日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

海岸山妙行寺(柏崎市西本町)

2018-10-30 23:51:41 | 旅行

日蓮聖人が佐渡から海を渡って着岸された地に建つ「番神堂」。

普通のお寺くらいは余裕でありそうなお堂ですし、境内も結構広いです。
・・・実はこの番神堂、柏崎にある妙行寺というお寺の境外仏堂らしいのです。



妙行寺は番神堂から車で10分ほど東に走った、潮の香りがする町なかにあります。



山号は海岸山です。カッコいいですね~!



でかい宗紋が掲げられています。
旅先でこの紋に出会うと、安心します。



へぇ~!地元の高校の発祥の地なんですね。特に女子教育に力を入れていたようですよ!



日蓮聖人のご尊像に合掌。
佐渡から海を渡っていらして、なおかつこれから鎌倉まで歩いてゆかなければならないお祖師様・・・この時52才。さぞお疲れだったことでしょう。



今年は明治維新150年ですが、戊辰戦争では越後は北越戦争という局地戦の激戦地でした。ここ柏崎は高田藩であり、高田藩は官軍側でした。そして何と妙行寺は官軍の本陣になっていたそうです。
境内には官軍兵士のお墓がところどころにあります。



わ~、ただ者でなさそうな松の木!



本堂です。
こちらの屋根は傾斜が緩いですね~。雪国って傾斜が急な方が良さそうに思うんですが・・・。
地元の方に伺うと、このあたりの海岸沿いは、積雪が少ないんだそうですよ。それに傾斜が急だと、積もった雪がドドドっと落ちてきたらむしろ危険とも言われているそうで・・・住んでないとわからないことですね!



扁額には・・・う~ん、さっぱりわかんないなぁ。


歴代お上人の御廟を参拝。

お寺の縁起によると、日蓮聖人が着岸された当時、付近に真言宗の大乗寺というお寺があったそうです。
日蓮聖人は大乗寺に宿を取りました。



住持の慈福法印は一晩のうちに日蓮聖人に教化され、改宗したようです。
日蓮聖人から「日心」の法号を頂き、お寺を「海岸山大乗寺」と改めました。



一方、日蓮聖人着岸の霊地であり、かつ日蓮聖人自ら三十番神を勧請し、お祀りされた神聖な岬に、法華堂が建立され、「法修山妙行寺」と称しました。



安土桃山時代になり、大乗寺は「番神堂」に改められ、妙行寺と大乗寺は合併して「海岸山妙行寺」となって現在の地に移転してきたそうです。



開山・日蓮聖人、二祖・日朗上人、そして三祖が日心上人となります。
ちなみに31世には新居日薩上人がいらっしゃいます。

新居日薩上人のことは、以前日蓮宗ポータルサイトの「法華経に支えられた人々」という記事で知りました。
明治維新後の日本では神道が重視され、仏教が弾圧される政策がなされました。当時の宗門は身延、池上、中山、京都の本山がそれぞれ独自に活動しており、そのまとまりのなさから、胸を張って明治政府に「ウチはこういう宗派です」と言える状況になかったようです。そんな折、明治政府から身延山久遠寺住職に任命された新居日薩上人は、大変な苦労をして宗門を一つにまとめ上げ、宗名「日蓮宗」を公称できるように尽力されました。



廃仏毀釈により昔の番神堂は焼失してしまったそうです。この時妙行寺の住職であった新居日薩上人は、7年の歳月と巨万の浄財を投じて、番神堂を再建させたそうです。本当に、本当に頭が下がります。ただただ、感謝です。



日蓮聖人は柏崎をあとにして、越後国府(現在の上越市)へ向かいました。
ここからが山また山!大変だなぁ・・・。










番神堂(柏崎市番神)

2018-10-29 23:57:36 | 旅行

1274年3月15日、佐渡配流を赦された日蓮聖人を乗せた船は、寺泊に向けて出航しました。



2年5ケ月もの理不尽で辛い配流生活であったけれども、「それでもいざ島をあとにするとなると、後ろ髪を引かれる思いだ」と国府尼御前御書に書かれています。複雑な思いでの離島だったのでしょうね。


日蓮聖人を乗せた船は一路、寺泊を目指しました。

当初の予定では寺泊に着いたら、山道を海に沿って越後国府(現在の上越市)まで100km近くを歩くはずだったようです。


しかし・・・予想外のことが起きました!

