日蓮聖人のご霊跡めぐり

日蓮聖人とそのお弟子さんが歩まれたご霊跡を、自分の足で少しずつ辿ってゆこうと思います。

妙厳山本覚寺(鎌倉市小町)

2017-03-29 19:53:42 | 旅行
佐渡赦免後の日蓮聖人の活動拠点だった小町の古刹を参詣しました。


比企ケ谷の妙本寺参道から夷堂橋を渡ると
本覚寺の楼門が見えます。


小町大路がクランク状に曲がっているところなので、否が応でも目立ちます。


大きな法塔がそびえ立っています。
台座に「東身延」と刻まれています。


「高祖分骨之霊地」
ここ本覚寺の第二世、日朝上人(今の身延山久遠寺の礎を築いたお上人ですよね!)が、日蓮聖人の御真骨をここに分骨したため、そう呼ばれているそうです。


台座にこの法塔を寄進した結社が刻まれていました。
「横濱惣結社」
「行學結社」
までは読めました。結社も頑張ってます!


由緒がありました。
山号は「妙厳山」です。


源頼朝が、鎌倉幕府の裏鬼門にあたるこの場所に「夷堂」を建てたのが、このお寺のそもそものルーツのようです。
佐渡配流がご赦免になった日蓮聖人は鎌倉に戻られましたが、既に松葉ケ谷の御草庵は壊されていました。
そこで、この場所にあった夷堂(今はキレイに新築されていますね~)に滞在することになったそうです。


ということは、日蓮聖人は夷堂に滞在している時に、幕府に呼び出されたのだと思われます。

幕府からは既に予言の一部が的中していた立正安国論についての質問がなされました。
鎌倉幕府の日蓮聖人に対する見かたが少し変わってきていたのでしょう。
そこで、日蓮聖人は3度目の諫暁をしたのです。


しかしその後も幕府が相変わらず他宗に祈祷を依頼しているのを知り、日蓮聖人は身延に旅立たれたのです。
この、日蓮聖人の生き方の転換点となった場所に、のちに日出上人というお坊さんが本覚寺を開山させました。
ちなみに日出上人は、日朝上人のお師匠さんだそうですよ。



本堂です。
大きな銅鑼が印象的です。


瓦一枚一枚に「本」マーク


本覚寺の境内で、最も神聖な場所がここです。
祖師分骨堂です。
ご存知の通り、日蓮聖人の御廟や御真骨堂がある身延山は、甲斐の深い深い山中にあります。
その昔は相模や江戸に住む人でさえ、参拝が容易ではなかったそうです。


そこで日朝上人は、身延山を訪れることができない方も参拝できるようにと、この本覚寺に日蓮聖人の御真骨の一部を分骨されたそうですよ。


境内に「人形塚」がありました。
毎年10月に人形供養が行われているそうです。
思い入れのある人形って、そうそう捨てられませんよね~。
こうして供養して頂けると助かります。


歴代のお寺に賛助された方々の碑が並んでいました。
奥に見える木の向こう側は鶴岡八幡宮から由比ガ浜へ延びる鎌倉大路です。
都会のお寺!!!


遠い昔の金弐千圓!
庶民一人ひとりには一生縁のない高額だったと思われます。
名もなき庶民の布施の心で出来上がった、立派なお寺ですね!


お手洗いの近くにこんな苗木が植わっていました。
「御車返し」
ミクルマガエシという桜の一品種らしいです。

日蓮聖人が身延に向かわれる道中、富士裾野のあたりに「車返し」という場所があり、御一泊されたご霊跡になっている、というのを思い出しました。
何かの縁かもしれません。近いうちに訪問してみましょう!

長興山妙本寺(鎌倉市大町)

2017-03-22 16:33:42 | 旅行

「東身延」として有名な本覚寺の門前に、滑川にかかる夷堂橋があります。
小町大路はここでクランク状に曲がっています。


夷堂橋を挟んで本覚寺の反対側に、東に向かう通りがあります。
妙本寺の参道です。
大きなお題目の法塔がありますね~


唱題随喜・・・界?会?旧字体は難しいな~


ご霊窟がここにもあるのかな?


参道の脇にひっそりと帝釈様が見守って下さっています。


総門です。
大きな寺院だけあって、門だけでも小さめのお寺の屋根くらいあります。


由緒がありました。
ここは比企一族が住む谷戸であったことから「比企ケ谷」と呼ばれています。
源頼朝の重臣であった比企一族は、権力闘争の末に北条一族によって滅ぼされてしまいました。
日蓮聖人がお生まれになる19年も前のことでした。


この事件の時にまだ幼少で京都にいたために生き延びることができた比企家の人がいました。
比企大学三郎能本公でした。
京都で学問を究め、学問で生計を立てていたインテリの方のようです。


鎌倉で辻説法をしている日蓮聖人に出会い、帰依しました。
日蓮聖人が立正安国論を書かれた時、その校正をしたのが比企大学三郎能本公のようです。


「比企大學三良能基本行院日学上人舊地」

「舊」は「旧」と同じ意味みたいですよ!
一族をこの比企ケ谷で滅ぼされた比企大学三郎能本公は、「比企の菩提を弔ってくれるのは日蓮聖人しかいない」と決心し、比企一族の屋敷跡を寄進しました。
ここに法華堂を建てたのが妙本寺のはじまりのようです。


総門の右手には八角形のお堂・・・いや、これは比企谷幼稚園です!
か・・・かっこいい!!!
「ここ、おれが通ってた幼稚園!」って言ってみたい~!


