日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

光秀山浄永寺(小田原市城山)

2017-04-30 15:26:09 | 旅行
このブログでも参考資料としてよく使わせて頂いている「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)ですが、僕の生まれ育った小田原の地名が名前になっている方がいるのを発見しました!!
「相州 風祭入道光秀」
「光秀妻 浄久女」
・・・今まで耳にしたことがなかったお名前でした。
ただ、この御涅槃拝図にいるということは、日蓮聖人とご縁がとても深い方なんでしょうね・・・


調べてみると、風祭入道光秀公ゆかりのお寺があることがわかりました!
小田原!!!
ちょうど1年前に天守閣をリニューアルし、展示がすごく見やすくなりました。
お客さんもめちゃくちゃ増えたそうです!


小田原の高級住宅街・城山の坂道を少し登ると・・・


ありました。「光秀山 浄永寺」です。
地元では院号の「妙光院さん」と呼ばれることの方が多いようです。
「七面大明神 安置」って刻まれています。


参道にでっかい題目法塔がありました。
本当にでかい。竹之下の山中にあった法塔クラスです。


法塔の側面には小田原の方と並んで富士郡川成島(田子の浦の近くみたいです)の方の名前も!
行き来があったのでしょうか?


逆側の側面には
「御題目 十萬部」
「御経 二千記」
と刻んでありました。お題目を10万回唱えて写経もするのかな?(このへんが実はよくわかりません・・・)
ちょっと気が遠くなるような数字ですね~!


お寺の入り口です。
山門はありませんが、立派な松が迎えてくれます!


境内でまず目につくのがこの枝垂れ桜!
大きさといい形といい、身延山の枝垂れ桜に負けてません!!


本堂です。
枝垂れた先が画像にまで映り込んで、とっても和みます。


あった!これいいよね~!!
「火灯窓」っていうそうです。
僕はてっきり梵鐘の形かと思ってましたが、炎の形なんだそうですよ。


本堂は「法華堂」というそうです。
北条時宗の家臣であった風祭大野亮光秀公(名前の通り、小田原の風祭に住んでいたらしい)は、日蓮聖人に帰依していたそうです。壇越として日蓮聖人の布教を助けていた方と思われます。
先日訪問した象ケ鼻霊場があるように、風祭は日蓮聖人ととても縁の深い場所なのかもしれません。


弘安3(1280)年(日蓮聖人が亡くなる2年前ですね)に身延山を参詣した風祭大野亮光秀公は、日蓮聖人からご真筆のお曼荼羅と蛇身解脱画像を授与され、自分の屋敷に法華堂と七面社を造ったそうです。



「日蓮聖人蛇身解脱画像」
この絵は日蓮聖人の説法像なのですが、手前の花瓶に蛇が巻き付いています。いわゆる七面天女(龍なんですよね!)の伝説を描いた、極めて珍しい絵柄だそうで、現在は鶴岡八幡宮横の鎌倉国宝館に収蔵されているようです。(画像は鎌倉国宝館編集・発行「北条時頼とその時代」より引用)

徳川家康の側室、お萬様がこの絵をことさら信仰されたそうで、そのご縁で紀州徳川家の祈願を浄永寺で行ってきたそうですよ~! す、すげぇ!!


七面堂です。
法華経を守護する七面大明神を祀っています。
この七面堂は小田原城の後北条家とのご縁が深いようですよ。


北条氏康が当時のこのお寺のお上人であった日源上人に戦勝祈願を依頼したところ、七面明神の威力で戦に勝利できたそうです。

氏康から日源上人に宛てたお礼状が石碑となっていましたよ。
ビッグネームが続々登場しますね~


第39世までの歴代お上人が刻まれていました。


日蓮聖人は風祭大野亮光秀公の子をお弟子さんとし、妙音阿闍梨日行と名付けてこのお寺の開山としました。


御涅槃拝図にも日行上人、描かれています。
「九老」と書かれています。
京都開教の日像上人や法船寺開山の朗慶上人などとともに、日朗上人の優秀なお弟子さんだったんですね!