お祖師様までもが「いかなる事にやありけん、思はざるに順風吹ききたり」と種々御振舞御書に書き記されるほどラッキーな風が吹き、あっという間に柏崎に到着したのです!
柏崎からだと恐らく当初の半分、50km程度を歩けば、越後国府に着くことになります。そして何より、山越えが少なくて済みます(難所の「米山」という場所はありますが)。



日蓮聖人には佐渡で多くの弟子・信者ができましたが、同時に念仏衆等の強い反発も生みました。
幕府じきじきの赦免とはいえ、「日蓮を島から出すな、鎌倉に生きて還すな」という不穏な動きは、帰路の各地にあったといいます。

日蓮聖人が想定外に早く、しかも当初の予定と違う場所に上陸されたのは、何ものかに護られた結果だと思います。


日蓮聖人着岸のご霊跡が柏崎にあるそうなので、訪問しました。

大きなお題目の法塔があります。



「本化宗祖勧請之霊地」
日蓮聖人が何かを勧請された場所でもあるようです。



多くの講中たちの想いが詰まった法塔です。



お?すご!
参詣者用の駐車場、大型車も停められる!それも柏崎市の駐車場になってるぞ。
結構な観光地になってるのかな。



案内どおり行ってみると・・・



うわ~!景色がいい!!
結構な高さがあるから、港の内と外で波がこんなに違うっていうのがよくわかるな~



番神堂です。
日蓮宗ポータルサイトによると、番神堂(妙行寺)は宗門史跡に指定されています。



番神堂は明治時代に焼失してしまいましたが、その後とても立派に再建されました。



日蓮聖人が無事、上陸できたことを神様に感謝して、三十番神を勧請してお祀りしたことが、番神堂のルーツです。
日蓮宗のお寺を巡っていると、妙見様、庚申、鬼子母神、清正公、七面大明神など、いろんな時代からの様々な信仰がみられますが、三十番神も沢山のお寺でお祀りされていました。
でもこんな立派なお堂は初めて!



1日に熱田神宮から始まって、30日の吉備大明神まで、日本中の神様が毎日日替わりで我々をお護りして下さっている、という信仰のようです。特に法華経を守護して下さる神々だそうですよ!
31日は・・・どうなるのかな?



昔も今も、初詣の参拝客がメチャクチャ多いそうで、沢山の警備員とお札やお守りを売る学生の手を借りて、毎年みんな総出で対応するそうです。ご苦労様です!



このお堂、彫刻が秀逸!地元越後の彫刻師達が腕を振るった逸品揃いです。



四方を精緻な彫刻が取り囲んでおり、劣化しないように周囲をガラスで保護されています。
・・・これに近い風景をどこかで見たことあるな・・・そう、柴又帝釈天だ!



こんなに立派なお堂を造り上げた棟梁のことは、地元の民謡にも謳われています。
「〽新町宗吉大手柄~」



お堂の裏側に廻ると、日蓮聖人のご尊像が建っています。



番神堂を訪問時、急な通り雨があり、雨に濡れたお祖師様でした。
着岸された時も、潮に濡れていらしたのかもしれないな、なんて考えながら合掌しました。



ご尊像の視線の先を歩いて行くと・・・



ここから着岸の霊地が望めるようです。



下にある黒い岩、塔がある辺りに着岸されたそうです。リアル~!



今はこんなに立派で平穏な境内ですが、11年前の中越沖地震では相当な被害を受けたそうです。



画像右側の卒塔婆は、今年催された法要で慰霊と復興を祈願されたものです。
震源はこのすぐ近くで、15人が犠牲となりました。ご冥福をお祈りします。



柏崎には原発があります。とにかく原発で事故がなくて良かった・・・。



番神って、地名にもなってるんですね!地域密着型ご霊跡!!