境内に入ると両側に深い森!
空気が変わります。


門が見えてきたぞ!


比企ケ谷の紋が輝いています。


二天門です。
左右に持国天と多聞天を祀っています。


まずは日蓮聖人像に合掌。


数々の法難に遭う以前の、若さ溢れる表情だと思います。


でもね・・・
どうですか!この左手!!
血管が浮き上がっています。
力の入り方が違います。


右手も!
辻説法中なんでしょうかね。


発起人の方々、制作に携わった方々の熱意が伝わる銅像です。


本堂です。
手前の屋根のカーブがあまりにキレイ・・・見事です。


瓦一枚一枚に比企ケ谷マーク
これって比企家の家紋なのかな?


歴代ご住職の御廟を参拝しました。
歴代墓誌(皆さん長寿ですね!)を見ると
開山 日蓮大聖人
二祖 日朗聖人
三世 日輪聖人
と刻まれていました。

・・・ん?どこかで見たことがあるぞ・・・?

そうだ!池上本門寺の御廟!

日蓮聖人の御遺命で、ここ比企ケ谷と池上の両山は一人の住職が兼務することになっていたため、開山、二祖、三世・・・と両山とも同じお名前なんですね!
(昭和16年に両山一首制は廃止)


で、法性寺にあるのが両山の奥の院です。

いろいろつながってきました!
ご霊跡めぐりの醍醐味です。


見どころ満載の妙本寺ですが、大将格を紹介していませんでした!
祖師堂です。
わたくし事ですが、若い頃から鎌倉に来たら必ずお参りに来ていた、大、大、大好きなお堂です。


回廊で小一時間ボーっとしたり・・・


見事な細工を見上げたり・・・!


何よりも惹かれるのがこのセクシーな屋根


色気すら感じます・・・
いや、失礼。ここお寺だった(笑)
でもホント、古いからにじみ出す味わいがあります。
時間がクオリティを作るんですね!


この裏側にご霊窟がありました。
何となく悲しげな空気を感じました。
一族が皆殺しにされた場所でもあるので、画像はありません。


蛇苦止堂です。
比企一族が北条一族により滅ぼされた「比企の乱」から50年ほど後、北条政村の娘が何かに憑依されて蛇のようにのたうち回り苦しみ、
「自分は讃岐局だ。蛇に生まれ変わり、比企谷の土の中で苦しみもがいている。」
と語ったそうです。・・・こ、こわ~っ!


讃岐局(二代将軍 頼家の側室)の弟にあたる比企能本公は、日蓮聖人に救いを求めたそうです。日蓮聖人は、讃岐局の怨霊を法華経の功徳を以て成仏させ、「蛇苦止明神」と名付けて祀ったそうです。


蛇苦止堂の境内に井戸がありました。
蛇苦止の井です。
比企一族滅亡の時に、讃岐局が家宝を抱いてこの井戸に身を投げたそうです。


怨霊を封印しているのでしょうか、井戸の正面に板に書いた御曼荼羅がありました。
とても、とても悲しい空気を感じた井戸でした。


妙本寺境内をじっくり見て回るほど、比企一族の無念と、それをきちんと供養しようと努めた比企能本公と日蓮聖人を感じ取ることができます。
比企一族のお墓です。
改めて日蓮聖人に手厚く弔われたのでしょうね。合掌。


周囲は杉林。訪れたのは3月。


当然、真っ黄色の花粉満載(笑)

花粉症の方はご注意!

立川家(東村山市久米川)

2017-03-20 17:13:16 | 旅行
東京都下唯一の、日蓮聖人のご霊跡は今・・・


桜の開花も秒読みの、快晴の春分の日
西武新宿線の東村山にやってきました!


駅前に府中街道が走っています。


そこから一本脇道に入ると・・・
歴史の香り♬


この細道が「鎌倉古道」です。

鎌倉古道は鎌倉を起点として
群馬方面に向かう「上ツ道」
栃木方面に向かう「中ツ道」
千葉方面に向かう「下ツ道」
の3本があるようで、ここ東村山には上ツ道が走っています。


道沿いに説明がありました。
この古道は上野国(今の群馬)を経て信濃国(今の新潟)に至るそうです。


龍ノ口の法難後、日蓮聖人は厚木・依知の本間重連邸に28日間勾留されたあと、配流予定の佐渡に向けて歩き出しました。
たった一日で厚木から久米川まで踏破し、この先のお宅にお泊りになったそうです。
歩く歩く!!


鎌倉古道沿いには昔からの遺跡、神社仏閣などが点在しています。
白山神社


当間稲荷


熊野神社
など・・・
江戸時代頃まで人々の往来が盛んだったんでしょうね!


日蓮聖人はこの鎌倉古道沿いにある「立川家」という民家に御一泊された記録があるようです。

行ってみましょう!!


