日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

慧命山蓮華寺(富士川町鰍沢)

2018-06-28 20:39:35 | 旅行
弘安5(1282)年9月8日、体調がすぐれないため、身延のお山を下りた日蓮聖人は、8日の晩は下山に泊まり、翌9日は鰍沢に泊まったといわれています。
鰍沢の「大井荘司入道」という方のお宅に宿泊されたそうです。


大井荘司入道は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれており、日蓮聖人とご縁が深い方だと思われます。


鰍沢の蓮華寺を訪問しました。
このお寺の前身は大井荘司入道の館です。


ということは・・・
日蓮聖人が弘安5(1282)年9月9日にご一泊されたのは、この場所のようですね!


山号は慧命山です。
お自我偈で馴染みのある漢字が並ぶ山号です。


このお寺は日興上人に由縁があるのかな?
日興上人の生誕地のようですね。


もともと天台僧だった日興上人は岩本実相寺で日蓮聖人に初めて会い、その教えに帰依したと聞いていますが、ルーツはここ鰍沢にあったんですね!
大井荘司入道とは親戚関係のようです。


日蓮聖人のご尊像に合掌。


遠目には厳しそうなお顔ですが、近づいてみると優しそうな表情をしています。


「寂日坊日華上人𦾔跡」の石碑がありました。
このお寺の開山が日華上人なのです。
日華上人は鰍沢の有力者であった秋山氏の家系だそうです。

ところで「寂日坊」って・・・妙行日課の14日のところに寂日坊御書があって、僕も何度か読んだことがありますが、その方でいいのかな?
親子になるっていうのは深い因縁があるんですよ、っていうお話です。


鰍沢出身の日興上人が秋山家でお説法をした時に帰依したそうです。つまり日興上人の直弟子、日蓮聖人の孫弟子にあたります。

日蓮聖人ご入滅後、日興上人の命でここに蓮華寺を開いたそうです。
日興上人生誕の地であり、さらに日蓮聖人がご一泊された、いわば聖地ですからね、建立されるべくされたのでしょう。


大井荘司入道御書が刻まれた石碑がありました。
お祖師様に食材を送り、そのお礼にお手紙を頂くなんて、本当に身近な信徒さんだったんですね!


このお寺にはモミジの木が沢山あります。


秋には全山が真っ赤に染まるらしいです。
見てみたいですね~!


お祖師様が鰍沢にお泊まりになったのは9月、そのひと月後に、池上でご入滅されました。

その年の紅葉を見ることはなかったんですね・・・。

休息山立正寺(甲州市勝沼町)

2018-06-27 17:24:34 | 旅行
激動の人生だった日蓮聖人。
各地を全力で布教に歩く道中、人間ですから緊張の糸を緩める、ホッとする瞬間もあったはずです。
時折、そんな山号を持つご霊跡に出会います。


↑立教開宗したのち鎌倉入りする直前に、眺めのいい山中の石に腰掛けて休まれた、葉山の「腰懸山」実教寺。


↑そして身延山を下りて常陸へ向かう道中、芳しくなかったお身体を休めた、座間の「休息山」円教寺。
こちらのお寺には龍ノ口法難の翌日、依知へ向かう途中にも休息され、前夜の大事件で疲れた神経を癒やしたといわれます。


そしてここ甲州にも、身延山入りした日蓮聖人が御草庵が完成するまでの間、巡化の旅をした時に、疲れた足を休めたといわれるお寺があります。
「休息山」立正寺です。


山号の「休息」という言葉はこの界隈の地名にもなっており、公民館も「休息」公民館です。
長居しちゃいそうですね!


山門から延びる参道を歩いたんですが・・・驚きの連続でした!!


この休息学校跡あたりが参道の始点のようです。
近所にある甲州市立東雲小学校の前身で、何とここは立正寺の境内だったそうですよ!

しかし、休息学校って・・・授業中に居眠りする児童続出しそうな名前(笑)


参道には、いたるところにお題目の法塔があります。


そして現役の塔頭寺院が数ケ寺


また廃寺になったと思われる塔頭跡がこれまた結構沢山あります。

本山格の寺院でも、なかなかここまでの規模のところはありません。図抜けたスケールのお寺のようです。


立正寺の玄関・山門です。


ん?何て書いてあるんだろう?
お寺の縁起によると、「兜厳魁刹(とがんかいさつ)」と読むようです。
「兜厳」はこの地が甲州、甲斐と呼ばれる以前の地名、「魁刹」は最初のお寺という意味、つまり甲州で最初にできたお寺って意味だそうですが・・・実はもう一つ隠された意味があるそうです。

武家政権だった鎌倉時代、「兜(かぶと)」は権力の象徴、その権力に「厳」しく行く、屈しないというお祖師様の強い意志も含まれた言葉なのだとか。
ちなみにこの扁額は水戸光圀公の揮毫だそうで、二つ目の意味をよく理解した上で、筆を執ったと想像できます。


お地蔵様の奥に「御朱印地」の石碑

御朱印地は江戸時代に幕府や大名から寺領として公認された土地なんだそうです。(甲州は幕府直轄地だったから江戸幕府直々、だったと思われます)
御朱印地は税金が免除され、収益は全てお寺のものになるなど優遇されていたそうです。いわば幕府お抱え、甲州の安定に必要なお寺と認められていたのでしょう。


境内はメチャメチャ広く、サッカー場が何面取れるんだろう?ってくらいのレベル。


祖師堂です。
寛文年間ですから江戸時代の初期、ゆうに350年は経過しているお堂です。
途中火災にも遭ったようですが、全焼は免れたようですね。


ピンボケでごめんなさい(o_ _)o
祖師堂内に掛けられていたこの竹のレイみたいの、底抜け柄杓(ひしゃく)を紐でつないだものだそうです。
地元では「おやっこさん」と呼ばれる子安地蔵尊は安産のご利益があるそうで、妊産婦は安産を意味する底がない柄杓をお守りとして求め、ご利益があると皆さん奉納しに再詣するそうですよ!


兜厳魁刹(甲州で最初のお寺)というだけあって、このお寺のそもそものルーツは奈良時代、行基菩薩が開創した地蔵寺だったそうです。
のちに真言宗の胎蔵寺に変わりました。
夥しい数の支院を有する大寺院だったといいます。


日蓮聖人が胎蔵寺を訪れたのは文永11(1274)年初夏、石の上で僧侶達に立正安国論を説いたと言われています。
立正寺のハキハキとしたお上人に、その石の場所を伺いました。
庫裏前の細道を歩いて行きます。


お寺の周りはフルーツ、フルーツ、フルーツ!!


果実の画像を撮っていると、近所のおばちゃんに「そんなに珍しいかい?」って言われちゃいました。
地元の方にとってはミカンなんかの方が珍しいそうですよ!


200mほど歩くと、お祖師様がお説法した石をお祀りしているお堂があります。


法塔の台座には「輪石庵」の文字。


当時の胎蔵寺学頭・辻之坊有範阿闍梨は、日蓮聖人のお説法に感銘を受け、すぐに帰依して日乗を号したそうです。
「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。


そして胎蔵寺を法華経のお寺に改宗し、休足山日蓮寺となりました。立正寺のルーツです。
もともとは休足山か・・・お祖師様は足を休めてたんですね!


胎蔵寺には恐らく沢山の僧侶がいたと思われますが、それを宗旨そのものからひっくり返すわけですから、学頭の力って強大なんだな~って思います。
確か岩本実相寺も、当時の学頭であった智海法印が改宗の原動力になったんですよね!