日蓮聖人はこのあと、西へ向かいます。米山を超えなくてはなりません。

・・・う~、大変、日蓮聖人、タフだなぁ・・・
















角田山妙光寺(西蒲区角田浜)

2018-10-29 21:21:11 | 旅行
1271年10月27日、日蓮聖人は佐渡を目指して寺泊を出航しました。

寺泊で一週間、風待ちをした末の出航でしたが、いざ沖に出てみると強い西風と高波に翻弄されてしまったといいます。



鎌倉時代の船ですから、櫓を漕いで進む木造の小舟であったはずです。当然、流されてしまいました。
(訪問当日は波一つない、湖のような海面でして・・・リアリティなくてすみません)



寺泊から十数km北上した「角田」という磯に、日蓮聖人は漂着・上陸されたそうです。
そして近くの岩に南無妙法蓮華経のお題目を記されました。これは「岸の題目」と呼ばれています。



実は昔は岸の題目の場所まで歩いて行けたそうなんですが、道路を造るのに伴い、行けなくなってしまったようです。
道路沿いに建つ日蓮聖人のご尊像の真下あたりに、あると聞きました。



う~ん、どの辺りかな?



え!?一瞬びっくりしましたが、釣り師のおじさんでした!
非公式ながら下りて行けなくはないのかな。あくまでも、自己責任で。


日蓮聖人が上陸された時、そこに一人のおじいさんが現れたそうです。

「近くの岩穴に、頭が7つある大蛇が棲みついて、住民を悩ませているので退治して欲しい」とお願いに来たのだそうです。



その岩穴が現存するそうなので、行ってみました。



細い道が山裾に向かって伸びています。



お、おお~~っ!!巨大な岩屋だ~!
のぼりの旗が人間の1.5倍くらいの高さだから、いかにスケールがでかいか想像してみて下さい。
僕のカメラではこのでかさを表現できない!



それにものすごい霊気。とても神聖な霊場だということがわかります。
七面の大蛇が棲む岩屋に向かって日蓮聖人がお経をお唱えになると、大蛇は教化され「これからは末法の世の法華経の行者を守護します」と誓ったそうです。



大蛇は天女に姿を変え、七面山に登られたということです。


七面天女、七面大明神といえば・・・

身延山の御草庵近くでの日蓮聖人のお説法を熱心に聞いていた一人の女性が、実は七面大明神の化身だったというお話がありました。
(↑画像は身延山・妙石坊の高座石)


日蓮聖人は既に女性の正体がわかっていたようで、「みんなが不思議に思っているから、あなたの本当の姿を見せてあげなさい」と女性に促し、手のひらに一滴の水を落としたところ、たちまち龍の姿に変わり七面山に飛び去った・・・ということでした。(↑画像は七面山・一ノ池)

つまり日蓮聖人はその数年前に角田の岩屋で七面の大蛇を教化し、その本当の姿(実相、ですよね!)を知っていたから、女性に促したのでしょうね!
新潟ではいろいろリンクするな~!



このような日蓮聖人の逸話が沢山ある角田浜。これらご霊跡を維持して下さっているお寺が妙光寺です。



境内はとても広い!そしてキレイに整備されています。
ご住職やお檀家さんの努力でしょう。



山門です。
妙光寺で最も歴史のある建物で、1815年建立だそうです。



山号は角田山です。



境内に七面天女のお像がありました。
毎年8月19日に法要を営んでいるそうです。



本堂です。
こんな本堂、初めて見た~!「寺院とはこの形です」という既成概念を見事に打ち破っています。
それでいて品のある、そして風通しのよいお堂です。



本堂に隣接する祖師堂です。
中でお参りさせて頂きましたが、声がキレイに反響して、俺、お経上手くなったのか?と錯覚してしまうほどです。



本堂、祖師堂、客殿に囲まれたスペースはウッドデッキになっています。
ここでライブコンサートとかビアガーデンやったら気持ちいいだろうな~!



実際、ビアガーデンはないとしても、沢山のイベントを催しているようです。
月例ボランティア、なんていいアイデアですよね!



客殿がまた、和モダンを採り入れた建築見本のような建物です。



歴史のある内側の建物を、外側の建物が保護している造りです。

境内といい、堂宇といい、出来すぎです!
・・・が、ここまでするには先代住職の大変なご苦労があったようです。
先々代の急逝により大学卒業直後に法灯を継いだ先代住職、当時は界隈の排水が悪く、数年に一度は床下浸水に悩まされていたようです。
どのお堂も基礎が傾き、境内はいつもジメジメ・・・


その名残りでしょうか、お寺の外側にはボートが置かれてます。

しかし先代住職はめげず、自ら重機を操り土木工事を買って出たほどだったそうです。お檀家さん方の当事者意識も高く、お寺の経済運営を立て直し、常にどこかを改修、工事しながら今日に至るそうです。

昨年、娘さんが住職を継ぎ、現在は新体制で頑張っておられるようですよ!応援してます!