僕、不慣れな土地を巡る時は、事前にグーグルストリートビューで現地を確認しておくんです。
そろそろ↑の立川家の立派な門が見えてくるはず・・・


・・・あれ・・・あれ?この場所のはずなんだけど・・・
・・・ない(悲)なくなってる(泣)・・・
念のためお向かいの畑で作業されているおじさんに聞いてみると・・・
昨年、跡形もなく全て壊されてしまったそうです。

現在は真新しい建て売り住宅がたくさん建っていました。
(もう住んでいる方もいらっしゃるので、画像は敢えて掲載しません)

・・・既に40か所以上、日蓮聖人のご霊跡を巡ってきましたが、ここまでの様変わりは初めてです。
グーグルストリートビューの画像は2015年4月、たった2年前のものでした。


本当に胸が痛くなりました。
しかし、ご霊跡となるこの場所を700年以上にわたって維持し続けてこられた立川家の方々にとって、その取り壊しはもっともっと辛かったはずです。
一般のお宅でありながら毎年10月10日にはお会式を営んでおられたという事も聞きました。
大変な業績です。ご苦労様でしたと言いたいです。


現在は有名なお寺でさえ、存続が難しいところも多いと聞きます。

一銭の利益にもならないご霊跡の維持

時代の流れとはいえ・・・

我々の子や孫の時代に、残してゆけるのでしょうか?

辻説法跡(鎌倉市小町)

2017-03-19 18:57:44 | 旅行
僕が初めて日蓮聖人のご霊跡を意識したのは今から四半世紀も前、鎌倉をプラプラ歩いていた時でした。

何気ない小町大路の道ばたにありました。
(昔はもっと質素だったんですよ!)
お寺でもない、建物も何もない、ただの道ばた・・・

でもここが宗門にとって、あまりに、あまりに、意味のある道ばたなんです。
日蓮聖人という方を説明するには、この場所をおいて他にないのではないでしょうか?


「日蓮大士辻説法之霊跡」


この場所は、鶴岡八幡宮の参道・段葛から一本裏に入った小町大路ですが、鎌倉時代には武士の屋敷と商家町が混在した地域で、なおかつ当時の政治の中心であった鎌倉幕府・鶴岡八幡宮にもほど近い、絶妙な場所だったのです。


この辻説法跡には多くの石碑、法塔が整然と立っています。
僕が20年前に見た時よりもずっと、キレイに整備されています。


「国諫再興碑」
日蓮聖人が鎌倉にお入りになった頃、世の中は干ばつ、飢饉、疫病などが続き、「世も末」の様相を呈していたようです。


お釈迦様が入滅後、500年間は正しい仏法が行われる「正法」の時代が続くが、そのあときちんと修行が行われない限り、悟りを開く人が出ない「像法」の時代が来て、そのあと教えしか残らない「末法」の時代を経て、最終的には教えも残らない「法滅」になるという思想
「末法思想」
が世の中を支配していました。


また、当時大陸を席巻していた蒙古からも、「属国になるだろ?おい!」という国書が届き、幕府も混乱していた時代でした。

日蓮聖人はこの道ばたで、法華経の教えを熱心に説き、他宗と、それと結びつく幕府を痛烈に批判し続けました。


まさにこんな感じのアングルで説法を続けたのでしょうか。
いや、日蓮聖人のことだから道に出て演説していたはず!!


「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
日蓮聖人の教えに伸るか反るかで日本の存亡は決まるのだ、という意味だと思います。

そろそろ五十路になろうかという僕にとって「辻説法」というと、昔、銀座・数寄屋橋で続けられていた右翼・愛国党の赤尾敏氏の辻説法姿が思い起こされます。
華やかなバブル最盛期の銀座の目抜き通りで、日の丸を掲げた街宣車の前で、国の凋落について激しく批判する老人の姿は、今でも頭の片隅から離れません。


僕自身、思想的に右も左もない方だと思っています。
しかし自分のことばかりで国の将来なんか興味のない聴衆の前で、とにかく国を憂いて道ばたで説法をされた日蓮聖人の姿は、もしかしたらあの数寄屋橋での老右翼の姿のようだったのではないかと想像してしまうのです。

この激しい辻説法が原因で、日蓮聖人は幾多の辛い法難に遭ってしまいましたが、同時に多くの信徒、後に日蓮聖人を支える檀越達、宗門の基礎となったお弟子さん達が日蓮聖人の教えに賛同し、帰依を誓ったのです。

お寺でもない、建物もない、ただの道ばたは、実は「最高峰のご霊跡」だったのです。

恵雲山常栄寺(鎌倉市大町)

2017-03-17 08:13:20 | 旅行
今年初めに龍口寺を訪問した際、お土産として「難除けのぼた餅」を買って帰りました。
毎年9月12日、腰越の龍口寺では、「龍ノ口の法難会」が開かれます。
(まだ参加したことはないですけどね!)
日蓮聖人がまさに頸の座に座られ、太刀が振り下ろされようとしていた真夜中の12時に合わせて、「ぼた餅供養」が行われているそうですよ!


日蓮聖人の御草庵があった松葉ケ谷からほど近い比企ケ谷に、ぼたもち寺があります。
妙本寺の総門脇に、看板が出ています。
徒歩2分!