立正寺境内には「祖師御袈裟掛松」があります。本当に見事な枝ぶりです。
初夏の夕暮れ、お祖師様はこちらに袈裟を掛けて、もしかしたら胎蔵寺の探究心旺盛な若いお坊さん達を相手に、立正安国論について忌憚のない議論をしたのかもしれませんね。


それにしても立正寺の境内は広い広い!お上人によると、実に1万坪はあるそうで、諸堂の扉の開け閉めだけでも大変な作業だと思います。

先代から受け継ぎ、そして次の世代までご霊跡を維持してゆく・・・これを何百年もコツコツと続けてきてくれたから、今日僕達が往時を偲び、お祖師様が見た景色、お祖師様が感じたことなどを想像することができるのです。

感謝してもしきれません。

鵜飼山遠妙寺(笛吹市石和町)

2018-06-26 19:09:25 | 旅行
日蓮聖人が身延山に入られた文永11(1274)年初夏、草庵が完成するまでの間、日蓮聖人は甲州を布教に廻られました。
その際、ここ笛吹川の畔・石和にも立ち寄られたそうです。
昔はこの笛吹川に並行して鵜飼川という川が流れていたようです。
しかし洪水で2本の川の流れは1本になり、笛吹川として今に至ります。


笛吹川から目と鼻の先に、日蓮宗寺院・遠妙寺があります。


目の前には「鵜飼山」のバス停。
遠妙寺の山号ですね!なかなか特徴的な名前です。


山門がありました。
仁王門のようです。



阿行と吽行。最近は仁王様の口を確認せずにはいられません(笑)


日蓮聖人のご尊像に合掌。


雨が降り続く中、ご苦労様です。
台座には「鵜飼済度 宗祖日蓮大上人」と刻まれていました。
済度とは、迷い苦しんでいる人を救い悟りの境地に導く、あるいは妖怪や物の怪などを成仏させる、などの意味があるようです。


本堂です。
とてもキレイに維持されているお堂です。


この地を巡化された日蓮聖人は、鵜飼漁師・勘作の亡霊に遭遇したそうです。
もともと平家の落人であった勘作は、逃れ逃れて石和に住み着き、鵜飼漁師を生業にしていたそうです。
しかし病に苦しむ年老いた母親の薬代を稼ぐため、密かに鵜飼川の禁漁地で漁をしていました。
そこは岩落という法城山観音寺の寺領で、殺生が禁じられていた場所だったのです。


これが村人にばれ、勘作は簀巻きにされて川に沈められ(恐わ・・・)殺されてしまいました。
勘作の亡霊はその後悔と罪を償いたいという思いに長く苦しみ、彷徨っていたのです。


これを哀れに思った日蓮聖人は、済度の法要をしました。


付き添っていた日朗上人が集めた石に、日向上人が擦った墨を使って、日蓮聖人が三日三晩かけて法華経の経文を石に一字ずつ書き、岩落の鵜飼川に沈めて供養したそうです。
法華経の経文って・・・と、とんでもない文字数だぞ~!


結果、勘作の亡霊は無事に成仏し、もう現れなくなったそうです。
遠妙寺には勘作を偲び、「漁翁堂」と、


勘作の供養塔があります。


日蓮聖人が施した法要が、いわゆる川施餓鬼のもとになったそうです。
山門横に「宗門川施餓鬼根本道場」とあります。「根本」とはルーツって意味じゃないかと思います。(画像が不鮮明ですみません・・・)


手水の場所の扁額には


「御硯水」の文字。恐らく6万何千もの経文の文字を書く際に使った水でもあるのでしょう。
手水の動作も厳粛になっちゃいます!


これは境内で見つけた石碑ですが、「宗祖硯井戸道」って刻まれています。
御硯水自体を求めて参詣する信徒もいたのではないでしょうか?


「従是鵜飼川ヘ七丁下る」とあります。
鎌倉時代の七丁は420歩(1丁60歩)くらいだったようですが、この碑が建てられただろう時代だと、多分700mくらいのことでしょう。


そうそう、遠妙寺近くの歩道、タイルにこんなプレートが!
遠妙寺のご住職(考古学者でもある優しいお上人!)によると、笛吹川の鵜飼い漁は昔から歩いてやる「徒歩鵜(かちう)」なんだそうです。
恐らく勘作も徒歩鵜で漁をしていたのでしょう。
現在、日本全国14ケ所で鵜飼い漁が残っているようですが、笛吹川の鵜飼い漁は最も東だと仰っていました。

え?・・・まだ笛吹川で鵜飼い漁が残ってるの?


遠妙寺からほど近くにある観光案内所に行くと、鵜飼い漁のでかいポスター!


遠妙寺前の笛吹川で7月20日から約1ヶ月、毎週水木土日にやるそうですよ!


よく見れば橋の欄干にも鵜!


対岸の旅館も「うかい」!


わ~!鵜飼いだらけだ~!


お祖師様が懸命に鵜飼いの亡霊を済度した逸話は、能の謡曲「鵜飼」のもとになっているようです。

小室山にまつわる古典落語「鰍沢」といい、山梨のご霊跡が、有名な伝統芸能に出てくるのには驚き!

順徳院山常説寺(甲斐市吉沢)

2018-06-25 20:47:03 | 旅行
6月17日は開闢会でした。
この日だけは御草庵跡内に祭壇が設けられ、大法要が行われます。


法要前、日蓮聖人をこの地に迎えてくれた波木井公の御廟に参拝しました。


左端が波木井公の御廟なのですが、その右側に阿仏房日得上人の御廟もありました。
阿仏房は佐渡に流され四面楚歌だった日蓮聖人を支え続けた大恩人だと聞いています。しかし僕は未だ佐渡を訪問していないので、阿仏房の存在を実感したことがありません。


阿仏房はもともと順徳天皇に仕えた武士で、順徳天皇が佐渡に流される際にもお供したそうです。天皇が崩御した後も佐渡の御陵近くに住み、御陵を清めていたといいます。
順徳天皇は鎌倉時代、幕府を倒すために承久の乱を起こし、結局倒幕に失敗して佐渡に流されてしまった方です。


山梨の景勝地・昇仙峡の近くに、順徳天皇にまつわる日蓮宗寺院があるというので、訪問してきました!

昇仙峡の奥から流れてくる荒川は、甲府盆地で笛吹川に合流し、やがて富士川になります。


川のすぐ近くに、常説寺の入口があります。


保育園を併設しているお寺なんですね!


常説寺の本堂です。


扁額には山号の「順徳院山」
順徳天皇ゆかりのお寺で間違いなさそうです。


とても柔和な表情のご住職が、お寺の由緒を説明して下さいました。

順徳天皇は佐渡に流される直前、越後の寺泊から甲州の金峰山の神様に捧げ物をするため、勅使を遣わせたそうです。

金峰山は山梨県北部、ちょうど長野県との県境にそびえる2595mの山で、別名「御岳(みたけ)」と呼ばれており、信仰のお山だそうです。
今から1300年以上昔に、役行者が奈良吉野の金峰山から蔵王権現を勧請したことから、順徳天皇は遠く吉野を想いながら、甲州金峰山に奉幣したのではないかと言われているそうです。
吉野の金峰山には・・・政敵が多く奉幣できなかったのでしょうね。


常説寺から7~8kmかなぁ?昇仙峡を過ぎて更にガンガン上った所に金桜神社があり、ここに甲州金峰山の神様がお祀りされています。
ちなみに甲州金峰山はここから更に北に20kmの所にあります。


勅使達は白輿に捧げ物を入れ、それを担いでこの標高の高い山中に運ぼうとしました。しかし白輿は大きく重いために、途中のお寺に預けました。
仕方なく、中の捧げ物を持って、登山して運んだといいます。


そのお寺というのが常説寺の前身、天台宗の圓乗寺だったということです。


こちらの蔵に白輿が格護されているそうです。菊の紋が付いていますね。
国の重要文化財に指定されているみたい。


白輿は塗りとか装飾がない、白木のままの輿だそうです。
常説寺のご住職によると、葬儀の際、位牌とか祭壇に白木が使われるのと意味合いは同じで、佐渡に流される順徳天皇は死を覚悟して奉幣したのだろうということでした。


白輿の蔵の前に、日蓮聖人のご尊像が!
御草庵ができるまでの間、甲州を布教に廻っていた日蓮聖人は、この場所にもご一泊されているそうです。


佐渡での生活を支えてくれた阿仏房に、かつてお仕えしていた順徳天皇が佐渡配流の直前に奉幣した甲州金峰山のこと、金桜神社のことなどを聞いていたのかもしれません。


当時天台宗寺院だった圓乗寺のご住職を教化し、お寺は順徳院山常説寺となりました。


歴代お上人の御廟に参拝。
山梨県内でも最古クラスの日蓮宗寺院です。長い歴史の中、脈々と法灯を継いで下さっていたことに感謝です。


日蓮聖人が佐渡で阿仏房夫妻に出会うことが出来たのは、順徳天皇のお導きなのかもしれません。

時間が許すならば是非一度、佐渡に行き、順徳天皇と阿仏房夫妻の足跡を訪れてみたいと思います。

小室山妙法寺(富士川町小室)