こんなに格の高いご霊跡があるなんて・・・ほんと・・・灯台下暗しでした・・・
小田原・・・なかなか凄えぞ~!

車返し霊場(裾野市深良)

2017-04-27 14:43:12 | 旅行
先日、鎌倉の本覚寺を訪問した時に、境内の花壇にありました。
「御車返し」
”みくるまがえし”と呼ぶそうです。
平安時代の京都に由来する桜で、一重と八重の花が混じって咲く珍しい品種だそうです。
御車に乗っていた後水尾天皇が、一重か八重か確かめたくて御車を引き返した事から、その名が付いたそうです。


その名前に刺激されて・・・
来ちゃいました!裾野!!
246号の深良新田下という交差点から細い道に入ります。


道ばたには茶畑。そろそろ八十八夜ですね!
裾野茶の生産が盛んな地域みたいですよ!


柔道場がありました。館内からは子供達の元気な声がしてました。


御殿場線の踏切を渡ると


すぐそこにお堂があります。


車返し霊場です。
「車返し」とはこの界隈の旧地名だと思われます。傾斜が急だとか行き止まりだとかで、そこから先は車で行けず引き返す場所、という意味だそうです。


立派な扁額ですね!


この題目法塔の裏側に、由緒が書いてありました。
佐渡赦免の後、幕府に3回目の諫暁をしましたが受け入れられず、文永11(1274)年5月12日に日蓮聖人は鎌倉をあとにし、身延に向かいました。


12日に酒匂(今の法船寺)、13日に竹之下(今の常唱院)に宿泊され、14日にここ車返しにご一泊されたそうです。5月14日・・・僕の誕生日!(笑)


明応年間(室町時代でしょうか)に、ここにお堂が建てられ「上原山最復寺」と称したそうです。


その後、三島の本覚寺の所轄となったそうです。


日蓮宗ポータルサイトの寺院めぐりを見てみると、この付近に「車返し結社」があるそうです。
このご近所の信仰の篤い方々が、車返し霊場を維持・管理して下さっているのだと思われます。
ご苦労様です。


お堂の隣に小さな祠。
中には石仏が祀られていました。僕、仏像は詳しくないのでわかりませんが、手が8本ありましたよ!


近隣の篤信者の方々による題目塔や供養塔、馬頭観音などが並んでいました。


日蓮聖人生前の身延入山の時だけでなく、池上でご入滅後にご真骨が身延に運ばれる際にもここにご一泊されている、とも刻まれていました。
日蓮宗の檀信徒にとって、今でもお祖師様を近くに感じられるありがたいパワースポットです。

末永く清められてゆく事を願ってやみません。

妙法華経山安国論寺(鎌倉市大町)

2017-04-23 19:07:27 | 旅行

松葉ケ谷の四つ辻
正面を行くと「妙法寺」、右斜め奥に「御硯水」「化生窟」、そして右の杜が「安国論寺」です。


「松葉ケ谷根本霊場」
「根本」って時々目にしますが、どういう意味なんだろう?
・・・ルーツってこと?


鎌倉市が設けている案内板がありました。
山号は「妙法華経山」です。


境内の案内板がありました。
見どころたくさん!
左隅に描かれてる「化生窟」「御硯水」は以前、訪問させて頂きました。


山門です。
一切の色彩を排除した、ひなびた感じがグーです。


扁額には「安国法窟」と書かれています。
岩窟がご霊跡のお寺なんですね!


正岡子規の歌碑がありました
正岡子規も法華経の篤信者だったようです。


山門右側に閉じられた岩窟発見!
例のご霊窟とつながってるのかな?


訪問したのは4月中旬。
ツツジがいい感じに咲いています!!


境内の至る所に石灯籠があります。
それぞれに葵の御紋が刻まれていました。
・・・徳川家とつながりが・・・?


本堂です。
水平方向に広がってゆく屋根が印象的です。


寺紋なのでしょうか。瓦の一枚一枚に付いてます。


あ、これですね!よ~く見ると松葉を3組、巴状に組み合わせた紋です。
まさに松葉ケ谷の寺紋ですね!