ありました!
すぐ裏にお山を背負っているので、境内は広くはなさそうです。


山号は「慧雲山」です。
お寺の縁起パンフレットには「恵雲山」とあります。
「知恵」って「智慧」とも書くので、同じ意味なのかな~?
「慧」の字は彗星の「彗」にも似ています。
龍ノ口の法難を救った「光の玉」は、僕の中では彗星的なイメージがあるので、そういうのも山号に込められていると勝手に想像しちゃいます!


「これやこの 法難の祖師にはぎのもち ささげし尼が すみにしところ」
日蓮聖人が松葉ケ谷の草庵にいるところを、平左衛門頼綱以下たくさんの手勢に捕らえられました。
裸馬に乗せられ、犯罪者のごとく鎌倉じゅうを引き回され、龍ノ口の刑場に向かいました。


その途中、今の常栄寺の前にさしかかったとき、この地に住んでいた棧敷(さじき)の尼という老女が、日蓮聖人に仏の加護を祈念した「胡麻のぼたもち」を鍋蓋に載せて供しました。


その時の様子が絵になって掲示されていましたよ。
多くの警護に囲まれた日蓮聖人に近づくのは、とても勇気のいることだったと思います。
日蓮聖人はこれをありがたく頂き、鍋蓋にお題目を書いてお返しした、ということです。


このあと龍ノ口の刑場に連れて行かれた日蓮聖人は、斬首直前のところで光り物の奇瑞が起こったため、執行を免れました。
棧敷の尼の、切なる願いが通じたのかもしれません。

江戸初期になって、比企ケ谷・池上両山住職をされていたお上人が、この地に常栄寺を創立されたそうです。


境内にこんな法塔を見つけましたよ!
金色の法塔!
もうだいぶはげてしまっていますが、昔は金ピカだったと思われます。


あと、山門に掲げられた宗紋

そして比企ケ谷の紋
・・・もゴールドでいい感じ♬


ひとつ疑問が生じました。
龍ノ口の法難って秋のお彼岸に近い頃ですよね?
「春はぼたもち」
「秋はおはぎ」
って言いません?

「難除けのおはぎ」じゃないんですかね~?(笑)
※山門に掛かっていた歌の板には「はぎのもち」って書かれてました

化生窟・御硯水の井戸(鎌倉市大町)

2017-03-16 19:19:43 | 旅行
鎌倉に入った日蓮聖人がまず居を構えた岩窟を参拝しに行きました。

松葉ケ谷といえばこの三ケ寺。
週末には観光客がひっきりなしに訪れます。


右に安国論寺、左に行くと妙法寺ですが、その真ん中、額田記念病院沿いの細道を上ります。


民間の駐車場のフェンスに看板が出ています。
注意していないと通り過ぎてしまいます。


駐車場を通らせて頂きました。
突き当りに何やらまた看板かな?


「この奥←」
行ってみましょう。


どなたかがキチンと管理してくれています。
石畳が整備されていました。


うわっ!!!
突然現れる横穴!


由緒が刻まれていました。
日蓮聖人が鎌倉入りした最初の晩、夜を明かした所のようです。

「この谷戸に潜む物怪(もののけ)を済度した所」とも刻まれていました。
物怪とは、人にとり憑く霊とか妖怪のこと
済度とは、迷い苦しんでいる者を救って悟りの境地に導くこと のようです。

これが「化生窟」と呼ばれる所以でしょう。

最初の晩ですもんね、誰も泊めてくれるはずがありませんよね。
こんなにさみしい場所の岩窟に身を寄せるしかなかったわけです。


岩窟のすぐ横に、井戸がありました。


日蓮聖人が御硯の水や日常用水としてお使いになられた井戸だそうです。

化生窟、御硯水の井戸とも、安国論寺さんがご霊跡として整備・管理して下さっているようですよ。
今では民間の駐車場の奥に位置している、決して目立つことのないご霊跡でも、こうして手を入れて下さっている。

感謝、感謝です。


井戸水は・・・出るかな?
出た!水量十分ですよ~!!
日蓮乞水とともに、日蓮聖人の鎌倉での生活を支えた水。
そのお水で両手を清め、お参りさせて頂きました。


横須賀のお穴さまといい・・・


逗子・法性寺の岩窟といい・・・
岩窟のご霊跡が多いですね~。


この谷戸には、よ~く注意してみると至る所に穴が口を開けています。

もしかしたら・・・

知り合いも信者も檀越も全くいない地で、元々は草をかき分けて、こんな横穴に身を寄せたのではないか?と思っちゃいます。
(今でこそ補強されたりお化粧されたり、本当にキレイに整備されていますけどね~)


多くのご霊跡を巡ってゆくうちに、何となく、わかってくることがあるものです。

信仰も、深くなってゆきます。

日蓮乞水(鎌倉市大町)

2017-03-14 19:45:40 | 旅行

先日訪れた法性寺、その裏から続く名越の切り通し



季節は菜の花から・・・


桜に変わりつつありました。


この桜は「玉縄桜」といい、大船植物園で育成された、早咲きのご当地品種です。


切り通しは鎌倉の松葉ケ谷へと通じています。


現在の住所では鎌倉市大町になります。


ほどなくして横須賀線の線路脇に出ました。


細い路地の脇に、本当にひっそりとありました~!