2018-06-24 23:27:41 | 旅行
江戸の法華信徒達が身延山参詣に使った小室道は、青柳の昌福寺から鰍沢に至り、
そこから西の山中に入ってゆく道があります。


道端にはお題目の法塔や祠がいたる所にあり、


昔は法華信徒の往来が多かっただろうと思わせる痕跡が見られます。


案内が出てきました、妙法寺。
あじさいで有名なお寺なんでしょうか。


しばらく上ると、総門があります。
これが結構な重厚感で、調べると妙法寺自体は何度も火災に遭っているけど、総門だけは免れており、江戸中期の建築のまま残っているようです。


門前町を抜けて正面に、これまた圧倒的な迫力の三門。
ここまでの雰囲気は身延山久遠寺に極似しています。


山号は徳栄山です。
・・・あれ?さっき看板に小室山って書いてなかったっけ?


阿行と


吽形が睨みをきかせています。


本堂です。
二層の屋根が、一般の寺院との違いを象徴しています。
幕には井桁に橘の宗紋と、お寺の紋でしょうか、丸に三つ引きが染め抜かれています。


鐘楼です。
全体のシェイプがセクシーです。


部材の組み上げを見ているだけで、小一時間過ぎてしまいます。


6月24日から一週間、あじさい祭りがあるそうです。


境内にはこれでもか!っていうほどのあじさい。
この日は雨。あじさいが映えます。


歴代お上人の御廟に参拝。
しかし歴史が非常~に古いお寺なので、裏山に幾重にもお上人の墓石が並んでいて、全体像を把握するのが難しいほどです。


裏山に延びる階段。小さい祠があります。


おぉ~!このマークは!
七面山神力坊や身延山妙石庵、十萬部寺などで見られた天狗?修験道?のマークですね!
岩本実相寺の祠にもありましたね。


この祠の麓には拝殿と思われるお堂がありました。
なぜ拝殿だと思ったのかというと・・・
その真後ろに祠への階段が延びているからです。
よく配置が考えられています。


扁額には「妙法善神」の文字。
妙太郎、法太郎が関係しているのかもしれません。


お寺の縁起を見てみると、妙法寺は今から1300年前、修験道の開祖・役行者が開創したということです。


このお堂の壁には天狗の絵!
やはり山あいのお寺には天狗、修験道、役行者というキーワードが付きまといます。

修験道が関係しているお寺は、もともと真言系か天台系が多いように思います。
てことは密教と修験道って密接な関係があるのかもしれませんね!


日蓮聖人が身延山に入られた当時、小室山は真言系の山伏のお寺であり、東国を仕切っているリーダー的な存在だったようです。


日蓮聖人はこのお寺の教化をテコに、法華経を甲州に広めたいと考えたようです。
身延入山の11日後には小室山を訪問したそうです。


田んぼで作業する女性の足に、蛭(ヒル)がいくつも付いているのを目にした日蓮聖人は、蛭を手に取り法華経を読誦し、祈祷したところ、それ以降、蛭は血を吸わなくなったといいます。
村人はこれに驚き、日蓮聖人の教えを請おうと集まりました。



実際に田んぼに行ってみると・・・!!!
驚き!今はヒルならぬイモリの大群がいました!



当時、小室山のリーダーだったのが善智法印です。
俺のシマで勝手なことしやがって・・・と思ったのかどうかわかりませんが、日蓮聖人に法論対決、それが敵わないとなると法力対決を挑みました。


小室山の麓に、「法論石」という看板があります。
ここ土録という場所に、懸腰寺というお寺があり、ここに法論石がお祀りされているようです。


善智法印は鍛えた修法で、大石を空中に浮かせました。(←スゴいんですけど!)
どうだ!とばかりの善智法印に対して、日蓮聖人は法華経とお題目を唱え、「この大石を空中に縛り付けたから、あなたの法力で下ろしてみなさい」と言いました。(←もう次元が違う話で付いていけないよ~)
善智法印は必死に祈祷しましたが一向に下ろせず、逆に日蓮聖人が法華経と唱えると元の位置に戻ったそうです。(・・・ホッ)

これが善智法印との間にあった法論・法力対決で、敗れた善智法印が一度は帰依したように見えて、実は・・・と毒餅と白い犬の話になってゆくのですね。やっとわかった!


のちに本当に心から帰依・改宗した善智法印は、真言のお寺だった小室山を法華のお寺に改め、お祖師様から直々に「徳栄山妙法寺」の寺号を付けて頂いた、というのがルーツです。
なのでこのお寺の開山は善智法印改め、日伝上人ということになります。


日伝上人は「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも描かれています。
帰依してからの日伝上人は、一心に日蓮聖人のために尽くしたと言われています。
真っ直ぐな人、なんですね。


日蓮聖人のご尊像に合掌。


とっても、いい表情されてると思いませんか?
小雨が更に、雰囲気を出しています。
まるでお祖師様がそこに居るみたいです。


祖師堂です。
この地で甲州布教の基礎を築いた日蓮聖人を想いながら、合掌しました。


いろんな逸話が詰め込まれているお寺・妙法寺。
江戸庶民の講中たちが、こぞって参詣したというのも頷けます。
中には身延山よりも小室山目的で甲州に来る方もいたそうですよ!


ところで日蓮聖人の身代わりになった白い犬ですが、ここ小室山では日蓮聖人が飲ませた「毒消し護符」により、生還したという逸話が伝えられているようです。


小室山代々の貫首様が、「毒消し護符」の祈祷を相伝しているそうですよ!
一つ、購入してきました。
何ていうか、健康のお守りみたいなものだと思って、身近に置いておきたいと思います。


帰り道、道路上をうごめく黒い姿・・・
こ、ここにもイモリ~!

壽命山昌福寺(富士川町青柳町)

2018-06-24 08:17:26 | 旅行
文永11(1274)年、身延山に入られた日蓮聖人は一時、波木井公の邸に滞在しました。
(↑画像は身延の円実寺)
そして御草庵の場所を決めると、庵ができるまでの間、甲州をお説法に廻ったといいます。



富士川沿いには日蓮宗のお寺が非常に多く、例えば8年前に鰍沢町と増穂町が合併してできた富士川町には実に57ケ寺が存在します。(日蓮宗ポータルサイトより)
わずか1万5千人の町ですよ~!
この地で日蓮聖人がいかに精力的にお説法して廻ったのかが窺えます。


その富士川町の中心部、県道42号線、通称身延みちに昌福寺はあります。
「虫切加持」って書いてあるな。


通り沿いにある大きな法塔は


江戸の講の方々が寄進したようです。
「惣」とは、農村部の自治組織のこと、だったと思います。昔は江戸にも田畑が沢山あったんでしょうね!


巨大な樹木があり、歴史を感じさせるお寺です。


山門です。


扁額には山号「壽命山」と書かれています。何か寿命にまつわる逸話があるのかな?


