麓の小立村で説法をし、その際に、既に教化を受けていた28人の村人が、日蓮聖人にお曼荼羅を書いて頂きました。
お曼荼羅の重みで、岩が象さんの鼻のように垂れ下がってしまった、という伝説があります。

このお曼荼羅、28枚の紙を貼り合わせた大きな大きな紙に書いた、日蓮聖人の生涯で最大のものだそうです。
28枚だから・・・タテ7枚×ヨコ4枚かな?その逆かもしれませんね~

現在は沼津にある法華宗の光長寺さんに格護されているそうです。
一度お目にかかりたいものです。
実はその大曼荼羅、この地の柳の木の筆で書かれたそうなんです。


湖畔の船津から大嵐方面に抜ける県道714号線沿い
商店街の一角に木立があります。


「柳久根」(やなぐね)というご霊跡です。


柳の大木があります。
日蓮聖人はこの柳の枝を筆にして、大曼荼羅を書き上げたと言われているそうです。


柳の木って、陰陽でいうと陽の気を持つらしく、鬼門除けによく使われる樹木らしいんですね。
霊力のある柳の枝を選ぶところが、常人とは違いますね~!


ちなみに墨はこの硯石を使ったようです。
柳久根の至近にある法華宗の妙法寺さんの境内にあります。


こう見てゆくと、河口湖周辺はご霊跡だらけですね~!!

法華塚(伊東市富戸)

2017-07-05 20:34:03 | 旅行
鎌倉幕府に立正安国論を献上し、国のあり方を諫暁した日蓮聖人は、念仏衆からの訴えにより伊豆へ流されてしまいました。
↑は富戸の蓮着寺近くにある俎岩


↑は川奈にある俎岩と日蓮聖人像


伊豆配流中、罪人扱いの日蓮聖人の監視役だったこの地の地頭・伊東八郎左衛門公の難病を祈祷により治癒させた功績で、日蓮聖人は伊東家の鬼門除けとして建てられていた毘沙門堂に住まわされました。
この地の地頭の窮地を救ったのですから、それ以降日蓮聖人の立場は急速に回復していったと思われます。毘沙門堂に幽閉されていたわけでないようです。


毘沙門堂から直線距離で7~8km離れた富戸の丘に、日蓮聖人が埋経をした場所があると聞き、訪問しました。
法華塚です。


宗紋が掲げられています。
日蓮宗で守っているご霊跡です。


日蓮聖人は、多くの弟子や信徒を残してきた鎌倉と、ご両親の暮らす安房の地を偲び、法華経を読誦し、予め書経した法華経をこの場所に埋めたと言われています。


お経を埋めるって、僕のような素人からすると何とバチ当たりな・・・と考えてしまいます。
しかし、埋経には深い深い意味があるようです。
お釈迦様が亡くなってから56億7000万年後(!)に世の中を救済するという「弥勒菩薩」が現れたときにお説法できるよう、お経を残すために地中に埋めるというのが「埋経」だそうです。

日蓮聖人の埋経のご霊跡は富士山にもありますよね。
近日中にその地に「登山」してきます。レポしますね!


この法華塚、ある意味伊豆のパワースポットとして、古くから往来する旅人が道中安全を祈念し、報恩・感謝のしるしとして石を捧げてきた結果、このようにこんもりとした「塚」になったみたい。


現在、この場所は海光山佛現寺さんが維持・管理して下さっているようです。
お寺から結構離れているので大変でしょうね・・・。
心から感謝します。

正中山法華経寺(市川市中山)

2017-07-03 18:31:16 | 旅行
日蓮聖人と同じ時代に生き、日蓮聖人の布教活動を物心両面で支えた「壇越」は何人もいたようです。
その教えに帰依するだけでなく、とにかく力を貸してあげたいと心から思わせるカリスマ性が、日蓮聖人にはあったに違いありません。


特に、龍ノ口の刑場に死を覚悟してお供をした鎌倉武士の四条金吾公


真言律宗の僧・忍性に帰依している父に勘当されても、必死で信仰を守った池上宗仲公


晩年の日蓮聖人に、身延の広大な土地を提供し、一族で給仕し続けた南部實長公・・・
などは、代表的な「大壇越」と言えると思います。

 
そしてもう一人、日蓮聖人の生涯の折々に登場する大壇越がいます。
千葉の富木常忍公です。


てことで訪問しました、下総中山~!
市川と船橋の間にある駅です。


駅の北側に延びる道を通って行きます。


京成線の駅も近いんですね~!