「日蓮乞水」です。


この竹板の下に井戸があります。
龍神様がお守りになっていました。
700年以上経った今も、水が湧き続けているそうです。


名越の切り通しを越えて松葉ケ谷に来られた日蓮聖人、のどがカラカラになってしまったのですが、周囲に川は見当たりません。
もちろん、鎌倉の誰一人として日蓮聖人のことを知らないので、水を頂けるアテもありません。


今でこそ、どこにでもコンビニや自販機がありますが、鎌倉時代のことですからね・・・難儀したと思われます。


そこで日蓮聖人が地面に杖を刺したところ、地下水が湧き出てきたそうです。
これが「日蓮乞水」となりました。


「おんめさま」大巧寺のお上人の名前が刻まれていました。
大巧寺さんがこのご霊跡を管理しているんでしょうか?

ほんとうにご苦労様です。


ちょっと歩けばもう松葉ケ谷の古刹、長勝寺が見えます。
松葉ケ谷に構えたご草庵からほど近いこの場所にある井戸ですから、日蓮聖人は生活の水として汎用されたと想像します。


横須賀線の名越踏切に、このご霊跡の場所を示す法塔がありました。
「日蓮水」って刻んでありました。


日蓮水はこんこんと、しかし途切れなく湧き続け、干ばつでも水量は変わらなかったそうです。


思い返してみると、これまで廻ってきたご霊跡の多くが、水に関するものでした。
雨乞いのご霊跡、御硯水、三浦半島の滝・・・などなど。

日蓮聖人は水をいざなう、もしかしたら水を自由にコントロールできる能力があったのかもしれません。
同時に鎌倉時代、水がいかに貴重であったかを思い知らされます。

水の拠点を作ることは、庶民の信頼を得る助けになったのでしょうね!!

関本山弘行寺(南足柄市関本)

2017-03-11 20:16:27 | 旅行
日蓮聖人が池上へ向かう道中で御一泊された南足柄のご霊跡を訪問しました。

奥に足柄峠を望む緩やかな坂道


なかなか味わいのある地名ですね~


歴史のありそうな法塔です。


日蓮聖人のご入滅の年に建てられた、とても歴史のあるお寺です。


弘安5(1282)年9月15日にこの場所に日蓮聖人の御一行がお泊りになりました。
先日訪れた足柄の竹之下に宿泊したのが9月14日だったので、一日で峠を越えてきたんですね~!

更には9月16日には、これまた先日訪問した平塚の要法寺に一泊されています。

続々とつながってきましたね~!


山門は赤く塗られています。
「赤門」っていうのかな?


山号は「関本山」(かんぽんざん)です。
地名の関本(せきもと)から来ていると思われます。


本堂です。
てっぺんの相輪塔が印象的な、近代的なお堂です。


「本化棲神・・・」?房?屋?
恥ずかしながら最後の字が読めません(笑)
身延山久遠寺も棲神閣とかっていったような記憶があります。
いずれにしろ日蓮聖人の精神が息づく場所なんですね!


日蓮聖人像がありました。


多分、池上へ向かう時、ここに御一泊された時の、60才の日蓮聖人だと思われます。
頬はこけ、しわが目立ちます。
老いも感じますが、身延山での大きなお勤めを終えたあとの清々しさも感じます。
「御祖師様」という呼び方が、しっくりくる容貌です。


小さいお堂がありました。


「守護神堂」とありました。
行者を守護してくれる存在というと帝釈様を連想しますが、何がお祀りされているのかはわかりませんでした。


境内からは足柄平野が一望できます。
その向こうには相模灘!!

身延に7年間もお入りになっていた日蓮聖人は多分、この場所で、久しぶりに相模灘を見たのだと思われます。懐かしかったんだろうな~


歴代お上人の御廟がありました。


開山の日蓮聖人から始まって、第46代のお上人まで刻まれていました。
第2世の日辨上人が、この地に弘行寺を建てたと思われます。


「性殊院殿の墓」
~院って付く人に、庶民はいないんじゃないのかな?


な、何と、お萬様のお母さまのお墓なんですね!
なぜ、この南足柄の地にそんなビッグマザーのお墓があるんだろう?
由来は不明のようですが、はっきりわからないのも想像力を掻き立てられていいですね!


大きな大きな、桜の木がありました。
枝ぶりが、それはそれは見事!
境内の何分の一かを覆ってしまいそうです。


最近の開花予想では3月25日頃、満開が4月3日頃のようです。あとひと月もかからずにこの境内が白い花びらで席巻されるんですね~

ご霊跡は桜の名所が沢山!
今月末から忙しくなりそうだ!!

名越の切り通し(逗子市久木~鎌倉市大町)

2017-03-08 08:05:45 | 旅行
横須賀・米が浜から辿ってきた日蓮聖人の鎌倉への道、ゴールは目前です!