す、すごい。550遠忌の法塔がフツ~に建っている。



まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


体力、気力ともに充実のお祖師様に見えます。
ここ青柳を訪れた時も、こういう表情だったのでしょう。


本堂です。
この日は小雨だったんですが、本堂に灯る明かりに温かみを感じました。

多くのお寺を巡っていて感じることですが、お寺の明かりって、そのお寺の印象を残す上でとっても大切です。
意外と「和モダン」の雰囲気が好きな方って、多いと思います。歴史のある建物内に、少しでいい、電球色のシンプルなLED照明を入れるだけで、イメージがグッと温かくなります!
これで軽く腰掛ける場所でもあれば、コーヒーでも飲みたくなるし、長~い時間そこに居たくなります。


お寺の縁起にまつわるお上人方の供養塔でしょうか。


開山は日全上人となっています。
日全上人は、善智法印改め日伝上人の弟です。


青柳の至近にある小室山(当時真言宗)の善智法印は、日蓮聖人との法論に敗れて表向き改宗しましたがそれは本心ではなく、密かに毒入りの餅で日蓮聖人を毒殺しようと企てました。その時どこからか白い犬が現れて毒餅を食べ、日蓮聖人を助けました。
日蓮聖人が身代わりとなった白い犬を手篤く葬り、お墓に立てたイチョウの杖が、現在の下山・上沢寺の逆さイチョウになったと言われています。


善智法印は今度は本当に改心、帰依して日伝上人になりました。
自らお祖師様のご尊像を刻すると、お祖師様から「延寿のお像」として開眼供養を受けました。
そして日蓮聖人のご入滅から16年後、日伝上人の実弟・日全上人がここ青柳で開いたお寺が昌福寺です。
日全上人が延寿のお像を兄から引き継いだことが、山号である壽命山の由来だと思われます。


昌福寺の12世・日法上人は病気平癒の祈祷で有名な方だったようです。
もともとお祖師様がここ青柳を通った時、住民が疫病に苦しむのを見て、病気を鎮める祈祷をしたという由緒ある地。
現在でも昌福寺のご住職は、病気平癒の祈祷「虫切加持」を受け継いでいるそうです。
「虫」は疳の虫の「虫」だそうで、宇津救命丸で効かない時は祈祷をお願いするといいかもしれません。


石橋湛山氏の顕彰碑もありましたよ!
石橋湛山は立正大学の学長、そして内閣総理大臣の経験者ですが、父親が昌福寺で住職を務めていたため、少年期の3年間を昌福寺で過ごしています。
けっこうやんちゃなガキだったみたい(笑)
ちなみに石橋氏の父親・杉田日布師は、のちの久遠寺81代法主です。

あ~、いろいろありすぎておなかいっぱい~!


庫裏でご首題を頂いたのですが、庫裏もメチャクチャいい雰囲気!
ゆる~くジャズのBGMでも流したら、まんまカフェになりますね~


廊下の向こうに見える庭園も良さそう!先人達から引き継いだものを上手く生かしています。

昌福寺の若いお上人のセンスがいいと見た!
頂いたお寺の縁起にも、フェイスブックやツイッターのアドレスが書いてありました。
僕はフェイスブックをやっているので覗いてみると、おお~!お寺でライブや料理講習会なんかをやっているみたい。

敢えて言いましょう!このお寺には若い人が集まると思う。何故ならお上人が若い人を寄せつけるキモの部分をよく理解しているから。
僕もまた行きたいもん。


最後に昌福寺のお上人に、身延参詣道の話を伺いました。

江戸時代、江戸の町なかで法華信仰が庶民に広まったこともあり、江戸から身延に参詣する人が絶えなかったといいます。
確かに身延の山中や七面山の登詣路には江戸の講中が寄進した法塔や狛犬などが沢山見られます。


彼らはまず昌福寺で虫切の護符を求め、次いで小室の妙法寺で毒消しの護符を求めたあと、身延山を参詣するというのがお決まりのルートで、このあたりに通じていた道は「小室道」と呼ばれていました。

実は昌福寺の境内には小室道が南北に通じていたそうです。
 

お寺の外側に、「左 小室道」と刻まれた石碑がありました。
小さくてさりげなくあるので見落としがちですが、こういうのを見つけると一気に往時にタイムスリップした気持ちになります!

そうそう、古典落語「鰍沢」はこの小室道を舞台にしたお話ですよ!とお上人に伺い、早速YouTubeで見てみました。
実際にお話の中に昌福寺、妙法寺や法論石などが出てきて、聴き入ってしまいました!


江戸時代も現在も、元気な市井の庶民達が集まる昌福寺。
印象に残りまくりのお寺でした。

南部氏館跡(身延町梅平)

2018-06-23 23:39:04 | 旅行
6月17日、身延山の開闢会に行ってきました!
新緑の御草庵跡で、法主様を導師に大法要が行われました。


法要前には御入山行列が、総門から三門に続く門前町を練り歩きました。
今から740年以上も昔に、今の総門近くで、日蓮聖人を南部實長公がお迎えして身延山は始まったんだな~と思いながら、行列を眺めました。

そんな南部實長公の館跡を訪問しました!

久遠寺の総門からほんの数百m歩くと


鏡圓坊があります。


ここ鏡圓坊は、南部實長公の孫・長氏公の次男である日台上人が開いたそうです。


南部實長公はこの場所に隠棲したようですね。


「村雨の祖師」って何だろう?
特に説明などが書いていなかったのでわかりませんが、南部家の家宝である祖師像みたいですね~


坊の歴史なんかより、ずぅ~っと感激したものがありました!
気温の高い日だったのですが、参拝の方、お墓参りの方向けに飲料が!


こっちには塩アメ!
壇信徒の熱中症を心配した気遣いに、グっときました。
ぜひお気持ちをお賽銭箱に入れて、優しさに甘えて下さい!


坊の山門横に身延町教育委員会が設置した説明板がありました。
いわゆる館跡はこの近くの山中にありそうですね。


西に100mくらい歩くと・・・


山に至る階段があります。


階段上には明らかにお上人のものと思われるお墓がありました。


「法寂院日圓尊儀」
南部實長公の御廟です。南部實長公は日蓮聖人がご入滅する前年、出家して法寂院日圓上人と号しました。


石の柵(玉垣っていうのかな?)には「身延山開基」


「大壇越」と刻まれています。


御廟の裏手に延びる山道を登ってゆくと・・・


大きな木の下に、小さい祠がありました。
恐らくこの辺りが、南部氏の館跡だと思われます。


南部氏は甲斐源氏の流れをくむ武士の家系でした。
南部氏の父・光行公は、源頼朝の時代に武勲を挙げ、この地を与えられたといいます。

のちに光行公は、實長公を一人残して、一族で奥州へ移ったそうです。
だから北東北に南部地方があるんですね!


ところで、すご~く気になったことがあります。
さきほどの墓石、命日が「永仁五年九月廿五(二十五)日逝」と刻まれていますよね?


↑これ、先日登詣した七面山敬慎院の梵鐘にあった七面山の縁起なんですが、日朗上人と南部實長公が七面山を開山するために登ったのが「永仁五年九月十九日」となっていました。

・・・てことは、登った6日後にお亡くなりになっていることになります。このとき南部實長公、75才ですよ!


鎌倉を離れた日蓮聖人を、ここ身延の地に招いた南部實長公。
(↑画像は発軫閣祖師堂) 
幕府を騒がせた異端の僧を受け容れることに、周囲から批判もあったことでしょう。
その懐の深さに、敬服します。


初めて日蓮聖人に対面してから8年以上、日蓮聖人の晩年を支え続けた大壇越でした。
そして人生最後の仕事として、日蓮聖人のご遺命である七面山開山を、まさに命懸けで果たしたのだと思います。


爽やかな雰囲気で行われた開闢会。
その記念すべき日に、南部實長公の思いに少し、触れることができて嬉しかったです。

大野山本遠寺(身延町大野)

2018-06-23 09:27:51 | 旅行
養珠院お萬様
先日、七面山登詣前日に打たれさせて頂いた、白糸の滝前に建つご尊像です。


今日、多くの女性が七面山に登ることができるのは、養珠院お萬様が64才という歳にもかかわらず、雪解け水が容赦なく落ちる4月のお滝に、7日間も連続で打たれ、必死で女人登詣を訴えられたからです。

そんな養珠院お萬様開基のお寺が、富士川近くにあります。

お~!いきなり三つ葉葵だ。


本遠寺は別格本山なんですね!
日蓮宗ポータルサイトによると現在本山は56ケ寺あり、うち本遠寺は由緒寺院となっています。


赤い門が見える!
仁王門です。
朱色の門は、将軍家とご縁があるお寺や邸にのみ許された、と聞いたことがあります。



阿行、吽行がお寺を護っています。


山号は「大野山」です。


仁王門をくぐると巨大な木がド~ン!
山梨県内一の大クスノキだそうです。
クスノキには防虫効果があり、枝や葉を蒸留すると「樟脳(しょうのう)」になります。


木の下には「吉田林栽培記念碑」
本遠寺は江戸後期に火災に遭い、本堂と鐘楼以外は焼失してしまいました。
復興は本当に大変だったのでしょう、この教訓から、後世の伽藍建築に役立つようにと、境内の裏山に自前の林を栽培したようですよ!