歴代お上人の御廟に参拝。
妙光寺は1313年に日印上人が開いた三ケ寺、つまり角田山妙法寺、蓮華寺、経王寺がルーツだそうです。
室町時代に妙法寺が妙光寺に改称して今に至るようです。ちなみに蓮華寺は新発田市に(蓮昌寺と改称)、経王寺は村上市に現在もあるそうですよ!



小さなお堂がありました。



「岩の題目」です。



岩屋に棲む七面の大蛇が教化されたことを喜んだおじいさんが、日蓮聖人に願い出て書いて頂いたお題目だそうです。
力強い字体ですよね!



ご霊跡の守り神かな?大きなカニが歩いていました!海を感じるお寺です。



日蓮聖人はここ角田浜でご一泊され、翌10月28日に佐渡に向け、改めて出航しました。

ここで再び、強風と高波が行く手を阻んだそうですが、日蓮聖人が波間にお題目を書くと、風も波も鎮まったということです。
これを「波の題目」と呼んでいるそうです。



その日の夕方、日蓮聖人を乗せた船は佐渡に到着しました。
(↑画像は佐渡・松ヶ崎の法華岩)


佐渡に至るまでだけでも、本当に大変だったんだな~。

実際に現地を訪れると、お祖師様のご苦労がより深く理解できます。
信徒として大事なことだと信じています。










寺泊山法福寺(長岡市寺泊)

2018-10-28 18:03:35 | 旅行

寺泊の海岸通り、いわゆる市場通りは、いつ訪問しても人でごった返しています。
目の前にトイレ付きの大きな駐車場が完備されているので、遠方からの買い物客がバンバンやって来ます。
昔から北前船の寄港地として活況を呈していたそうですが、現在まで盛況を維持し続けるのは大変な事だったでしょうね!


市場通りから一本山側の通りに、「聚感園」という場所があります。

ここ寺泊は古くから佐渡への玄関口となってきました。
また、数多くの人が佐渡に流される前に、この町で風待ち逗留をしたようです。



順徳天皇も寺泊に数ヶ月滞在されたようです。



この場所にあった五十嵐家の屋敷に、行宮をしつらえたそうです。
現在はその跡が整備され、公園になっています。

・・・とすると・・・

6月に訪問した甲斐市の金櫻神社

金櫻神社には甲州金峰山の神様がお祀りされている場所です。



順徳天皇は佐渡に流される直前、甲州の金峰山の神様に捧げ物をするため、勅使を遣わせました。
確か寺泊から、勅使を遣わせたという話でした。まさに現在の聚感園の場所じゃないかな?

更に言えば、順徳天皇にお仕えしていた若き日の阿仏房も、この近くに逗留していたはずです。リアルだ~!



白い輿に捧げ物を入れ、それを担いで山中に運ぼうとしましたが、白輿は大きく重いために、途中のお寺に預けたそうです。
のちにそのお寺は日蓮聖人によって教化され、順徳院山常説寺になったのです。

思わぬところでいろいろリンクしてきますね~!


聚感園から目と鼻の先に、日蓮聖人ご開山のお寺があります。

法福寺です。
境内は丘の上のようです。階段を上ってゆきます。



階段を上り下りする壇信徒さん達を、松が優しく守ってくれているようです。



上り切ると海が見えます!気持ちいい~!