ヤマブキですよね!黄色(ヤマブキ色?)が鮮烈です。


大きな大きな足形。
お釈迦様の足形と思われます。
以前、厚木・依知の妙伝寺で、等身大(丈六)の釈迦如来像を見ました。5m近くあったかな~?



「御小庵」です。現在の建物は元禄時代に尾張徳川家から寄進されたものだそうです。
徳川家とのつながりがありましたね~!
石灯籠は芝・増上寺の徳川家霊廟にあったものを移したもののようですよ。


御小庵にはいろんな動物の彫刻がありました。
象の彫刻もありました。以前訪問した象ケ鼻もしかり、鎌倉時代に象・・・?とも思いましたが、仏教のルーツ・インドからは、動物の情報も伝えられていたのかもしれません。


御小庵の傍らで咲くのは「妙法桜」です。日蓮聖人の杖が根付いたものだそうです。
実はこの桜、とても珍しい山桜の品種のようで、鎌倉市の天然記念物になっています。


御小庵の裏側には「御法窟」があります。(御法窟の出口に御小庵が建っている感じです)


日蓮聖人が鎌倉で辻説法をしていた時代、天災地変が続き、民衆は不安と苦しみにあえいでいました。
なぜこんなに天変地異や災害が続いて起こるんだろうか?と日蓮聖人は疑問を抱きました。


日蓮聖人は、これらの原因は誤った仏法が広まった事に対する天誅と考えました。
日本国を救うためには、誤った仏法を正し、正しい仏法「法華経」に導くことが肝要だという「立正安国論」を、この御法窟で書き上げたのです。


立正安国論は、旅人と主人の問答形式でわかりやすく書かれています。
立正安国論の代表的な一説が石碑になっていました。主人が旅人(汝)に速やかに法華経に帰依せよ、と説いた言葉です。


熊王丸殿です。
日蓮聖人にお仕えした熊王丸が感得された鎮守様です。
いろんな霊験があるそうです。歯の痛みにもいいそうですよ~!


山の尾根を登る階段


その先には・・・おお~!鎌倉一望!
日蓮聖人は毎日、ここから富士山に向かって法華経を読まれていたそうです。


尾根の途中に鐘楼があります。
毎日ここまで鐘を衝きに来るのは大変ですね・・・ご苦労様です!


鐘に刻字されたお題目と・・・


立正安国の文字は、お祖師様のご真筆を写したものだそうです。


本堂の裏手になるんでしょうか。「南面窟」がありました。
先ほどの御法窟とは対面になります。


立正安国論を時の権力者・北条時頼に献上したことが多くの念仏論者の怒りを買い、松葉ケ谷の焼き討ちに遭ってしまいます。
この時に一時退避したのが南面窟です。


崩落防止のため、補強されていましたが、意外と奥行きのある岩窟です。
ここにしばらく身を隠していると、どこからか白い猿が現れ、日蓮聖人を名越のお猿畠(今の法性寺あたり)に導いたと言われています。

南面窟の奥には日蓮聖人像の隣に、お猿の石像が祀られていましたよ!
何だか嬉しくなりました。


最後にこんなご霊跡を拝むこともできました。
「日朗上人御荼毘所」
日朗上人は松葉ケ谷で出家・得度しました。自分が死んだらこの地で荼毘に附して欲しいと遺言されていたようです。


日蓮聖人のお弟子さんの中でも、最も日蓮聖人のお近くで仕え、苦楽を共にした日朗上人。
御廟は法性寺にあります。


これまでに僕が訪問した多くのご霊跡に、日朗上人や日朗上人のお弟子さんが関わっています。

右腕を大怪我した材木座の別れや、龍ノ口の法難の時に土牢に幽閉されてしまったことなど、悲しい逸話が沢山ある一方で、誰からも敬愛されるお人柄で関東の宗門を築き上げた、とても優れた僧侶、それが日朗上人です。


日蓮聖人が鎌倉入りしたのが建長5(1253)年、佐渡に流される文永8(1271)年までの実に18年間、布教の拠点として、そして生活の拠点としていた松葉ケ谷。

随所で日蓮聖人の魂を感じ取ることができました。
ここも間違いなく「棲神の地」だと思います。

象ケ鼻(小田原市板橋)

2017-04-09 20:13:02 | 旅行
今年の3月は気温が上がらず、桜もなかなか咲きませんでしたが
やっと咲いてきた~!
・・・な、日曜日に風祭のご霊跡を訪問しました!