境内には鬼子母神様をお祀りするお寺があります。
お萬様に縁のあるお寺には鬼子母神様、多いですね!
紀州・水戸徳川家の両祖を産んだということと、関係あるのかもしれません。


わ~!本堂がホントにキレイ!
江戸初期に建てられた本堂が、手を加えられながら今日まで残っているのは感動です。


屋根は檜(ヒノキ)の樹皮で何重にも葺いてあります。
筆舌に尽くし難い、もう芸術の域です。

本遠寺はお萬様が深く帰依した、日遠上人が開山したお寺です。


いわゆる慶長宗論で不当にも日蓮宗は敗れてしまい、日経上人とそのお弟子さん達は耳鼻そぎの凄惨な刑に処されてしまいました。
(↑画像は日経上人が27世を務めた横浜・本興寺)

さらに家康は本山寺院に対し、「念仏無間」は経典にない、という誓状を提出するように命じたそうです。


その頃、身延山の22世にあった日遠上人は、誓状の提出を拒否し、更に浄土宗との法論をリベンジさせて欲しいと、家康に対して手紙を上申したそうです。
これが家康の逆鱗に触れ、日遠上人に安部川の河原で磔(はりつけ)の刑、つまり死罪を言い渡そうとしていました。


家康の側室であった養珠院お萬様は、生涯の師と決めた日遠上人の赦免を家康に訴えましたが却下され、刑の執行日に日遠上人と同じ白い装束で刑場に向かいました。
日遠上人とともに自分も殉死しようとしたのです。

さすがの家康も、お萬様の信仰心に打たれ、日遠上人を赦免したそうです。


日遠上人は身延山に帰らず、その麓の大野に庵を構えました。
本遠寺のルーツです。


お萬様は、子である紀州の頼宣、水戸の頼房に命じて伽藍を整備させました。
すげぇ!さすがはビッグマザーだ!


伽藍の建築中に現場を見に来たお萬様が、足を洗ったと伝えられる井戸があります。

また本堂内で画像はありませんが、濡れた足を置いた板がそのまま天井の部材に使われたために、お萬様の足跡が天井に付いていますよ!


お萬様のお墓は、日遠上人のお墓と並んで清められています。
本遠寺のお上人によると、この御廟は非常に高品質な石が使われているので、劣化したり苔むしたりしにくく、現在でも美しく保たれているのだそうです。


境内の外側に「五社神社」があります。
明治の神仏分離以降、管理は民間になったそうですが、実はここには七面大明神もお祀りされています。


七面大明神が法華経守護の神様であるように、養珠院お萬様も命を賭して宗門を護った、神様のような女性だと実感します。
その人間的な魅力にますます惹きつけられました。


先日の身延山・開闢会行列にお萬様、いらっしゃいました!
思わず拝んじゃいました~!


ところでお萬様が初めて法華経に触れたのは、どんなきっかけだったんだろう?
そして浄土宗の家康の元で、どうしてあれほどまでに法華経信仰を継続することができたんだろう?
家康の沢山の奥様達の中で、浮いてなかったのかな?

・・・いろんな疑問、心配が湧いてくる今日この頃です!

妙石坊(身延町身延)

2018-06-16 04:09:46 | 旅行
もう嫌というほどの下り坂を我慢して下り続け、傾斜が緩くなってきたなと思った頃
建物が見えて来ました!


あ~!ここは!!


妙石坊だぁ~!


有名な高座石のご霊跡ですね。いつか来てみたかった!


まずは正面の祖師堂に参拝。


のぼり旗には「南無示現七面大明神」と書かれています。

建治3(1277)年9月、お祖師様55才の時のお話だそうです。
身延山頂からの帰路、日蓮聖人はここにある大きな石に座って、よく信者さん達にお説法をしていたそうです。


一時期、ある女性が熱心にお説法を聞いていたといいます。
普段このあたりでは見かけない女性なので、波木井公をはじめ村人たちは「あの女性、誰なんだろう?」と不審に思っていました。

しかし、日蓮聖人はその女性が誰なのか、わかっていたようです。


「みんなが不思議に思っているから、あなたの本当の姿を見せてあげなさい」

女性は日蓮聖人に「水を少し下さい」とお願いしました。
日蓮聖人は花瓶の水を一滴、女性の手のひらに落としました。
すると女性はたちまち龍の姿に変わりました。


僕は昨年、小田原の光秀山浄永寺を訪問しました。
このお寺の寺宝として、「日蓮聖人蛇身解脱画像」という絵があるということを知りました。

お祖師様ご自身の説法像で、手前の花瓶に蛇が巻き付いています。
女性が龍の姿に変じた伝説を描いた、極めて珍しい絵柄だそうで、これがまさに高座石で起こった光景そのものなのではないかと思います。

北条時宗の家臣でありながら日蓮聖人に帰依していた風祭大野亮光秀公は、弘安3(1280)年に身延山を参詣し、日蓮聖人からご真筆のお曼荼羅と蛇身解脱画像を授与され、自分の屋敷に法華堂と七面社を造りました。これが浄永寺のルーツとなりました。

※現在、日蓮聖人蛇身解脱画像は鎌倉国宝館に収蔵されているようです。(画像は鎌倉国宝館編集・発行「北条時頼とその時代」より引用)


龍の姿になった女性はこう言ったそうです。
「私は七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延の山を守っています。」
「末法の時代に、法華経を修行しお題目を唱える人々を守護し、その苦しみを除き、心の安らぎと満足を与えます。」
言い終えると、七面山の方に空高く姿を消したといいます。


この逸話により、七面山は身延山守護、法華経守護の神様が棲むお山として、古くから人々の篤い信仰を集めてきました。

今回、七面山登詣の旅の最後に、そのルーツとなるご霊跡を参拝できたこと、本当に嬉しかったです。


ちなみに養珠院お萬様は、前述の日蓮聖人蛇身解脱画像をことのほか信仰し、その縁などもあり小田原の浄永寺は代々、紀州徳川家の祈願所になってきたそうです。
いろんなことがリンクしてきますね!


ところでここ妙石坊の高座石も、七面山奥之院と同じような形状で注連縄を掛けられています。
今度この注連縄の形の意味、調べてみたいと思います。


境内には十萬部寺のルーツ、妙法両大善神をお祀りしているお堂もありましたよ!


大きな草鞋が掛けられていました。
末永く、身延のお山をお護り下さい。


七面山の参詣道、本っ当に内容が濃かったな~!

法華経の信仰に神仏習合、修験道などが絡み合ってくると、更にディープな世界になってきて、すぐには理解できないことばかりでした。
しかしこれからの人生、興味を持って見聞を広めながら、少しずつ理解してゆきたいと考えています。
いい機会を与えていただいた旅、でした。


最後に御廟を参拝し、無事に七面山の参詣を果たして帰着したことを、お祖師様に報告しました。


ありがとうございました。南無妙法蓮華経。

松樹庵(身延町身延)

2018-06-15 19:38:00 | 旅行
久遠寺の境内から西の山中を望むと、赤い屋根が見えるのをご存じでしょうか?
僕は以前から、「何だろうな~?結構な斜面に建ってるけど、民家かな?」と疑問に思っていました。


今回、七面山を下山し、徒歩で山越えをして御廟に至る途中で、赤い屋根の正体を突き止めましたので報告します!


雨の往路と違い、復路は快晴でしたが、道の悪さは相変わらず!
お祖師様もご遺文の中で「山には瓦礫より外には物なし」(妙法比丘尼御返事)と書いているように、身延山の地質は結構もろい、ということが今回よ~くわかりました。


追分感井坊まで戻ってきて、今度は千本杉・三門方面に向かいます。


右側だな・・・わーい、下りだ~!