本堂です。
余計な色彩のない、素朴な風合いです。



山号は地名そのまま、寺泊山です。
このお寺の歴史は古く、奈良時代に修験者が開創したそうで、のちに法華堂という天台宗のお寺になりました。



1271年10月下旬、日蓮聖人が風待ちのため石川右衛門尉吉廣公の屋敷に逗留された際、法華堂の住職が日蓮聖人と法論を交わしました。
結果、住職は日蓮聖人の教えに帰依し、その場でお弟子さんになったそうです。
日蓮聖人から「日伝」の法名を頂き、お寺も改宗して「法福寺」と改めました。
日蓮聖人ご開山、二祖を日朗上人、三祖を日像上人とされたそうですよ。



いつもいつも思うのですが、その場で相手の信仰をそっくり変えてしまうって、スゴくないですか?どんなお話を交わして、キメの一言は何だったのか、再現VTRでもあったら是非見てみたいほどです。


そう、今思い出した!日印上人はもともと越後・寺泊の出身でしたよね。幼名は摩訶一丸です。

「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも摩訶一丸が描かれています。

日蓮聖人が佐渡に渡る直前、寺泊で日蓮聖人にお会いし、弟子になりたいと申し出たそうです。
当時8才ですよ~!僕が8才の時なんて、ハナ垂らしながらザリガニ釣ってましたよ!



本堂の彫刻がまた精緻で見応えあり!とても技術の高い職人さんの仕事と思われます。



幼稚園を併設しているお寺なんですね!子供たちは海の見える幼稚園でのびのび育っていることでしょう!



寺泊祖師堂や硯の井戸、獅子吠えの日蓮聖人像などは、全て法福寺で維持・管理して下さっているようです。
お上人をはじめ、お檀家さんのご尽力に心から感謝します。



さて、この地で一週間、風待ちをされた日蓮聖人は、10月27日に佐渡に向けて船出されました。

・・・実はここからもうひと波乱あったようです。次回を待て!















寺泊祖師堂(長岡市寺泊)

2018-10-27 20:19:56 | 旅行

1271年10月10日に厚木の依知を発たれた日蓮聖人は、実に12日間(!)歩き続けて越後寺泊に到着された、と寺泊御書にあります。
(↑画像は依知の妙純寺)


日蓮聖人がどういう経路を辿って寺泊に至ったのか、定説はないようです。
ただ寺泊御書には「道の間の事 心も及ぶ事なく 又筆にも及ばず 但暗に推し度るべし」とあり、相当、辛い道中だったと思われます。

僕が初夏に訪問した藤岡市にある下栗須祖師堂のお上人のお話では、藤岡のあと碓氷峠を越えて長野を経由し日本海側に出たようだ、ということでした。



鎌倉時代、越後国の中心は今の新潟市あたりでなく、国府のあった今の上越市あたりだったそうです。
これは上越市の埋蔵文化財センターに掲示されていた鎌倉時代の主要都市と街道の図ですが、藤岡あたりから碓氷峠を越え、善光寺を経由して越後府中に至るルートが当時はメジャーだったことがわかります。



日蓮聖人が初めてご覧になった日本海・・・どんな風景だったのでしょうね。



現存する日本海側で最初のご霊跡といわれる場所は、出雲崎町の久田という集落の一画にあります。



水が乏しく困っている村人のために、日蓮聖人が地面を手堀りされたところ、こんこんと水が湧いたといわれる井戸です。
よく清められていました。維持して下さっている方々に感謝です。


そこから7~8kmでしょうか、海沿いの国道を北上すると寺泊の町に至ります。

市場通りと呼ばれるあたりはいつも観光客でごった返して活気があります!



市場通りから一本山側に通る道沿いに、松が植えられ、歴史の香りがプンプンする一画があります。



ここが正面みたいですね~。



門に扁額が掛かっているけど・・・読めない(悲)


日蓮聖人のご尊像に合掌。

ちょっと他では見たことがない、鬼気迫る表情のお祖師様だぞ!
お像は「日蓮聖人獅子吠像」と呼ばれ、誤った見解を打ち破り、正しい見解を打ち出すという意味の「破邪顕正」を訴えているお姿だそうです。



この場所にはもともと石川右衛門尉吉廣という方のお屋敷がありました。
日蓮聖人は寺泊から船で佐渡に渡ろうとされたようですが、風が悪く、石川右衛門尉吉廣公の屋敷に一週間、風待ちのために滞在したと言われています。



この小さなお堂の内部には井戸があるそうです。この井戸水を使って墨を擦り、富木常忍公に宛てて寺泊御書をしたためられた事から、「硯の井戸」と呼ばれています。
今も現役の井戸らしいですよ!