この踏切を越えると門前町、って感じでしょうか。


地域の地図がありました。
「中山」の住所の隣は「若宮」、そしてその北東には中山競馬場!


大きな寺院にはよく見られる「総門」です。
ここではその色から「黒門」って呼ばれてるらしい。


扁額は・・・何だろう? 観心本尊抄の一節?


風鈴が涼しげ!
門前にも境内にもたくさん提がっていました。


仁王門です。
黒門に対してこれは「赤門」とも呼ばれてるらしいです。


宮大工ってすごい!
木造建築の組み上がりを見てると時間がいくらあっても足りません。


山号は「正中山」です。この扁額は本阿弥光悦公の書だそうですよ!

このお寺は富木常忍公の邸をルーツとする「妙蓮山法華堂」と、やはりこの地の古くからの壇越・太田乗明公の邸をルーツとする「正中山本妙寺」が合併して誕生しました。
「正中山法華経寺」の山号や寺名は、その名残りだと思われます。


巨大な日蓮聖人像!
結構でかくて、それこそ鎌倉松葉ケ谷の長勝寺にあったご尊像くらいあるのでは?


左手に「立正安国論」を握っています。
ここ法華経寺には、ご真筆の立正安国論(国宝)が格護されているといいます。


おお~!高村光雲氏の作です。
長勝寺のご尊像も光雲作でしたよね!光雲氏の作るご尊像はひときわ大きいです。


日蓮宗で祈祷ができるのは「修法師」だけだそうです。
そして「修法師」は、ここ法華経寺で100日間の大荒行を成満した方のみが名乗ることができるそうです。


参道の左右に、日蓮宗の寺院が並びます。


時間が昭和で止まっています。


赤い「龍閣橋」を渡ると境内!
この橋の欄干に乗っているのは柘榴(ざくろ)です。
鬼子母神のお寺ならではでしょう。


境内の案内図です。見どころ満載!


まずは絵馬堂。
受験生の合格祈願の絵馬を想像してましたが、いい意味で裏切られました。


過去に多くの方から奉納された扁額やお祖師様のご尊影などが飾ってありました。


中には大荒行堂の落慶記念に奉納された絵も!
法衣の袖を引っ張っている3匹のお猿さんがかわいい♡
松葉ケ谷の焼き討ちから逃れた日蓮聖人は、一旦千葉に避難し、この地で100日間のお説法をされたということです。この絵は松葉ケ谷かな?


これは法華経寺御用達の職人さんだと思われます。
電気担当までいるんですね!


美しい五重塔です。
本阿弥家の方の菩提を弔うために建てられたそうです。
刀剣業や書家で有名な本阿弥家は、日蓮宗とはご縁が深いようですね~


法華経寺は美しい建造物の宝庫だと思いますが、この祖師堂はその大将格!


何といってもこの屋根!
屋根の真ん中で区切られて二段構えになっていますよね。これは「錣(しころ)屋根」という様式のようです。
屋根を大きく見せようとする部分と、機能性の部分を併用したら、こうなったようです。


こんな屋根、少なくともお寺では初めて見ました。
正確には「比翼入母屋造り」というそうで、ここと岡山県の吉備津神社(国宝)以外には存在しないそうです。


遠くから見ると茅葺きかな?と思いますが、この画像でよくわかると思います。
細かい板を丹念に並べ、重ねた構造ですね。


妙見堂です。
僕は妙見様って今まで馴染みがなかったのですが、日蓮宗寺院には時々見られます。
神仏習合の時代、北斗七星の神様を妙見菩薩として信仰していたそうなんです。


八大龍王池です。
この季節は蓮と菖蒲が元気です!