日蓮聖人は法性寺のお山にある岩窟で猿たちの供養を受け、体調を整えて鎌倉へ向かいました。


法性寺の裏山は岩山です。昔の知恵で歩きやすいように「切り通し」になっています。


小刻みなアップダウンが続きます。


帝釈様が行者を守ってくれています。


鎌倉時代の山中は、今よりず~~~~っと寂し気だったんだろうな・・・


広い草原に出た!! 
向こうに見えるのは鎌倉市のクリーンセンターの煙突です。


布教のために初めて鎌倉に乗り込んだのも、この道でしたし、松葉ケ谷の草庵の焼き討ちに遭ったときに避難したのも、この道だったのです。
まさに、道自体が「ご霊跡」です。


シダが道の両側を覆います。


この切り通しは、国指定の史跡なんですね。


昔、この一帯は交通の難所だったようです。
明治時代まで、ずっと生活のために使われてきた道だったんですね。


・・・そして・・・
下に横須賀線が見えてきました。
もう鎌倉の松葉ケ谷です。

日蓮聖人にとって、長い長い闘いがここから始まったのです!


横須賀・米が浜から辿ってきた日蓮聖人の道ですが、そのご苦労の一端に触れることができたような気がします。
また、その道の途中途中で信仰の拠点を作られ、庶民に心の拠り所を設けてこられた事は、大変な業績であったのだな、と感じました。
同時に、それらご霊跡が観光や交通の要衝に変化しながら、現在もなお我々に恩恵を下さっていることに感謝し、名越の切り通しをあとにしました。

猿畠山法性寺(逗子市久木)

2017-03-07 20:35:58 | 旅行
訪れたかったご霊跡の一つに、法性寺がありました。

日蓮聖人が立教開宗したあと、東京湾を渡り横須賀を経て鎌倉に至る道の、まさに鎌倉の直前にあるのが法性寺です。
また、このご霊跡には、僕が今まで廻ってきたご霊跡の多くに名前を残している六老僧の一人、日朗上人の御廟があり、どうしてもお参りしたい気持ちがありました。



法性寺、山号は「猿畠山」(えんばくさん)です。
昔から「お猿畠」と呼ばれていたそうです。
扁額に白いお猿さんがぶら下がっています。



山門です。
ここから険しい坂道が続きます。


ハアハア・・・


本堂です。


「日朗菩薩墳墓霊場」


よく見ると至る所にお猿の彫刻があります。


日朗上人の御廟はどこかな・・・?
あ~また階段~!


お猿はこのお寺のヒーローです。


気が付けばすっかり山の上!


そこに・・・ありました!
日朗上人の御廟です。
このお堂の中には宝塔があり、それが日朗上人のお墓となっています。
元応2(1320)年1月21日が命日で、享年77歳だったということです。

日蓮聖人の最もお近くでお仕えしていた日朗上人。
そのご遺徳に感謝し、お参りさせて頂きました。


日朗上人の御廟の隣にある、歴史のありそうなお堂
このお堂の格はとても高いんですよ。
日蓮聖人のご遺命で、日朗上人は池上本門寺と比企ケ谷の妙本寺という二つの大きいお寺のご住職をされました。
日朗上人がお亡くなりになり、ここ法性寺に両寺の「奥之院」ができました。


訪ねてくる檀信徒の方も多いのでしょうね。


横須賀からこの山にやってきた日蓮聖人は、山頂近くにある岩窟に籠られたそうです。
(知らない地で、いきなり他人の屋根を借りることはできないですよね~)
近所の人たちは誰も日蓮聖人のことを知らないので、誰も給仕してくれず、食べ物に窮していました。
そんな時、どこからともなく猿たちが集まってきて食べ物を供養してくれたそうです。


猿が給仕してくれたという不思議な出来事は、この山の「山王権現」のおかげだ、と日蓮聖人は言われたそうです。


山王権現様はこのお山の守り神です。


左に権現様をお祀りする祠、右に多宝塔

その後、日蓮聖人が鎌倉で布教を始め、念仏者達から反発を買った結果起こった「松葉ケ谷の法難」の時も、猿が日蓮聖人を導き、ここの山に避難できたといいます。
山王権現様とお猿たちのご加護でしょう。

僕の干支は申なんで、何だか嬉しいです!


日蓮宗のお寺でよく見かけますね~。
動物の慰霊碑。
ウチの菩提寺にもペットの墓所が設けられています。

ここ法性寺に来て、日蓮聖人が動物を大切にする理由がよくわかりました。


それにしてもね~、ど~しても気になるお屋敷があるんです。
この巨大な洋館!!!

逗子では「サリーちゃんの館」と呼ばれているそうですが、誰も洋館の主を見たことがない・・・とのことです。
法性寺を訪問したら、洋館の威容を感じる事ができますよ~!!


今週の講中~!
山王清浄講中~!


山王権現様の多宝塔を建立した方々のようです。
感謝、感謝です。

昭和50年・・・今から40年くらい前ですよね。
まだ存在するのかな?