3ヶ月前には箱根駅伝で賑わった国道一号線
ここは6区から7区の中継地点です。


国道一号線、箱根登山線と、小田原厚木道路が交差するこの丘


何か・・・ありますね~


説明板がありました。
この説明板によると、日蓮聖人が身延に向かうために鎌倉をご出発されたのが文永11(1274)年5月12日。
その夜に酒匂の法船寺にご一泊され、翌5月13日に酒匂川を渡り、ここに立ち寄られたそうです。


「ふた親さん象の鼻」というご霊跡のようですね。


門があります。井桁に橘の宗紋が掲げられています。
注連縄に紙垂が付いています。今もどなたかが管理しているご霊跡なのでしょう。


「日蓮聖人思親の地」と刻まれています。


眼下を箱根登山線がゴトゴトと登ってゆきます。


上り坂・・・どこに続いているのかな?


ハアハア・・・
まだまだ登る~


ここで道が二手に分かれます。
右手は・・・見晴らしが良さそうだぞ!


木が茂っていますが、小田原の海が見えますね~!
その向こうには房総半島が見えます。

実はこの場所、巨大な岩の上なんだそうです。
形が象の鼻に似ていることから、「象ケ鼻」と呼ばれていた岩なんだそうです。


後日、箱根ターンパイクを通った時に撮った写真ですが、こんもりした部分が右側に向かって細く伸びていく、この部分のことなんでしょうか?


日蓮聖人はこの場所から、遠く房総の地で亡くなったご両親を偲ばれたそうです。


風神様もこの地を見守ってくれています。


さらに登ってゆきましょう。


振り返れば天下の険、箱根山!


登りきった場所に、お堂が建てられていました。
日蓮聖人はここ象ケ鼻で、衆生を苦しめる病を消滅させるべく祈願し、法塔を立て、お曼荼羅本尊を書かれ、石仏を刻されたそうです。

このお堂の中にも古い石仏が手厚く祀られていました。
(お寺の本堂と同じだと思いますので、画像はありません)


・・・日蓮聖人の逸話も素晴らしいのですが、それより僕は、このあまり知られていないご霊跡の、それこそ風雨に晒されてしまえば朽ち果ててしまいそうな古い石仏のために、資材を担ぎ上げてお堂を建てた篤信者の方々の熱意に、感服してしまいました。


それこそ岩場のご霊跡ですから、本当に大変な作業だったと思われます。
真ん中に見える斜めの物体、これ全部岩ですよ!

このご霊跡には、のちに朗慶上人により「象鼻山妙福寺」というお寺が開かれたそうです。
朗慶上人は日朗上人のお弟子さんで、酒匂の法船寺も開山されていますよね!


残念ながら、象鼻山妙福寺は大正時代に廃寺になってしまいました。
丘の中腹に、ここかな?と思われる、視界の開けた場所がありましたよ。


現在、この近くにある「御塔山生福寺」が、象鼻山妙福寺を引き継いでいるそうです。
一度訪問してみたいものです。


坂を下ってきて気付きました。
一対の狛犬が守ってくれてるんですね!!


僕は小田原出身ですが、ご霊跡の存在自体、ごくごく最近まで知りませんでした。書籍などでほとんど紹介されておらず、他のご霊跡の調べ物をしている時に偶然見つけることができました。


「人知れず・・・」という言葉がピッタリの場所ですが、考えてみれば近隣の庶民たちの信仰の地でもあるわけで、そのへんは十分リスペクトしていたいものです。

でも・・・来て良かった!!!