これがまた、なかなかの下り道がず~~っと続くので、足にきます。


杉の大木がニョキニョキ!県の天然記念物・千本杉です。


わ~!久遠寺と門前町が見えて来た~!
嬉しさひとしおです。


シマヘビも歓迎してくれてます!


今回、本当によくヘビに会ったな~。


小さい祠がありました。


3日間にわたり、お山を歩かせて頂き、心から感謝です。


久遠寺境内から見える赤い屋根は、この屋根だな!


松樹庵(しょうじゅあん)です。


扁額には「宗祖袈裟掛松」とあります。
日蓮聖人の松にまつわる逸話があるようです。


日蓮聖人は文永11(1274)年から弘安5(1282)年まで、8年以上にわたって御草庵で暮らしました。


身延山久遠寺の朝勤では毎日、身延山のことを記した日蓮聖人のご遺文を、少しずつ読んでいることを最近知りました。
身延山の厳しい環境の中で、日蓮聖人が自然に逆らわず、とても質素に暮らしたことがよくわかります。
「深山なれば昼も日を見奉らず。夜も月を詠る事なし」(妙法比丘尼御返事)
樹木の陰で昼夜を問わず暗かったのでしょうね。


ある夜、日蓮聖人は山の中に、明るい光を放つ大樹を見つけました。
とても明るくて、手元の文字すら読めるくらいの光だったといいます。


のちに日蓮聖人は山に登り、その大樹を見つけました。それはそれは、見事な松でした。
「鎌倉にでもあれば人々に銘木だと言われるだろうに、こんな誰も来ない山奥にお前はいるのか・・・。」
お祖師様は松に今の自分を重ね合わせたのかもしれません。
松の木を撫で、袈裟を掛けて、しばらく木の傍らで休憩されたそうです。


それ以降、日蓮聖人は奥之院に登る時は、ここにあった松の大樹の下で休憩されたといいます。
胸が熱くなるエピソードですね。


(↑松樹庵の歴代お上人の御廟)
江戸時代になり、忠臣蔵の浅野家の家臣の人が、母の遺骨に四十七士の戒名を添えて身延山にやって来た時に、老木となったこの松に遭遇しました。
そして老松の由縁を知って感じるところがあったのでしょう、この人は出家し、老松を切って日蓮聖人のお像を祀るお堂を建てたそうです。
そして亡くなるまでずっと、追善供養をし続けたといいます。
松樹庵のルーツです。


袈裟懸けの松というと、弘長元(1261)年、伊豆法難のときに俎岩に置き去りにされ、ズブ濡れになった袈裟を掛けたという伊東・蓮着寺の松


文永8(1271)年に龍ノ口の刑場へ連行される際、せめて袈裟だけは血に染まらないようにと掛けた鎌倉・稲村ヶ崎の松


そして松樹庵の逸話から7年後の弘安5(1282)年、身延山を下りて常陸の湯に向かったがもう相当体調が悪く、池上宗仲公の邸に身を寄せようと思ったのでしょう、長旅で汚れた足を池で洗う際に、袈裟を掛けたと言う池上・洗足池の松があります。

松は寿命が短いのでしょうね、いずれも現在は2代目3代目になっており、杉や公孫樹のように現役で残ってはいないのが残念です。
しかし、日蓮聖人が大事な局面で、自らの袈裟を松に掛けてきた理由が、今回松樹庵を訪問して何となく理解できたような気がします。


さぁ、あと少しで旅が終わる。

もうひと踏ん張り!

七面山敬慎院(身延町身延)

2018-06-14 19:27:27 | 旅行
46丁、とうとう門が見えて来た!


和光門です。


和光門から先では「生ぐさ物」は口にできません!


太い注連縄が張られた門をくぐると、身延山の一部・敬慎院の寺域に入ります。
面白いもので、ここまで早川町赤沢だった住所も、ここを境に身延町身延になるのです。


今まで登詣者を勇気づけてくれた丁目表示の灯籠が、再び並びます。
こちらに並んでいるのは、今の灯籠になる前にあった、旧灯籠です。


水屋と鐘楼です。
とうとう、来た!って実感します。


最高の聖域に入るんですからね、手水をゆっくり、しました。


一生懸命登って、やっと着いた記念に、一発ゴォ~ン!


鐘に七面山の縁起がありました。

法華行者を守護してくれると誓った七面大明神を、きちんとお祀りしなさい、というのが日蓮聖人のご遺命だったようで、日蓮聖人ご入滅の15年後、つまり永仁5(1297)年の9月19日、日朗上人と波木井公が七面山に登り、一の池の畔に祠を設けたのがルーツだそうです。


わ~!立派な門!


随身門です。

無知な僕は、仁王様がお祀りされてるのかな?と思いましたが・・・右大臣と左大臣がお座りになってました!
???ここは神社・・・なのかな???


随身門をくぐると
敬慎院だぁ~!


そして最後の
50丁っっ!長かった~

敬慎院のスタッフの方、全員が(←お世辞じゃなく)すっごく親切!
「よく来たね~♡」くらいの雰囲気でみんな笑顔で歓迎してくれます!!


部屋に案内されました。この時は3組が同じ部屋でした。
広い畳敷きの部屋にあるのは暖房とお茶セットくらいで、非常にスッキリしています。
でもコンセントもあり、想像してたよりも普通ですね~。


境内にはこんな感じでいくつもの堂宇が建ち並んでいます。

車の入れない2000m弱の山とは思えません。
一体どうやって・・・って考え始めると時間がムダになってしまいそうだったので、考えるのやめました。


これがメインの建物、敬慎院本殿(←神社、ですね!)です。
七面大明神をお祀りする摩尼殿が奥にあり、手前に拝殿がある造りです。


彫刻がまた・・・。どこで彫ってどうやって運んだんだろう?
気が遠くなります。考えない考えない・・・


あ、池!!


一の池です。
龍が棲んでいると信じられています。


突然、信じられないような波紋が出るそうです。
畔に行ってみるとわかりますが、本当に・・・棲んでそうです。


池大神堂です。
日朗上人と波木井公が登るずーっと前から、このお山を護ってきた神様だそうです。
夕勤のあとにご尊像を拝ませて頂きましたが、独特のかぶり物と、カッと見開いた目は、役行者みたいでした。
修験道の聖地でもあったんですね!


朗師堂です。
名前の通り日朗上人がお祀りされています。
日朗上人は七面山の開山だけでなく、そこに至る道の途中途中で信仰の拠点を築いていることが今回よ~くわかりました。
七面山への参詣道は、日朗上人の道といっても過言ではなさそうです。


願満稲荷です。
何か、いい名前のお稲荷さんですね!
ところで野生動物としてのキツネも、七面山には住んでるのかな?


鹿はフツ~に歩いてます。


風呂は3時から、夕食は5時からだということです。
それまで時間があったので、散歩がてら奥之院まで行ってきました。
(次回レポします)

お風呂は石けん類を使えないので浸かるだけ、でも爽快でした!
夕食はこんな感じ!
精進料理です。ごはん、味噌汁はおかわりできます。

そうそう、味噌汁はこんな木桶に入ってきます!
初めて尽くしで新鮮!!


それから、御神酒を頂けます。
一人一合くらい飲めるんじゃないかな?
いい気分♡


その後七面大明神のご開帳式、夕勤に臨み・・・
就寝・消灯が9時。
登山の疲れで深~い眠りでした!

ZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・・・・・・

起床が4時!
スタッフがドドっと入ってきて、一瞬のうちに布団が片付けられました~!

空はもう白んでます。


随身門まで上がると・・・


な、なにこれ?・・・天国・・・


雲海がずっと下にあるので視界最高!
この日のご来光、一生忘れません。


この後、朝勤に参加しました。

夕べの勤行もそうでしたが、敬慎院のお勤めの印象としては、読経がとても早い(目で追うのがやっと!笑)のと、すごーく広い視点で、言うなれば宇宙から地球を俯瞰しているような立場で、あらゆるものの平和を祈念しているように思えました。
敬慎院の位置付け自体、宗門や信徒などの枠をはるかに、はるかに越えているのかもしれませんね!


朝食を摂り、いよいよ下山です!

最初から最後まで、スタッフの皆さん、お上人の皆さん全員が優しかった~!(←これホント!)
ありがとうございました!