お穴さま(横須賀市深田台)

2017-03-06 11:30:00 | 旅行
先日訪問した米が浜の龍本寺
この龍本寺にとても関係の深い、大事なご霊跡をレポし忘れていました。
龍本寺の前身は御浦の法華堂ですが、そのもともとのはじまりは米が浜の岩窟、「お穴さま」でした。



横須賀共済病院の前身は、旧海軍で働く労働者のための病院でした。
今は横須賀地区の基幹病院としてそびえ立っています。


その西の丘の上に、龍本寺があります。


横須賀共済病院の裏側から龍本寺に至る細い坂があります。
「裏坂」
・・・そのまんま(笑)


その坂の途中に、「お穴さま」と呼ばれる岩窟があります。
石渡左衛門尉の助けを借りて米が浜に上陸した日蓮聖人が、まず籠られた岩窟です。


周囲は崖崩れ防止の補強をされており、残念ながら往時の雰囲気は少ないようです。


お経を読んでいる日蓮聖人の像が祀られていました。
お花が供されており、お線香の香りが漂っていました。
多くの信徒の方々が参詣されているようです。

日蓮聖人はこの岩窟に計3×7=21日間もお籠りになり、祈祷や近所の方へのお説法をしたそうです。
石渡左衛門尉も、このとき日蓮聖人に帰依されたようです。


祈祷の最後の日に、この岩窟に龍神が現れたことが、龍本寺の寺名の由来だそうですよ。
いずれにしても清澄、旭ケ森と並ぶ宗門のはじまりの、大事な大事なご霊跡です。

これからも時々、お参りに来たいと思います。

腰懸山實教寺(葉山町一色)

2017-03-05 19:41:04 | 旅行
お寺には大概、「山号」っていうのがありますよね。
そのお寺にまつわる地名であったり、開基となった檀越の名前であったり・・・
また、日蓮聖人が訪れた先で残した逸話なんかも山号の元になっています。

このお寺の山号は、とても個性的です。異彩を放っています。
いや~、僕も一日で辿ってきて、もう疲れ果ててるんですが、三浦半島横断、なかなかハードっス!

日蓮聖人も山道を歩かれてきてお疲れになっていたのでしょう、葉山の海が見える頃、石に腰かけたそうです。これが實教寺の山号のルーツです。


大きなみかんの木が印象的なお寺です。


入口に六地蔵が祀られています。
衣笠の大明寺にもありましたよね!
六地蔵の横には慈母観音。


境内に庚申塔がありました。
町の重要文化財になっています。


みかんの木が、屋根がわりになっています。
とてもやさしい雰囲気です。


本堂です。
屋根の最上部、よく鬼瓦が付く部分の上が左右に飛び出してるのは、何ていう造りなのかな?


「日蓮大聖人 御休息腰掛石霊場」
・・・残念なことに、腰掛石そのものを見つけることはできませんでした。


「古将墓」
墓石に由来が刻まれていました。

昔、葉山の御用邸を作る時に、整地をしようと地面を掘ったら人骨が多数出てきました。周囲の発掘品や、発掘された場所から、これらの人骨は合戦で命を落とした武士達のものだと推定され、實教寺にお墓を作って供養した、的な事が刻まれていました。


他にも境内には
「幸龍王宮」
龍神様を祀っている祠だと思われます。


「太元明王」
この明王様は・・・う~ん、わかりません。


そして・・・
「久遠堂」というそうですが、


扁額は京都の大本山・本圀寺のお上人による書です。
す、すごいな・・・


お!・・・菊の御紋!!!
とはいえ、本当は何で菊の御紋を付ける事が許されているのか、今の僕の知識ではわかりません。
これからいろんなご霊跡を見てゆく過程で、わかってゆけばいいと思っています。


境内から相模湾が望めます。


海側に下ってゆくと、水平線に江の島!
鎌倉まであと一歩、というところまで迫ったこの地で、こののどかな景色を眺めながら、日蓮聖人は何を思ったのでしょう。


講中ひとつみっけ!
惣講中~!
惣菜の「惣」でいいんだよな~?
どんな人たちの講中なんだろう?調べてみよう!

惣・・・農村の自治組織のことのようです。確かに「惣領」なんて単語、ありますもんね!

ひとつお利口になりました~。

不動滝・不動堂(葉山町木古庭)

2017-03-05 16:20:23 | 旅行
日蓮聖人は高祖坂を過ぎて「不動滝」に立ち寄ったという噂を耳にしましたが・・・
本当に三浦半島に滝なんてあるんでしょうか?
神奈川県に50年近く住んでいますが、聞いたことがないぞ!!

まあ、ダメもとで行ってみましょうか!


本圓寺をあとにして20分くらいでしょうか、今の県道27号線をはさんだ反対側の山の中腹まで歩いてきました。
古道には庚申塔とか石仏がところどころにあります。
昔はこれらが道しるべの役割をしていたんでしょうね。
大沢の庚申塔です。


その対面には
観音様なのかな?石仏がありました。
香の花が供され、小さい卒塔婆もありましたよ。


あれ?のぼり・・・


「不動尊 不動滝 並 不動堂」の看板・・・!
そういえば水が落ちる音が!


これか~~!


「木古庭の不動滝」です。


脇に「不動明王」の石像があります。
滝の高さは5mくらいかな~?
だけど立派な滝、滝壺に勢いよく水が落ちています。


よく見ると石が滝に続いている・・・
滝行!!やる方がいるんだろうな~


この滝の由緒が刻まれている石があったのですが、ほとんど読めませんでした。


なになに?
「畠山重忠が三浦一族を攻める時に、不動明王を勧請したら湧いた滝で、

一時水が枯れそうになったが不動明王に祈ると、水量が復活した」的なことが刻まれていました。
「この不動尊は本圓寺の寺域」ともありました。


この近所に不動堂があるそうです。行ってみましょう。
おおっっ!!キジが出た~!
山に逃げて行きました。



「ガサガサッ!!」
あわわ!タイワンリス!