龍神様をお祀りするための石塔がたくさん並んでいます。
日蓮聖人のご生涯と龍神様は、切っても切れない関係ですもんね!


蛇がとぐろを巻いているような石像も!


法華堂です。
法華経寺のルーツの一つです。


富木常忍公が若宮(中山の隣)の自邸に建てた法華堂が、この地に移設されたそうです。


そのすぐ近くにある四足門とともに、建物としては宗門最古だそうですよ。
これからも末永く維持されてゆくことを祈念して止みません。


この扁額も書家・本阿弥光悦公によるものだそうです。本阿弥家、大貢献っすね!
元々、「妙法花経寺」といっていたようですね~


正中山法華経寺の開祖・日常上人像です。
富木常忍公は、日蓮聖人が若い頃から、活動を支えてきた壇越の最古参です。
それこそ清澄での立教開宗の前から、という説さえあります。
仮にそうだとすれば、それまで天台宗の僧侶だった日蓮聖人がある日、声高にお題目を唱え始めても、富木常忍公はその意を理解して支援し続けたわけで、懐の深さが窺えます。


日蓮聖人がご入滅後、富木常忍公は出家して「常修院日常」という法名で法華堂を「法華寺」と改め開創しました。
常忍の友人・太田乗明公の邸に、乗明の子・日高上人が開創した「本妙寺」と合併して「法華経寺」になったのは1545年、日蓮聖人ご入滅の250年以上後のことです。


これは通称「泣き公孫樹」といわれるイチョウの大木です。
日常上人の子である六老僧の日頂上人は、鎌倉での布教に忙しく、日蓮聖人の三回忌法要に遅刻してしまいました。
日常上人はこれを許さず、日頂上人を勘当してしまったそうです。
厳しい方だったんですね・・・


日頂上人は泣きながらこのイチョウの木の周りを、宝塔偈を唱えて何回も廻り、許しを請いながら立ち去ったそうです。
結局、日頂上人は日興門流に合流することになりました。

これ以降、日常門流では宝塔偈は読まないそうです。  あらら・・・


巨木が並ぶ杜を抜けると、ん?エスニックな建物


聖教殿です。堂々たる偉容です。
これは宗門の最重要建造物、金庫室みたいなものでしょう。
それこそお祖師様ご真筆の「立正安国論」や「観心本尊抄」といった国宝や、大量のご遺文などの宗宝が格護されているそうです。


象や羊も守っています!
毎年11月、お風入れの際に宗宝の一般公開をしているそうです。万難を排して伺います!!


ここが宗内随一の祈祷根本道場「大荒行堂」です。
ここで11月1日~2月10日、厳冬の100日間の大荒行を修した僧のみが「修法師」を名乗れます。


「行堂清規」がありました。
「~コト勿レ」「~ベカラズ」「~ヲ許サズ」的な23箇条のルールが並んでいました。
昔のままなんですね・・・  過酷過ぎます・・・

ウチの菩提寺のお上人も大荒行を成満しています。
改めて尊敬の念が深まりました。


鬼子母神堂です。
日蓮聖人ご真刻の鬼子母神像が安置されていると聞き、義母の病気平癒を祈祷して頂きながら、お姿を拝見しました。
結構古い(そりゃ~鎌倉時代だもの)せいか、木像自体が黒ずんでおり、表情は拝めませんでしたが、優しい感じを受けましたね!

何より祈祷して下さったお上人が、めちゃくちゃいい声で読経して下さるので、とっても気持ちの良い時間でした!


そういえば、このお寺には大仏さんがいるんじゃなかったかな?
ん?工事中?


300年の風雨にさらされて、基礎が傷んでいたそうで、現在解体工事ちう!


多分あの中に鎮座しているのでしょう。
来年春にはリニューアルした大仏さんが拝めるようです。


また来ますね!!!