また登詣したい気分になりました。


太陽はもうこんなに高くなってます。
今日は、暑くなりそうです!

七面山参詣道(早川町赤沢)

2018-06-13 12:13:35 | 旅行
翌日は快晴!
お滝に打たれた翌朝がこんないい天気だと、気分はアゲアゲです!


春木川に掛かっているのは羽衣橋
鉄の橋ですが、赤く塗られていて雰囲気あります!


敬慎院の宿泊予定者に限り、登りだけは索道を使った荷物運搬をしてくれます。
リュック程度が1つ500円!助かります!!

山田屋さん近くにある動かない軽自動車が受付小屋になっています。
荷札に名前を書いて朝荷物を置いておくと、午後には頂上の敬慎院に届いてます。
500円はあとで敬慎院で支払います。


参詣道がざっくりと描かれています。
敬慎院に至るまでに、4カ所の休憩所(坊)があるようです。


ここがスタート地点ですね!
山の神様、一生懸命登ります。お護り下さい!


七面山を開山した日朗上人の供養塔があります。
信仰の拠点を作って下さってありがとうございます。


初夏の日差しですが、豊かな緑が涼しげな参詣道にしてくれています。


ほどなく2丁の神力坊に着きました。


こちらには伽藍坊大善神がお祀りされているそうです。

伽藍坊は山の中で修行する行者のような風貌をしていると聞きます。
七面山は宗門的には鎌倉時代に日朗上人と波木井公が初めて登詣し、開山されたとなっていますが、もっとずっーと昔から修験道の行場であったそうです。


山を歩き回るための大小の下駄が置かれています。


そういえば神力坊に掲げられている紋、時々目にします。


昨年訪問した岩本実相寺の頂上にあったお堂の紋・・・
確か「八所権現」って書いてありました。


最近では前日訪問した十萬部寺。
ここは身延山に棲んでいた二神の荒神、改め妙法両大善神をお祀りしてるんですよね!


↑画像は以前、訪れた八王子城(急峻な山城)の頂上付近にあった、天狗の行者の石像です。
手に持っている団扇・・・あの紋に似てませんか?
いろいろつながってきて、ワクワクします!


そういえばまだ2丁目だった・・・急ごう!
勢いだけで10丁!


13丁に肝心坊があります。


ここのお堂は、増田屋旅館の横にあったお堂と大きさや幕の感じがとても似ています。
七面山の七曜紋ですね!


肝心坊では冷たい飲み物も売っており、助かります。
草だんごが有名なんですよね!


休憩所には赤沢宿にあったマネギ板のような札が沢山掲示されています。
職人さんなどの庶民の札に混じって・・・


お~!超大御所女優!!


美輪さんのお名前まで!
意外なビッグネームが見つかりますよ!


だんだん気合いが萎えてきた20丁!


23丁に中適坊があります。
休憩所がないかな~?って思った頃にあるので、「中適坊」って名前がグー。


カゴに年配の信徒さんを乗せて登ってくる方々がいました!
強力(ごうりき)さんというプロのグループです。この21世紀に・・・こういう方々も信仰を支えているんですね!


だんだん道が急峻になってきました。


生えている木々も、樹皮が白くなってきました!


見晴らしいいとこ発見!


わ~!赤沢宿あんなにちっちゃ~い!


急に呼吸が荒くなってきたぞ!30丁っ!


36丁に休憩所!!


晴雲坊です。


結構クタクタで、お賽銭投げたら箱に入らなかった~!


水っ、水~!!!
冷たくてめちゃくちゃ美味いぞ。


休憩所にあった札・・・目を疑いました。
参詣200回!?
は、はははは・・・笑うしかない~


ま、いいや。僕たちは1回目を必死で登ろう!


これは39丁目にある古い石碑です。


多分江戸の職人さんたちなんだろうな。
索道も何もない時代に、こんなにでかい石、麓から背負って来たんだろうな・・・。

江戸時代、いかに法華信仰が庶民に浸透していたのか、そしてその信仰がいかに深かったのかを感じざるを得ません。


坂道自体に辟易し始めた40丁っ!


画像はありませんが、40丁を過ぎたあたりにひっそりと、無縁仏を供養する小さいお堂がありました。
途中まで登ってきたものの、行き倒れてしまった名もなき信徒さん方の霊を供養しているようです。
今回の七面山登詣にあたり、アドバイスしてくれた方の多くが、40丁前後での体調変化に気を付けるように言ってくれました。
気圧や気温の変化だけでなく、見えない力が拒むこともあるそうです。

思い半ばで生涯を終えなければならなかった先輩方を偲んで、合掌しました。
登詣する方は、ぜひ手を合わせて頂きたいと思います。


よ~し、あと10丁!

言葉数も少なくなり、一歩一歩がかなりキツくなってきた頃・・・
あ~~~~!!!もしかして~~~!!!

羽衣白糸の滝(早川町赤沢)

2018-06-12 18:56:18 | 旅行
雨の赤沢宿をあとにして・・・


霧の中に見え隠れする霊峰・七面山を右側に見ながら、歩き続けました。


そして・・・
今晩の宿、増田屋旅館さんに到着~!


今回、増田屋さんにお世話になるのには、宿泊の他にもう一つ、目的があったからです。
(今回だけは・・・すみません、自分の話ばかりになってしまいます)

僕の祖父はとても熱心な日蓮宗信徒でした。(祖父は僕が生まれる前に亡くなってしまったので、会ったこともないのですが・・・)
伯父に祖父の人となりを聞いている中で、今から80年近くも前に、祖父が七面山の麓の「お滝」に打たれる修行をしていた、という逸話を知りました。
まだ肌寒い季節に、何かの目的を持って「お滝」に打たれながらお題目を唱えていた姿を、同行していた伯父が覚えていたのです。

その話を聞いた時は「へぇ~、すごいな~」くらいにしか感じませんでしたが、年を経るにつれ、自分も体験してみたいという思いが強くなってきました。
会ったことがない祖父が、どんな場所でどんなに冷たい水を身体に浴びたか、感じてみたくなったのです。


実は先月、僕は50才になりました。
人生の大きな区切りの今、祖父が打たれた滝に、僕も打たれてみよう!と決心しました。


羽衣には「雄滝」と「雌滝」があり、水量や滝壺の深さは「雄滝」の方が上なのですが、滝修行自体今回初めてですし、激しければいいというものでもないと思い、増田屋さんが管理している「雌滝」に打たれることにしました。

増田屋さんに宿泊予約する時に、お滝修行の希望を伝えたのですが、軽い気持ちではないか、リスクに耐えられるかなど、電話口でこちらの本気度を確認されました。
そして、お滝修行をするかどうかは増田屋さん側が当日判断すること、また直前で断ることもあること、そして米1合、塩数つまみ分、地酒を準備してくるよう、言われました。


当日は道中なかなかの雨でしたが、


羽衣に着いた頃には小降りになっていました。


午後1時、増田屋さんの女将さんに褌(ふんどし)と行衣を渡されました。
お滝修行、やりましょう、ということだと確信しました。

早速、褌と行衣を着用し、お題目を唱えながらお滝に向かいました。
お滝は増田屋さんから歩いてすぐのところにありました。

まずはお滝に面して合掌。そして七面山の方向に合掌。
大きな声で自我偈を唱えたあと、女将さんが器に入れてくれた塩と米を混合したものを少しずつ播きながら滝壺に向かいました。
滝壺にお酒を注ぎ、清めてから水に入ってゆきます。

たまたま滝壺のほとりに蛇(アオダイショウ)がいるのに気付きました。
僕のお滝修行を見守ってくれているような気がして、蛇に感謝しました。

そして左右に鎮座しているお滝を守護している神様に祈りを捧げたあと、お滝の真下に行きました。
初めはお題目1遍だけ、2回目はお題目3遍、


そして最後はお滝の方を向いて自分が納得するまで、打たれました。

当日はまさに梅雨入りの日で、正直寒かったし、水の量も普段より多かったようです。
しかし会ったことも見たこともない祖父が、80年も前にしていたことと同じことをしている・・・。
水圧とか水の冷たさを感じながら、時空を越えて祖父とリンクする不思議な感覚に包まれました。