日蓮聖人獅子吠像や硯の井戸がある一画から道を挟んだところにはお堂があります。



寺泊祖師堂です。



一週間の宿を提供した石川右衛門尉吉廣公は、その間に日蓮聖人に教化を受け、改宗したそうです。
のちに屋敷跡にお堂を設け、祖師堂としました。




ピンぼけで申し訳ない(笑)
堂内には寺泊御書が額になって掛けられていましたよ。



先程の寺泊御書、冒頭文の続きはこうなっています。

「又 本より存知の上なれば 始めて嘆くべきに非ずと 之を止む」
(困難はもとより承知の上なので、今さら嘆くべきではない。述べるのは止めておく)

これまでの道中についても、これから佐渡に渡ってから起きる困難も、日蓮聖人はすでに覚悟していたのでしょうね。



獅子吠えの日蓮聖人像の台座には、佐渡に着かれてすぐに執筆を始めたといわれる開目抄の三大誓願が刻まれていました。



もう寺泊の時点で、日蓮聖人の頭の中ではこれらの決意表明が出来上がっていたのではないかな?

そう感じさせる迫力、エネルギーが、この一画には溢れていましたよ!











貫名山妙日寺(袋井市広岡)

2018-10-18 16:59:03 | 旅行
今年の10月13日は日蓮聖人の第737遠忌でした。
ご入滅の地・池上本門寺のお会式はあまりにも有名ですが、この日を中心に各地の日蓮宗寺院でお会式法要が営まれます。

ちなみにウチの菩提寺は今日、お会式がありました。他の壇信徒とともに、日蓮聖人に報恩・感謝のお題目をあげてきましたよ!



日蓮聖人がご入滅された時の様子を描いた「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)。
ご正当の日の朝、改めて拝むようにしています。


しかし・・・前から気になっていたんだよな・・・

日蓮聖人のご兄弟の氏「貫名」を見る度に、訪ねなきゃいけないな~と思っていたお寺があるのですが、つい最近、義母の実家の法事があり、浜松を訪ねる機会があったので、少し足を伸ばして訪問してきました!


袋井市にある妙日寺です。

日蓮聖人のお父様方の菩提寺、と聞いたことがあります。



境内入口に大きい法塔が建っていますね。



よく見ると、右側に「妙日尊儀」、左側に「妙蓮尊儀」と刻まれています。
お父様の法名を寺名にしてあるんですね。



日蓮聖人のご両親をご供養しているお寺、で間違いなさそうです。



小学校に隣接する形で境内があるのですが、なかなか入口がわかりませんでした。
お寺の北側に走る旧東海道に入口があります。



山門です。当日は秋雨前線が台風に刺激され、雨が降り続いていました。
ま、雨のお寺もしっとりした感じで嫌いではないんですけどね!



まずは本堂の前で合掌。



山号は「貫名山」です。



境内は日蓮聖人のご先祖・貫名氏代々の邸宅跡と伝えられています。



日蓮聖人の5代前の先祖は、井伊左衛門盛直という方、いわゆる名門・井伊家の方でした。
盛直は三人いたお子さんに一人は井伊家、もう一人は赤佐家を継がせ、さらにもう一人・正直に山名郡(現在の袋井、磐田あたり)を任せたそうです。



正直は山名郡の貫名に館を築き、「貫名」を氏としました。
つまり正直が貫名氏の始祖であり、貫名家は井伊家の分家に当たります。



本堂横、渡り廊下の下に、貫名家廟の入口がありました。



宝塔を中心とした貫名家廟です。
実際の墓石はすっかり丸く小さくなってしまっていますが、よく清められており、手篤く供養されているのがわかります。



始祖である貫名四郎正直公



2代・貫名次郎行直公



そして3代・貫名五郎重實公の名前が刻まれていました。重實公は日蓮聖人のお祖父様にあたる方ですね!



そしてその横には、日蓮聖人のご両親を供養する五輪塔があります。
雨が避けられるよう、屋根で護られています!