野生動物の歓迎を受けて到着~
人の気配の少ない山の中にしては立派なお堂です。


「不動堂」


ここにも不動明王の石仏が


本圓寺の所有、ってことは管理も大変なんでしょうね。
頭が下がります。


不動明王を勧請した畠山公一族の顕彰慰霊碑です。


いやはや、本圓寺さんとそのお檀家さん、さらにはご近所さんのご苦労があって、21世紀の今でも僕らは往時を偲べるわけです。
日蓮聖人が歩かれた道は、いろんな意味で感謝の道ですね。


もう少しで相模湾沿いに出ます。
鎌倉も近くなってきた!

大明山本圓寺(葉山町木古庭)

2017-03-04 19:08:15 | 旅行
高祖坂・高祖井戸をあとにして、山道を進みます。

急に視界が広がりました。
三方を山に囲まれた地にあるのが本圓寺です。


古そうな法塔が真新しい台座の上に立っています。


こちらにも!


入口です。
「日蓮大聖人 御霊跡」とあります。


山門は工事中でした。


職人のおじさんが屋根の銅板を葺き替えていました。


後日、再度訪問すると立派な山門が出来上がっていました!


山号は「大明山」です。


本堂です。
もともとここには伊豆から来た僧侶が庵を構えていたそうです。
米が浜から衣笠を経てここ木古庭にいらした日蓮聖人は、数日間滞在されたそうです。


歴代お上人の御廟を参拝しました。


開山は九老僧の一人、日印上人です。
九老僧ということは日朗上人の優れたお弟子さんで、日蓮聖人から見たら孫弟子にあたるお上人です。


日印上人はもともと越後・寺泊の出身で、幼名は摩訶一丸です。
「高祖日蓮大菩薩御涅槃拝図」(大坊・本行寺で購入)にも摩訶一丸が描かれています。

日蓮聖人が佐渡に渡る直前、寺泊で日蓮聖人に会い、弟子になりたいと申し出たそうです。
8才の子供がですよ~!ちょっと我々の感覚からは想像できません・・・


日蓮聖人もこの子の利発さ、非凡さを見抜いていたのかもしれません。
じきじきに「摩訶一丸」の名前を与えられたそうです。

のちに摩訶一丸は日朗上人に師事しました。
有名な鎌倉問答(1318年、鎌倉幕府の命で行われた各宗の問答対決)で全ての宗派を論破し、これにより鎌倉での法華経の布教を、幕府が認めたといわれています。

日印上人の鎌倉問答と、のちの日像上人の帝都開教により、日蓮聖人の教えはようやく、天下公認のものとなったのです。


日蓮聖人のご尊像に合掌。
何か、この日蓮聖人像は霊能力を発しているような雰囲気を感じます。


高祖井戸を掘り当てたのも、わかります。


台座には日蓮聖人のご生涯を塑像にした絵がありました。
小湊でのご誕生の時でしょうか


鎌倉での辻説法ですね~!


伊豆の法難ですね。俎板岩


佐渡の塚原三昧堂ぽいですね。

こういう絵を描く?彫る?専門の方もいるんでしょうか?
上手い。頭が下がります。


日蓮聖人はこのあと、滝に向かいます。
「不動滝」です。
三浦半島に滝があるなんんて聞いたことがありませんが・・・

とりあえず行ってみましょう。

高祖坂・高祖井戸(葉山町木古庭)

2017-03-03 19:57:26 | 旅行
横須賀から鎌倉に至る道のりは、細かいアップダウンの連続です。
高い山こそありませんが、それこそ鎌倉時代は舗装されていませんし、大変な思いで歩いたんだろうな~


葉山に入り、木古庭という場所に出ました。
横浜横須賀道路が南北を貫いています。


本圓寺に続く坂道は、日蓮聖人が歩いたことから「高祖坂」と呼ばれています。
日蓮聖人はこの近くに数日滞在されたそうで、その間に切り開いた道とも言われています。


坂の途中に「高祖井戸」の看板が!
行ってみましょう。


こんなところを入ってゆきます。


付近は竹林!
イノシシがつい最近、タケノコを物色したっぽい痕跡があって、緊張しました~
出没しないでくれよ~!


昼なお薄暗く・・・ん?
井戸かな~?


「高祖井戸」です。
日蓮聖人が不思議な力で掘り当てた、とも言われています。
井戸の屋根に長柄杓があり、水をすくえます。

・・・お!!!澄んだキレイな水!

飲む勇気はなかったですが、手を洗わせて頂きました。


井戸の横に石柱がありました。
「高祖御硯水旧跡」と刻まれているようです。
ご入滅のご霊跡、池上の大行寺にも御硯水、ありましたね!
ここに滞在中にお手紙を書かれたのでしょうか。


それではここからほど近い、日蓮聖人が開山された本圓寺に移動しましょう!