僕が打たれた白糸の滝は、養珠院お萬様が打たれた滝として有名です。地元の方は敬意を込めて「お滝」と呼びます。

お萬様は家康が亡くなると剃髪し、家康の成仏を願って法華経信者として行を深めてゆきました。
そして当時女人禁制であった七面山に登詣を希望しました。
龍女が成仏した聖地・七面山にどうしても詣でたい、全ての女性が登詣できるようにしたいという一心で、お滝に打たれたといいます。


お萬様は7日間の滝行を完遂しました。
そして、とうとう禁制を破り、七面山の登詣を果たしたのです。


時は雪解け水が流れ落ちる4月15日からの7日間、お萬様当時64才ですよ!
自分がお滝に打たれたからわかります。なかなかできるもんじゃない。

信仰の力って、ものすごいな・・・。


今回、僕のお滝修行をお手伝いして下さった増田屋の女将さんに、心から感謝します。
人生の節目に、祖父やお萬様、そして多くの先師方と同じ経験をさせて頂き、本当に良かったと思っています。

最近改めて気付いたのですが、「滝(瀧)」という漢字は「氵(さんずい)」に竜(龍)って書くんですね!
七面山の麓で、水を身体に受けていると同時に、竜(龍)に触れていたのだと思っています。


明日の七面山、とても良い登詣になりそうだ!

長徳山妙福寺(早川町赤沢)

2018-06-10 23:39:37 | 旅行
雨は一向に止む気配がなく、予想以上に厳しい旅になってきました!


・・・と・・・お・・・おおっ~!!
もしかして、七面山・・・?


そうだ!七面山が突然姿を現したぞ!
雨を忘れて、しばらく魅入ってしまいました。


若山牧水の歌碑がありました。
「雨をもよほす 雲より落つる 青き日ざし 山にさしゐて 水恋鳥の声」
何か雨が降ってほしい的な歌だな~。こっちは止んでほしいんだけど・・・


石畳の道を滑らないようにゆっくり下ると


集落が見えて来ました。身延の門前町以来、久々に見る集落です。


早川町赤沢は、重要伝統的建造物群保存地区です。


身延山から七面山に通ずる道(身延往還)唯一の宿場町として、七面山参詣の法華信徒で古くから賑わったそうです。


各戸の軒下には、各地の講中名や個人名が書かれた札が掲げられています。
「マネギ板」と言うそうです。
その宿のお得意さんってところかな?


赤沢の町並みの中に、日蓮宗寺院がありました。
妙福寺です。


山号は長徳山です。
永仁5(1297)年、日朗上人と波木井公が七面山に向かう途次に、もちろんまだ赤沢宿がない時代ですから、このお寺にご一泊されたそうです。
もともと他宗のお寺でしたが、最強コンビのお二人のこと、ひと晩でご住職を教化したそうです。



子安八幡堂です。
日朗上人がお寺を訪れた時、お産に苦しむお檀家さんの女性がいました。
これを見た日朗上人は子安八幡のお像を刻んでお祀りしたそうです。
その女性は無事に出産し、以来、安産や子授けの神様として大切にされています。



お寺に一泊した翌日、ご住職が七面山の道案内を買って出てくれたお陰で、日朗上人と波木井公は無事、登ることができました。



妙福寺では子安八幡様の他に、大黒様、鬼子母神様、そしてもちろん七面大明神様もお祀りしているそうです。
七面山に登詣する行者達、七面山を護持してくれる沢山の方々を、善神たちが見守ってくれているのですね!


境内の正面には霊峰・七面山!
七面山はもともと妙福寺の管理だったそうです。
江戸時代になり、七面山は妙福寺から身延山に寄進され、身延山の飛び地になりました。
その功績から、妙福寺の手を離れた今でも、七面山の住職(別当って呼ぶらしい)が交代する際には、新別当が妙福寺に鍵を受け取りに行ってからお山を登るみたい。
通称「鍵取りのお寺」って呼ばれているようです。


ところで、一つ気になっていたことがあります。
実は十萬部寺から赤沢に来る途中に、ある建物を見ました。
この建物、「宗説坊」ということがわかりました。


お堂の中には妙正大善神の文字が書かれた提灯があり、そんなに遠くない過去には使われていたと思われます。


これは太鼓を奉納した信徒一覧でしょうか?隅田や吾妻など、江戸の庶民たちの名前が連なっています。


こんな立派な題目法塔もあります。
もう苔むしていますが、多くの信徒に支えられていた坊だということが窺えます。


しかし・・・こんな張り紙がありました。
坊の裏が崩れてしまい、安全のために妙正大善神を妙福寺に移したという内容でした。


坊の裏側を見ると、ホントに崩れてる・・・


ヤバ・・・断崖絶壁だ~
こればかりは手の付けようがありません。


大規模な崖崩れがあったんでしょうね、墓石も落ちたり倒れたりしていました。
合掌させて頂くしかありませんでした。

もしもこの坊の前を通る方がいたら、是非、立ち止まって、手を合わせて頂きたいです。


妙正大善神は妙福寺で奉安されているとのこと、ありがたいことです。
「宗説坊」。記憶に留めておきます。

さあ、白糸滝まで地図ではもう少し。頑張るぞ~!

奴多山十萬部寺(早川町小縄)

2018-06-10 22:36:22 | 旅行
追分感井坊を七面山方面に進もうとしたら、何やら警告の看板
「車両の通り抜けは出来ません」
良かった~、歩行者は進めるんだ!!

しかし・・・ここからの道がヤバヤバだった・・・


一応舗装されてはいますが、最近落石したであろうソフトボールくらいの石がゴロゴロ!


こんな、ほぼNGの場所も、1カ所や2カ所じゃありません!
そして雨も強くなってきて、山も崩れる気マンマンです。


泣きたくなってきた~!


・・・と、突然建物が現れた!
ここが・・・十萬部寺?


そう、十萬部寺です!山号は「奴多山」です。
※往路は大雨でデジカメのレンズが濡れてうまく撮れなかったので、晴天だった復路に撮った画像も入れ込んであります。


「妙法二神根本霊場」って書いてありますね~
「身延山鎮守」だそうです。


まずは日蓮聖人のご尊像に合掌。


赤と緑のモミジの下で、雨に打たれるお祖師様。
「よく来たね」と言われている感じがしました。


十萬部寺は山門が堂宇になっているような珍しい造りで、


向かって右に妙法大善神を、


向かって左に日蓮聖人をお祀りしています。


身延山には日蓮聖人がご入山する前から、二神の荒神(悪さをする神様かな?)が棲んでいたそうです。
日蓮聖人がご入山し、法力が日蓮聖人に敵わないと悟った荒神たちは、一度は身延山を去ったといいます。


しかし二神はどこに行っても受け容れてもらえず、仕方なく身延山に戻ってきました。
日蓮聖人は、二神は今は荒神であるけれども、お山を守護するのに相応しい神様になる、として二神を教化しました。


日蓮聖人がご入滅された15年後、日朗上人と波木井公が七面山に向かう途次、善神となった二神が現れたそうです。
日朗上人は二神に「妙太郎」「法太郎」と名を授けてお祀りし、その霊験を願って法華経十万部(!)の読誦を発願したといいます。

つまり、十万部ってとてつもなく馬鹿でかい目標ではあるけれど、これからコツコツ読んでいつか達成しましょう!と日朗上人が発案したってことで・・・よろしいでしょうか?


多分、ただ法華経を読むだけじゃないんでしょうね、大善神の力を祈願しながら、歴代のお上人がコツコツ継続しました。
それから時が過ぎること何と!277年後!このお寺の4世・日休上人の時に、とうとう十万部読誦を達成したそうです!
のちにその縁起からお寺の名前を「十萬部寺」と改めました。


各地の日蓮宗寺院を巡ってゆく中で、時々「妙法両大善神」をお祀りしているお堂を目にします。
お山と法華経を守護してくれている妙太郎・法太郎の二神だったんですね!


じゃあ、そろそろ歩き始めよう・・・
・・・正直・・・疲れてきた・・・。

妙法両大善神のご加護があると・・・いいな。