江戸初期に大和柳生藩主・柳生但馬守宗矩が寄進したものだそうです。
白っぽい石で造られた五輪塔です。



薄いけどわかるかな~?
右側には「慈父貫名重忠」「法號妙日尊儀」、左側には「悲母清原氏」「法名妙蓮大姉」、そしてご両親に囲まれるように中央に「南無日蓮大菩薩」。



3代・重實公の子である貫名二郎重忠公は、源平の合戦において平氏に味方したことが原因で鎌倉幕府から睨まれ、安房の国小湊に流されてしまったそうです。
そうか・・・だから日蓮聖人は安房の国でお生まれになったんだ。うんうん、わかってきた!



1258年、日蓮聖人が35才の時に、重忠公は病に倒れ、激動の生涯を終えられたそうです。
もう自らの死が近いとわかったのでしょう、重忠公は日蓮聖人の弟君・重友公に、「自分の魂は今も貫名にある、遺骨は貫名の先祖の墓地に埋葬して欲しい」そして「日蓮が宗門弘通の本懐を達したあかつきには、一寺を建立して先祖代々の菩提を弔ってくれるだろう」と遺し、臨終されたそうです。


重友公はお父様の遺言どおり、ご遺骨を貫名に埋葬したといいます。


歴代お上人の御廟を参拝。

妙日寺は1332年、身延山久遠寺四世の日善上人が開山した古刹です。
日蓮聖人であっても、やはりご両親がいなければ存在しえなかったであろうし、ましてや先祖代々の一人でも欠けていたら、我々はお題目に出会えなかったでしょう。貫名家祖先の霊を、長きにわたって供養し続けて下さった歴代に、心より感謝です。



もともと貫名家代々の廟は、妙日寺からみて南、石野という場所の正覚寺にあったそうです。しかし正覚寺が廃寺になり、明治時代に妙日寺に移されたといいます。
現在の静謐な廟に落ち着いたのは、実は明治期だったんですね・・・。



本堂隣にあるお堂は、思親殿です。
このお堂の裏側に日蓮聖人のご両親の供養塔が配置されているので、拝殿的な役割なのかな?
こちらには日像上人ご親刻の、日蓮聖人とご両親のご尊像が安置されているそうですよ。


ところで山門に掛けられていたこの木札

右側の一列は意味がわかりますが、左側が・・・特に「女へんに考(IMEパッドになかった!)、妣」って何だ???

調べてみると、一般的には考妣(こうひ)といって、「亡き両親」を意味するそうです。
てことは、お祖師様の亡きご両親の魂の宿るご遺骨・・・が安置されている霊場、って感じかな?



するとこの石塔に刻まれた言葉も、ご両親の威徳を讃えたものなのでしょうね。

日蓮聖人のような、時代の異端ともいうべき方を子供に持ったわけですから、安房の国での風当たりはどんなに激しいものだったでしょう。それでも、いつもご両親は日蓮聖人を信じ、味方になり、そして心の拠り所になっていたそうです。


親思う心に勝る親心ですね・・・。
妙日寺、感謝を気持ちを伝えにまた来たいと思います!

波木井山智恩寺(遠野市新町)

2018-10-02 23:07:27 | 旅行

初秋の遠野へ行ってきました!



遠野は昔から民話の伝承がよくなされていた地だったそうです。
明治時代に柳田国男が「遠野物語」を発表したことで、奥深い独特の文化を持つ街として、広く知られるようになりました。



遠野の駅から南に伸びる通りを行くと、やがて鍋倉城址に至ります。
鍋倉城は仙台藩との国境警備を理由に、八戸の根城から国替えとなった南部氏の居城でした。
現在は公園となっていますが、南北朝時代に創建された南部神社は残っています。



南部神社には根城南部氏の初代から八代目当主までをお祀りしています。
もちろん初代は波木井實長公です!



実は今回、南部氏の歴史を知りたくて遠野の鍋倉城を訪問するのが目的の旅だったのですが・・・
風情のある街だな~、なんて思いながら散歩していて、見つけちゃいました!!



井桁に橘・・・それにあの屋根、相当でかいお寺だぞ!



ジャーン!どうだと言わんばかりの堂々たる山門が迎えてくれました。



「波木井山智恩寺」というお寺のようです。てことは、波木井實長公ゆかりのお寺・・・なのかな?
「北身延」とも刻まれています。いずれにせよ全くノーマークのお寺でした。



阿行と


吽形がお寺の入口を護っています。



恐らくここ、鍋倉城のお山の一画を寺域にしていると思われます。だから参道もゆるい上り坂です。



本堂が見えてきました。斜面に造られたお寺のため、僕のカメラでは本堂のでかさが表現できていませんね。



扁額は・・・ん~・・・一字目がわかなんないな。
お寺の名前が智恩寺だから、「智恩精舎」かな?



この日ご住職は不在でしたが、先代ご住職がお話をして下さいました。
やはりここは波木井實長公につながるお寺でした!



特に根城→遠野南部家の中でも、始祖の實長公は別格のようですね。
遠い昔から實長公の菩提を弔うために、わざわざ遠く身延の久遠寺まで使者を遣わすなど、南部家の中で法華信仰は代々、保ち続けられたようです。



そしてその信仰は遠野の街にもじわじわと広がってゆきました。
そうなると信仰の拠点が欲しいところですが・・・残念なことに明治期までこのあたりには日蓮宗のお寺がなかったそうなんです。



明治初期、法華信仰のある町民達によって寺院建立の募金が行われ、まずは参拝場ができました。
そして当時の南部家の当主は、鍋倉城にあった實長公のご尊像をその参拝場に寄進してくれました。
遠野の信者さん達は、一日も早くお寺を建立したいと願いました。
しかし・・・ここに大きな壁がありました。



僕も今回、初めて知ったのですが、1631年に江戸幕府は「新寺建立禁止令」なるものを出していたそうです。これは幕藩体制強化の一環で、お寺も幕府が管理・統制してゆこうということなのでしょう。本末制度とか檀家制度なんかもこの頃始まったそうなんです。
それが明治になっても続いており、更に明治維新で廃仏毀釈もあり、とても新寺を建立できる環境ではなかったようです。



そんな時、遠野に布教に訪れた日忍上人というお坊さんがいました。日忍上人は佐野の妙音寺というお寺からやって来た方のようです。
遠野の現状を目の当たりにした日忍上人は、一計を案じました。
千葉に廃寺寸前の「智恩寺」というお寺がある、そこを遠野に移せないものかと。



南部家の当主・行義公は早速、鍋倉城址の一画を寄進し、遠野・智恩寺の建立が始まったそうです。
そして明治23年、遠野の法華信者念願の、智恩寺が完成しました。
参拝場に安置されていた實長公の御像も智恩寺に移され、山号を「波木井山」と称するようになりました。



南部家、日忍上人、そして遠野の信者さん全員が苦労して、必死で建てたお寺。落慶の時には皆さんどんなに嬉しかったことでしょう。
お寺に古い新しいなんて関係ない、建立までの経過が純粋すぎて、感動しちゃいました。

ちなみに例の「新寺建立禁止令」と「廃仏毀釈」のせいで、日本のお寺は400年以上の歴史を持つ古刹か、創建100年余りの若いお寺しかなく、江戸~明治初期の250年はぽっかり空白になっているそうです。



先代ご住職に許可をとり、本堂内の欄間に彫られた日蓮聖人身延ご入山の彫刻をパチリ。
身延山久遠寺の始まりを象徴する、大切な瞬間ですよね!



久遠寺とのつながりはまだまだあります。
現在、久遠寺境内の開基堂に奉安されている實長公の御像は、以前、智恩寺にお祀りされていた御像なのだそうです。
實長公自らが工匠に命じて造った、とても歴史がある御像だと言われています。
太平洋戦争が終戦して間もなく、久遠寺の懇請で開基堂に移転安置され、智恩寺には代わりに久遠寺に奉安されていた御像がやってきました。
僕はどちらの御像も見たわけですが、いずれも味がある表情ですね!両方見ると、何となく實長公の雰囲気を感じ取れます。



御像を交換したその年は實長公の650遠忌にあたり、ここ智恩寺は久遠寺から「北身延」の公称を認められたそうです。
僕はとても相応しい称号だと思いますね。



偶然見つけた東北・遠野の波木井山智恩寺。今となれば呼ばれて行ったような気さえします。
歴史こそ浅いけれども、知れば知るほど深い、とても深い。

次回、久遠寺の開基堂を参拝した時の心持ちが全然違うだろうな。
ご霊跡を巡ることで信仰を深めるって、こういう事なんでしょうね!